第8話  縁は異なもの

 早速ですが、雑誌「COBALT」の6月号で、作家の氷室冴子先生と対談をしました榎村です。

 以前あるエッセイストが、日頃しょっちゅう口に出していると、ひょっと実現することもある、ということを書いていました。本当に世の中というのはたまにそういう不思議なことをしてくれるものですね。

 斎宮歴史博物館はご承知のようにのどかな所にあります。今でも春はヒバリが鳴いてるし、夏の蛍、秋のマツタケこそみたことはありませんが、冬には天文観測の穴場となり、博物館の周りにはキジもタヌキもいるらしい、という具合。最近話題のタンポポだって在来種がほとんどでセイヨウタンポポは少ないぞ、という位です。だからひょっこりと有名人が来る、ということがまずありません。

 覚えている限りでは、1990年にOSK(日本歌劇団)が里中満智子さんのマンガ「天上の虹」を舞台化した時に、関係者が見に来られたらしい、ということ(私は不在だったのでお会いはしていないのですが)、テレビの旅番組の取材で根上淳・ペギー葉山ご夫妻が来られたこと、本館映像展示「伊勢の野の栄え」のナレーターの苅谷俊介さんが来られたことなど。近鉄の旅番組「真珠の小箱」の取材は二回あり、そのほかテレビの取材は数多いのですが、こういう風に、有名人が来るという機会はほとんどなかったのです。

 でも、そこはテーマ博物館という特殊性、ここでなければならない、ということもあります。例えば、宝塚歌劇が伊勢物語をミュージカル化した『花の業平』を製作した時に、オファーを流したら斎王恬子内親王役の琴まりえさんが役づくりのため来館された、というのもそうした大きな出来事の一つでした。
 さて、開館して間もなくのこと、私は氷室さんにお手紙を出したのですよ。こういう博物館ができました、と。

 私の専攻はもともと平安時代史ではありません(ほんとは奈良時代以前の方が好きなんだよ〜〜〜)。しかし三重県に着任した当時、すでに斎宮の展示は平安時代中心で行くという既定路線があったので、平安時代の勉強も始めたわけです。格好の教科書になったのが、故・土田直鎮先生と、故・棚橋光男先生の、中央公論・小学館版の『日本の歴史』だったのですね。そしてこうした研究成果を展示にどのように生かしていくか、平安時代をわかりやすくするにはどうしたらいいか、と考え、色々な平安時代小説を探したのです。でも、『源氏物語』の翻案はどれも格調が高すぎて、もう一つ親しみにくい。橋本治さんのも悪いけど性に合わない。夢枕獏さんの『陰陽師』は当時まだ無かったんじゃないか??正直口にあったのは田辺聖子さんの『新・源氏物語』と、光源氏を主人公にしたオリジナルストーリーぐらいでした。

 そうした中でふと思い出したのは、大学時代の友人に勧められてさらっと読んだことのある氷室さんの「ざ・ちぇんじ」。「とりかえばや物語」の翻案で、たしか「とりかえばや」の講談社文庫と同時並行に読んだ覚えがあります。当初はたかがジュブナイル、という気持ちも正直あったのですが、試しに読んでみたら嵌ったはまった。読みやすいし、原作のポイントをよく押さえて、しかもジュブナイルとして品よくまとめているのに驚いてしまったのですね。しかし氷室さんの平安時代作品のもう一方の旗頭、「なんて素敵にジャパネスク」は原作なしの完全なオリジナルなので、あまり期待することもなく、またそのうち、と思っていたのでした。

 そんなこんなでふと手に取ったのが運の尽き?ちょうど開館直前の最終打ち合わせに、東京・京都・奈良と走り回っていた時期でもあり、京都から松阪への片道の時間位で一冊、という読みやすさに次々と冊数を重ねていったのでした。そして読み進めば進むほど、貴族社会をきっちりと把握した上でのストーリー展開に、たちまちのめりこんでしまったのでした。それも当然、考えてみれば、型破りの姫を登場させるためには、「普通の社会」を整然と描いておかないと様にはならないはずなのです。

 こうして、氷室・平安時代イメージは、間接的ながら展示にも微妙な影響を与えました。そしてやっと開館した後、お礼がてらに問題の手紙を出したのでした。
 ところがこれが意外な波紋を呼びました。「ジャパネスク」のあとがきでこの手紙のことが取り上げられ、そして氷室さんはこの件をずっと覚えていらしたのです。「ジャパネスク」は版を重ね、新装丁版も出て、そのあとがきにも斎宮のことをふれた部分があります。
 一方私は、博物館で何かの企画があるたびに、氷室さん、氷室さんと言いつづけ、ついに2年前、博物館のリニューアルオープンの時、FM三重とタイアップしたイベント企画の検討時点で、招待案を通してしまったのでした。

 そしてイベント当日。氷室さんは予想通り、否、予想以上に親しみやすく、話題の広い方でした。もちろん盛会裏に終わったのですが、その後も覚えていただいてたんですね。突然COBALT編集部からの電話で、対談が申し込まれたのは今年の初春のことでした。
こうして何とCOBALTに写真入りで載ってしまったのです。じつは活字化されたのはほんの一部分で、もっともっと面白いオフレコの話もあるのですよ。歴史の裏話とか、新作の構想とか・・・、でも個人情報なので、教えてあげません。
 
 言いつづけていると、いつか実現する夢もある、という本当の話でした。

(榎村寛之)

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