第23話 罪作りだよ?『倭姫命世紀』
ここに『斎王の道』(向陽書房 1999年)という本があります。別に恨みがあるわけではありませんが、三重県が行った「斎王・夢群行」の報告書みたいな本なので、まあ内輪の資料ということで。
この中の「垂水頓宮跡と滝樹神社」という節にこういう一節があるのです。
「頓宮跡と境内を隣接するようにして甲可日雲宮と伝える旧蹟がある。倭姫命が天照大神の神霊を祀る地を求めて各地を歩いた時、伊賀から甲可の日雲宮に写り四年いて次の坂田の宮に遷ったと、伊勢神宮の起源に関して『日本書紀』に記された。この甲可日雲宮がどこにあったのかをめぐっては諸説があり、甲賀郡内に七カ所の候補地があがっている…」
ところが『日本書紀』垂仁天皇二十五年条、いわゆる伊勢神宮起源伝説は、次のようになっています。
「天照大神を豊鍬入姫命より離ちまちりて、倭姫命に託けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の筱幡に詣る。更に還りて近江国に入りて、東のかた美濃を廻りて、伊勢国に到る。(『日本古典文学大系 日本書紀・上』より)」
このように、近江国は通過するだけで、甲可日雲宮などどこにも出てこないのです。では、どこに出てくるのか?答えは『倭姫命世記』という本なのです。
「(垂仁天皇の)四年乙未、淡海ノ甲可ノ日雲宮ニ遷りたまひ、二年斎き奉る(『日本思想体系 中世神道集』)」これが出典。
では、『倭姫命世記』とはどういう本か、これは鎌倉時代にできた伊勢神宮の神道書なのです。『国史大辞典』によると、成立時期は鎌倉時代初期から中期、中世に成立した伊勢神道の教理書である「神道五部書」の一つとされています。
つまり、この話は中世に成立したらしい、というわけです。しかし、話自体はもっと古いかもしれません。そこで参考になるのは、『皇太神宮儀式帳』つまり平安時代初期にできた伊勢神宮の儀式帳に見られる神宮の起源伝説です。
しかしここでも倭姫命は、伊賀穴穂宮から阿閉柘植宮を経て、淡海坂田宮に、そして美濃伊久良賀宮から伊勢国に入っているのです。『日本書紀』よりはやや詳しいのですが、甲可日雲宮についての話はここでも見られません、つまり倭姫命が甲可日雲宮に立ち寄った話は、平安時代初期にはまだ出来ていなかったのです。
このように、今では、倭姫命の伝説は、平安から鎌倉にかけて、『日本書紀』に見られる単純な形から、神宮の中でどんどんふくらんで、ついには『倭姫命世記』に見られるような詳細な旅に発展していったものと考えられています。
つまり、『斎王の道』の不思議な記述は、典拠史料の単純なあやまりなのですが、実はこれがあまり単純な話ではないのです。世間の「伊勢神宮通」と称する人には、意外に『日本書紀』と『倭姫命世記』の区別がつかない人が多いからです。たとえばマスコミや、時には有名な学者先生が、倭姫命伝説をあたかも古代以来変わらないものとして取り上げることがあるのです。たとえば、『倭姫命世記』が史実どころか「古代の伝説」でもなく、「中世の伝説」として意味があることさえ気がついておらず、『倭姫命世記』から復元した地図を乗せて、「2000年前の初代斎王倭姫命の事跡の検証」なんてことを平気でしているのです。
しかも、この『倭姫命世記』の伝説は、おそらく平安時代末期以降、神宮の御厨(みくりや)と呼ばれる荘園が各地に広がったことや、室町時代以降に御師と呼ばれる下級神職が各地で伊勢信仰を広めたことと関係するのでしょうが、意外に広く浸透していたようで、倭姫命が滞在したという宮の伝承地が、岐阜や滋賀や三重の各地に点在しています。甲可日雲宮もその一つというわけです。しかし、ことが史実ではなく伝説なので、どこがその場所か、というのは、いわば「弘法大師の掘った井戸」の伝説から空海の事跡を検証したり、「金色夜叉・寛一お宮の松」や「南総里見八犬伝・伏姫と八房の暮らした富山の洞窟」の場所を探すのとと同様で、ロマンはともかく、あまり意味のあることとも思えません。
でも博物館には時々問い合わせがあるのです。倭姫命のいた○○宮はどこかって。そういう時に私は、「この伝説は中世の物で、作者も具体的な場所まで想定はしてないと思います、だから遺跡探しにはあまり意味はないですよ」と言わせていただくことにしていますが、たいてい怪訝な面持ちをされるか、がっくりされるか、のどっちかです。
さらに、倭姫命の次の斎王の「五百野皇女」についても『日本書紀』には、ほとんど記述がありませんが、『倭姫命世記』にはこの時に斎内親王に仕える物部八十氏の人々を定め、十二の司寮官を五百野に移して「多気宮を造り奉りて、斎き慎み侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群行ノ始め是也」とあります。つまり制度としての斎宮の最初は五百野だとしているわけですね。そしてこの、五百野についての伝説も、三重県内に見ることができるのです。どうもこれも『倭姫命世記』の影響なのでしょうね。
『倭姫命世記』が出来た頃の斎宮は、見る影もなく衰退し、まもなく伊勢に来なくなり、そのまま南北朝時代に廃絶してしまいます。それと入れ替わるように倭姫命伝説が拡大解釈されて各地に広まるのです。だから本館では、『倭姫命世記』にのみ見られる倭姫命伝説は歴史史料としては扱っていません。
斎宮のことがほとんど忘れ去られた後に、倭姫命の新しい伝説が生まれ、それが古代の「史実」であるかのように信じられて、現代にも影響を与えている、というのは、面白いことであるのと同時に、歴史って怖いな、と思うのです。
主査兼学芸員 榎村寛之