第2話  二月の祭、祈年祭によせて

 突然ですが、筆者は先日石垣島に行って来ました。(単なるバカンスじゃないよ。正月出勤したから家庭サービスが必要になったのです。その体験から、ふと気づいたことがあるので、書いてみます。

 『延喜式』という10世紀に編まれた本があります。律令の施行細則の集成なのですが、この中に斎宮についての式、つまり法文集成があり、斎宮についての基本資料となっています。

 さらにその中に、斎宮の置かれた多気郡と、伊勢神宮のある度会郡の神社についての記述があります。
 『延喜式』の中には、これとは別に通称「神名帳」と呼ばれる全国神社一覧があり、当時朝廷が掌握していた全国の神社、通称「官社」が書き上げられています。ここにも伊勢国多気・度会の両群の神社が書き上げられています。その二つの内容を比べて、これまでに次のようなことが分かってきました。

@多気郡、度会郡には異常に神社が多い。度会郡には58座の神が、多気郡にも52座の神が記録されており、お隣の飯野郡の4座、飯高郡の9座、志摩国など全体で3座などとは比べ物にならない位に多い。これは全国的に見ても大和国高市郡の54座、出雲国出雲郡の58座位しか例がない多さ。

A度会郡の神社のほとんどは伊勢神宮とその別宮、摂社である。三宅和朗『古代の神社と祭り』(吉川弘文館 2001年)は、内宮の摂社24社で間口2m 弱、奥行1.5m、高さ1.7m、外宮の摂社16社になるとさらに一回り小さい(間口1.6m、奥行1 m余り、高さ1m弱)、ほとんど祠サイズ。

B九世紀初頭に伊勢神宮で編纂された『神宮儀式帳』によると、度会郡には他に神宮の末社もあるが、『延喜式』には官社としては登録されておらず、建物はなかったらしい。

C度会郡の神宮摂社とその他わずかの官社、多気郡のすべての神社には斎宮から祈年祭の幣帛が配られる。『斎宮式』に列記されている神社はそのリスト。

D神宮の摂社には神宮からも祈年祭の幣帛が配られるが、斎宮からの方が量が多い。
祈年祭というのは、毎年二月四日に宮中で行われる祭りで、豊作を祈願して全国の官社 に朝廷から幣帛(神にささげる布の意味だが、実際には金属製品や食品も取り混ぜた神 へのプレゼント)を贈るというもので、斎宮には主神司という神まつりの専門部局があり、多気・度会郡についてはその業務を代行していたのです。
 つまり、平安時代には毎年二月には斎宮から地元の神社への大盤振る舞いがあったわけ。

 さて、この話が石垣島とどう関係するのか、という話なのですが・・・。
沖縄県、というより、琉球・八重山地方には、「御嶽」と書いて「うたき」「おん」などと呼ぶ、祭の施設があります。「うたき」は「おたけ」のなまったもの、「おん」は「おんたけ」の略称でしょうから、もともとは「神のいる山」という意味なのですが、平地にあるものが多いようです。祭る対象は色々で、国を生んだ神やら、農耕の神やら、航海安全の神やら、過去の偉人やら、怨霊的なものやら、その点は本土の神社とよく似ています。多くは集落の周辺にあり、面白いことに、そのそばに学校があるケースがしばしばあります。これは、日本の学校が運動場を必要とする関係から、人家の密集した集落の外辺に造られることが多いことと符合しています。ちなみに筆者の通っていた大阪の小学校の裏にも鎮守の社がありました。

