第19話  斎宮に銭の花は咲くか?

 えー、今回のタイトルがわかる方は40才以上かな、という所です。
 先日、財布から500円玉を出そうとしたら、見なれないお金だったので、すわこそ偽コインか、と思ったら、昭和三十一年発行の50円玉で二度びっくりした、ということがありました。穴明き大型50円より前(つまり先々代)のお金がいまでも通用しているなんて、と感心したところで、今回はおゼゼの話です。
 皆様ご承知のように、奈良時代から平安時代前半にかけて、和同開珎から乾元大宝の、通称「皇朝十二銭」と呼ばれる銭貨があり、和同開珎などには銀銭もあり、また、富寿神宝という金銭もありました。さらにその前、七世紀後半に「富本銭」と呼ばれる銅銭があったことが最近明らかにされ、大きな話題になりました。そして七世紀後半には、「無文銀銭」と呼ばれる、文字も模様もない銀貨も知られています。
 さて、斎宮でも時々お金が発見されることがあります。
 富本銭や無文銀銭こそありませんが、和同開珎と最末期の銭の「延喜通宝」が斎宮から出ているのです。このことから、八世紀の前半から十世紀まで、斎宮では銭が「使われていた」ことがわかります。ただし…、
 それは貨幣として流通していたことの証拠ではありません。古代のお金は魔よけとか呪いの道具として使われることも多く、銭があるから流通していた、というわけではありません。富本銭だって、実用銭なのか厭勝銭、つまり魔よけのお金なのか、という議論があるのです。
 また、有名な和銅四年(711)の蓄銭叙位令のように、奈良時代には銭を貯めて国家に寄付すると位がもらえる、なんてこともありましたので、地方で銭がいらないようなところでも銭を蓄える人がいたりするわけで、銭貨が出土したからといって、流通していたとは言いきれないのです。ちなみに、奈良時代には銭貨は畿内近国、つまり今の近畿地方くらいでは流通していたが、九世紀に入ると、京とその周辺に限られてきた、というのが貨幣流史の一般的な見解です。
 さて、斎宮で出土している古代銭は、いずれも土器の中に収められた形で出土しました。つまり皿や壷に入れて土の中に埋めていたわけです。それも、ザクザクはいっていたのならともかく、枚数はせいぜい五〜六枚。つまり、貯金していたわけでもないようなのです。
 こうしたお金を入れた容器は、実は全国から出土するもので、その目的については二通りの説があります。一つは子供が生まれた時に胎盤や墨・筆などと一緒に埋めて健やかな成長を願うとする説、もう一つは、建物を建てる時のいわゆる地鎮で、土地の神から土地を買うお金だという説です。中世になると六道銭のようにお墓に埋める銭も出てきますが、どうもそれではないようです。
 このように、お金が出ているからといって、流通していたとは限らず、それに、例えば落し物のような銭は全く出ていませんので、本当に使われていたかどうかの判定は、割合に難物なのです。都から持ってきたのはいいけれど、休みの日に近所に立った市に行っても、全く銭が使えないので、魔よけにてしまった、なんとことがあったのかもしれません。
 しかし、単純にそうとも言えないのです。奈良時代、伊勢国安濃郡から調(布など物品で納められる個人税)が銭で納められたことを示す木簡が平城京で見つかっているのです。安濃郡というのは、今の津市とその周辺、津市といえば、安濃津として中世には賑わった港町で、古代でも太平洋航路の拠点の港だったと考えられている所です。そして、津から伊勢の大湊にかけては、伊勢湾内の海運を支える港が点々と立地しており、斎宮の北にも、「大淀のわたり」として『伊勢物語』に見られる大淀津がありました。
 こう言う立地を踏まえると、安濃津で銭が使えるなら、大淀津でも使えていたはず、という仮説もなりたちます。古代の斎宮に銭の白い花が咲いていたかどうかは、周辺の地域紙とも密接に関わる、なかなか面白い問題なのです。

(主査兼学芸員 榎村寛之)

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