第29話 出ました出ました!
「羊さん出ないかな」の巻でお知らせしました第137次調査。無事にほぼ完了し、史跡西側に空けたこれまでにない長いトレンチ(試掘溝)は、色々な新しい事実を明かにしてくれました。
このあたりが奈良時代の斎宮の中心部分かな、という所、つまり旧竹神社跡の森の中では掘立柱の大型建物が出ましたが、その周囲は竪穴住居跡ばかり。これが斎宮の中心だとすれば、奈良時代前期にはあったはずの斎宮寮の十三司は、竪穴住居を事務室にしていたことになってしまいます。そして大型の掘立柱建物も、廻りに塀などの目隠しが一切無く、柱も史跡東側(方格地割部分)の内院建物よりはるかに細い、といった具合で、どうも奈良時代の斎宮の中心とは考えにくいのです。おそらく内院はもっと南側にあったんじゃないかな、という雰囲気になってきました。
遺物は…遺物は、私見では、やはり奈良時代の土器が多いようです。小型の土師器(はじき、つまり弥生土器の系譜を引く素焼きの土器ね)甕が多いようにも思えます。
墨書は…残念ながら、奈良時代の土器には無かったようです。
そして、土壇場で出たのですよ~~。現地説明会のなんと二日前。
「金銅装の帯飾りの金具『巡方』」が出土
緊急でニュースを流した広報担当の学芸員、調査担当の学芸員、ご苦労様でした。
ところでこれが出土した時、五位以上の官人の帯飾として発表したのですが、その後、色々な事例を検討した結果、馬の飾り帯に付く装飾と考えられるようになりました。何だ、人じゃなくて馬か、という感じもするのですが、これは結構大変なことなのです。
金銅の馬飾りというのは、5~6世紀の古墳などの遺跡から割合によく出土します。しかし、8世紀、奈良時代になると、こうした馬飾りはほとんどなくなってしまい、これまで確認されているのは、平城京の一例だけなのだそうです。
この変化は、奈良時代という官人制社会の中ではじめて理解可能なものです。つまり、古墳時代には、姿や形にいかに「金をかけているか」が身分の表象だったわけです。だから奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の遺物が典型的に物語るように、金ぴかの冠や馬飾りなど、色々な装飾品が重視されるわけです。例えて言えば、一目で高価とわかる金銀宝石のネックレスや指輪を身につけて歩いているようなものです。
ところが、奈良時代になると、身分は衣装の値打ちではなく、服の形と色で表わされるようになります。官人にのみ認められている衣装を、その官位を表わす色に染めて着る、そのことが彼の社会的身分を表わすこととなるのです。つまり、装飾は、彼が国家にどれほど重視されているか、の現れとなり、分を超えた装飾は不遜とされるわけです。これも例えていえば、一見地味だけど、じつはなかなかの収入がなければ手に入らない、社会からその価値を認知されたブランド品を身につけているのに似ています。
そうした時代に、金銅の馬飾りにどういう価値があるのでしょうか。それは、特別の儀式用の礼装だったと考えられます。平安時代の史料になりますが、五月五日の競馬の節会の馬飾りに五位以上には金銀製品を使うことを許す、という記録が『続日本後紀』承和9年(842)に見られます。つまり、平安時代には、馬を飾ることは、天皇に許された特権となるのです。おそらく奈良時代でも同様、いや、その規制はもっと厳しかったものと考えられます。
とすれば、この馬飾りはいったい誰が使っていたのでしょうか。
『延喜斎宮式』によると、斎宮の男女の官人には、群行の時に馬が与えられます。だから斎宮では、大量の馬がいたはずで、その管理が「馬部司」の重要な仕事だったと考えられます。しかし単純に言って、六位以下の斎宮寮の官人が自分の馬に金銅製装飾を使えたとは思えません。最低でも、従五位の官である斎宮寮の長官(斎宮頭)や、女官長である内侍(命婦とも)でないと無理でしょう。
しかし、斎宮で飾り馬の「見せびらかし」ができるのは、群行を除くと、伊勢神宮に行く時ぐらいです。そんな時に過剰装飾の馬に乗るような「不遜」な真似をするかなぁ、という疑問もあるのです。
だとすれば、案外この馬飾り、恐らく斎宮で最も大事にされた馬、つまり同じく『延喜斎宮式』に見られる「御馬」、そう、斎王の馬に関係するものだったりして…という可能性もあるのです。もしも斎王に関わるものとすれば、斎宮頭のベルト飾りより大発見、ということになります。
うーん、面白いことになってきたっ!
(主査兼学芸員 榎村寛之)