第48話  斎宮百話 女性に名前をたずねるなんて…

 博物館には、お手紙、メール、フェイスツーフェイスなど、いろいろな形でご質問が寄せられます。その中で最も多いご質問について、今回は一発回答。
 平安時代の女性の名前は音読みか訓読みか?
 博物館では斎王の読み方を訓読みにしています。例えば「規子」は「のりこ」「当子」は「まさこ」などという具合です。しかししばしば、次のような問い合わせがあるのです。
「紫式部がお仕えしたのは藤原ショウシ(彰子)中宮で、清少納言がお仕えしたのは藤原テイシ(定子)皇后と習ったのですが」
 じつはこれらの名前の読み方は、あくまで便宜的なものです、音読みも訓読みも。
       
 平安時代の貴族女性の名は、九世紀の前半、おそらく嵯峨天皇の時代くらいから、○子、○姫などの形がほとんどになり、それ以前に見られた大伴阪上「郎女」、縣犬養広「刀自」などの名は、あるいは百済王明信、和気広虫など、男か女かわからない名前は貴族の中からは消えていきます。つまり名前のジェンダー(社会的な男女差異)が明確になったのです。一見すると現代風になったようですが、問題なのはこの読み方なのです。
 例えば、文徳天皇の妃で、清和天皇の母は藤原明子という人ですが、この名は「あきらけいこ」と読むことがわかっています。あるいは、その清和の妃であり、在原業平の恋人だったのは藤原高子で「たかいこ」でした。いずれも簡単には読めません。
 また、平安時代初期には「有智子」「多可畿子」「須恵子」「可多子」などという名があり、それぞれ「うちこ」「たかきこ」「すえこ」「かたこ」と読まれていたことがうかがえます。ただし「可多子」には「カタノコ」と後世の振りがなが入っている本もあり、「うちのこ」「すえのこ」の可能性もあります。
 いずれにしても訓読みで読んでいた可能性が高いのですが、ではどう読むのかとなると、「○子」さんの場合、読み方を記した本が残っていない限り、全くわからないのです。
 一例を挙げます。映像展示『斎王群行』に出てくる斎王「良子内親王」は、ふつうなら「よしこ」と読みます。しかし、昭和天皇の皇后(皇族出身)に「良子」と書いて「ながこ」という例があり、あるいは貴族社会ではそういう読み方をするのではないか、ということで、本館では開館当初から「ながこ」としていました。すると、数年前、彼女の読み方が「長」、つまり「ながこ」だということを記した史料が学界に報告されたのです。
 この場合は大正解。

 しかし、他の斎王の名となると、正直全く当てになりません。ちなみに本館での付け方としては、その字の意味から、縁起のいいものを選び、その名にする、という方法を採っています。例えば、斎宮女御の徽子女王の場合、『大漢和辞典』によると、意味は、「むかばき・三つよりの縄・一般的な縄・たばあるいは束ねる・止める・琴の絃や琴節・かなでる・よい、うつくしい・揮う・しるし、はたじるし・匂い袋」などでしたので、「よい」から「よしこ」としたわけです。「うつくしきこ」でも「うるわしきこ」でも、意味的には使えます。
 ただ、このやり方で行くと、漢字は嘉字といって、良い意味のあることばを選ぶものですから、「よしこ」とか「やすこ」ばかりになるのが難点です。実際、斎王の名も、「よしこ」さんばかりになってしまいました。
 そういうこともあって、国文学の世界を中心に、音読みで読むという方法が使われてきました。おそらく明治初期からといわれています。