 さて、これがどんなものかというと、高さ80cmほどの石垣で、大きくても50m四方位までの広場を囲い、その奥まった所に拝殿があるだけで、本殿はなく、拝殿とその裏の石垣を挟んで、自然の森、神木、自然石の磐座など、神がよりつくものがある、というのが普通の形です。そして拝殿はほとんどが平土間で漆喰壁の、目分量で間口5〜8m、奥行き5m、高さ3m程度の小ぶりなものです。ところが、石垣島のそばにあり、より古い形の生活習慣を残す竹富島では、この拝殿もなく、場を区切る石垣だけ、という御嶽がしばしばあります。そういえば拝殿には千木(神社の本殿の屋根の上に逆ハの字形に突き出ている材木)も置かれていて、琉球文化圏の名物、屋根の魔よけの獅子、シーサーも見られません。そして御嶽の入り口には鳥居が立てられているのですが、これが伊勢形鳥居という、明治以降に全国展開した鳥居なのです。ということは、鳥居と拝殿は琉球文化とは関係なく、沖縄県ができて以後に造られたもので、もともとは何もなかった可能性が高いように思われるのです。

 さらに言えば、石垣を造るという行為も結構手間なものですから、もっと古い時代には、広場と、神が寄る物と、その間の結界があるだけではなかったかと考えられます。
 そして面白いのは、それぞれの御嶽で祭の日が違い、例えば初詣などは行わないのです。(石垣島では島の西部にある観音堂に初詣をするとタクシーの運転手さんが言ってました。石垣の運転手さんはみんな親切で観光ガイドもできます。)つまり神様はふだんから御嶽にいるのではなく、祭の時にそこに呼んでくるのであり、だから平地にあっても「神のいる山」と呼ばれるわけなのですね。

 とまあこんなものなのですが、実はこういう形の祭の場は、「やまと」でも痕跡が見られるのです。例えば三重県でも見られる「山の神」は、平地に山の神の祭の場を設けて、祭の日にそこに神を呼んでくるというものです。また実際の神社でもよく似た事例を見たことがあります。三重県という所は明治に神社の統廃合が徹底的に行われ、神社の数が三分の一位にまで減らされた所なのですが、それでも一志郡嬉野町、三雲町などの平地では、古い痕跡と思える細かい神社が実に多いのです。それらはほとんどが集落の外辺や辻にあり、鎮守の森になっています。そして本殿は極めて簡略な、祠のような神明造(伊勢神宮の建築様式)で、歴史のあるものとは思えません。これらの神社の江戸時代以前の形は、御嶽の原型と同様の、建物のない祭の場のようなものではなかったかと思えるのです。 

 さて、ここで再び古代の話、多気郡・度会郡の神社の名を見ると、「大水神社」「礒神社」「坂手国生神社(国を生む神)」「江神社」(度会郡)、「国生神社」「魚海神社」「須麻漏売神社(星のすばるを祭る?)」、「天香山神社(大和の天香具山の土は神聖とされていた)」(多気郡)など、農耕とは関係ない神社が明らかに含まれています。これらの神が常に神社にいる神だったとf考えられません。ほかにもそういう神は沢山いたはずなのです。そして、八世紀に立派な正殿を持っていたことが明らかな伊勢神宮の摂社でも祠程度なのですが、多気郡の神社となれば、ほとんど建物もない、神木や磐座などの標がある広場のような所が多かったのではないでしょうか。つまり、『延喜式神名帳』や『斎宮式』に見られる多気郡の神社とは、ほとんどが御嶽や、嬉野町の小社の原形と同様の、臨時的な祭場だったと考えられるのです。

 ところが、こうした考え方と、祈年祭の考え方にはかなりの違いがあります。祈年祭は、いわば全国すべての神に農耕神としての性格を与えるもので、二月に神社にいることを「義務付けた」祭ということになります。伊勢神宮では朝夕に神の食事(御饌)が外宮で用意され、常に神が神社にいるものと認識されていました。これがいわば律令国家の理想とした神なわけです。だから祈年祭として定期的に全国一律の祭を行うのですね。

 そして伊勢神宮の神郡内の性格がばらばらな主な神々にも、国家神のお膝元として、一つの論理のもとに統制が必要と考えたのではないかと思えるのです。斎宮で行われる祈年祭は、古代には全国的にこうした細々とした、社殿を持たない神社が沢山あったこと、そして伊勢神郡については、こうした小社まで極力拾って統制をするというきめ細かい神社の支配が行われていたことを示しているように思えるのです。

 二月も近いので第2回は祈年祭にひっかけたお話にしてみました。

(榎村寛之)

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