 というわけで、音で読むのも訓で読むのも正しくないのです。研究者の中でも、「どう読むかわからないのでなるべく近い雰囲気の訓読みで読む」という人と、「どうせ間違った読みしかないなら、より便宜性の高い音読みで読む」人に分かれています。
 ところで、斎宮歴史博物館には面白い本があります。文政十一年(1828)頃の宮廷人の名簿で、その中に、女官の名がふりがなつきで書き上げられているのです。それを見ると、普通の読みの人もいるにはいるのですが、やはり難読名のオンパレードになっているのです。
 ではここで問題、次の名は何と読むのでしょうか。
まずは天皇(おそらく仁孝天皇)の仕えていた「内女房」の部からの難読さんです。
 誠子・徳子・雅子・兄子・亀子・敏子さん
いかがでしょう、普通なら「まさこ・のりこ・まさこ・あにこ・かめこ・としこ」という所でしょうか。ところが実はこうなっているのです。
 誠子=みちこ、徳子=なりこ、雅子=なをこ、兄子=さきこ、亀子=ふみこ、敏子=たつこ
 どこをどう読んだらこうなるんだ、という名前ばかりです。
 次に女官より、命婦の敬子、女蔵人の栄子、都子さん
敬子はしずこ、栄子はひさこ、都子はくにこ、です。尊敬される人はしずしずとしているのでしずこ、栄えることが久しくあれ、でひさこ、都は国の中心だからくにこ、かなあ、などと考えてしまいます。
 次に上皇(おそらく仁孝天皇の父、光格天皇)や皇太后(おそらく母の欣子内親王)、女御付きの女房から連続して
 正子・准子・養子・康子・臣子・陳子・業子・善子・永子・庸子さん
一気に読むと
 なをこ・なみこ・くみこ・ひらこ・くみこ・ひさこ・ことこ・たるこ・はるこ・のぶこ

 どうです、一つでも読めましたか。こういう名前が、全女房の三分の二はいるのです。多分、正しいとまっすぐだから「なを」、准ずる者は並のものだから「なみ」、養子は縁組するから「くみ」とか、ほとんどクイズのように読んでいたものと考えられます。
 この中には平安時代の女性と同名の人もたくさんいます。例えば斎王と同名さんでは、雅子(なをこ)・敬子(しずこ)・善子(たるこ)がおり、有名どころでは、平清盛の娘で高倉天皇の中宮、安徳天皇の母の平徳子が挙げられます。徳子については「トクシ」また「のりこ」と読むのが普通でしょうが、なぜか古くから「トクコ」と読まれることが多い人です(よく覚えているのでは、1970年代の大河ドラマ『新平家物語』の最終回に、後白河法皇〔滝沢修〕が尼になった建礼門院〔佐久間良子〕が隠棲する大原の里を訪れ「わしは寂しいぞよ、トクコ」と言っていたことです)。これなど「たいらのなりこ」ということになります。
 しかし、江戸時代にこの読みの人がいたから、単純にこれが正しい、ともいいにくいのです。今のところは、やはり如何様な読み方も可能、という感じなのです。
 ところで、これらの女性のうち、内女房を除いては、全てこんな具合に付記があります。
  伊予    相模    新大納言
これらは女房の通称で、彼女等は、例えば「しずこさん」とか「ひさこさん」とか呼ばれることはほとんどなく、宮廷では「伊予さん」とか「相模」さんとか「新大納言さん」と呼ばれていたようです。
 このような呼び名は、まさに「清原○子」さんを「清少納言」、赤染○子さんを「赤染衛門」、相模守の娘源○子さんを「相模」、伊勢守の娘藤原○子さんを「伊勢」と呼ぶのと同じで、平安時代以来宮中で使われていた呼び名のルールがずっと生きていたことを示しているのです。
 とすれば、彼女らの不思議な本名はほとんど呼ばれていなかった可能性が高いのです。本名は諱(いみな)といい、これは忌み名の意味で、使用が避けられた名、ということですから、実際に使われることはほとんどなかったのかもしれません。あるいは字が知られても読めないように、わざと判じ物みたいにしていたのかもしれません。
  「はじめまして、榎村といいます。失礼ですがお名前は?」
  「山田です。」
 初対面の女性の「名前」をたずね、その答えが返ってくる、という情景は、およそこんなものではないでしょうか。
 「はじめまして、私は榎村寛之といいます。エノキの木のエに村、寛容の寛にひらかなのえ、みたいな字の之です。あなたのお名前は」
 「山田貴美です。山田は山の田んぼ、貴美は貴族の貴に美しいです。」
といきなり自己紹介する人はあまりいないと思います。今でも初対面の女性にいきなり名前をたずねることは、何となくはばかられるものです。少なくとも日本の社会は、男性・女性とも下の名前がなくても付き合っていけるようになっています。
 このように、貴族女性の名前は、訓読みされていたことは確かですが、その正しい読み方はわからない、というのが正解なのです。

 なお、その意味で面白いのは内女房に通称が記されていないことです。内女房は天皇にのみ仕える女房で、お妾さんになることもありましたから、本名で天皇から呼ばれていたのかもしれません。
「あ〜ゆうべの儀式の宴で呑みすぎてお痛おす〜、よしこはーん、お〜」
…まさかそれはないか…。

(主査兼学芸員 榎村寛之)

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