第18話 斎宮の「お屋敷」
平安時代の始め頃、斎宮は東西1キロ、南北五百mにもなろうかという広々とした「宮」でした。でも、そこにどれくらいの人がいたかはよくわかっていません。
『延喜式』という文献によると、斎宮には500人を超える人が働いていたとされています。でも、それは今で言えば、正規職員とパート・アルバイトさん、という感じで、出入りの業者さんとか、無償労働をしていたような人まで数えているわけではありません。そもそも、そうした人が斎宮(方格地割)の中に入れたのかどうか、はよくわからないのです。また、官人が私的に使っている人たちなども当然数えられていないわけで、例えば、斎宮寮の長官の奥さんがお手伝いさんを使っていたかどうか、などと言う事はわかっていないのです。
そもそも斎宮寮の官人は単身赴任だったかどうか、ということですね。
地方国司でいうと、例えば万葉の時代の大伴旅人(家持の父)は、九州の大宰府に赴任した時には奥さんは連れて行かなかったらしい。でも地方官には、奥さんや家族も連れて行く人は多かったようで、例えば小野小町は、同じく六歌仙の一人文屋康秀が三河介になって赴任する時に、ついていってあげてもいいわよ、という感じの歌を送っていますから、平安時代の始めでも奥さんを連れて行く例はあったはずです。実際、国府の遺跡のそばには国司館と呼ばれる屋敷が大抵あって、国守以下の人々は、それぞれ家を構えていたと考えられます。当然そこには身の回りの世話をする人が必要で、たとえ奥さんがいなくても、現地の豪族の娘が出仕して、そのまま奥さんになって、とか、使用人がいて、またその生活があって、となるわけで、国司が一人でも沢山の人がその回りにいることになります。『土佐日記』は紀貫之が、女になったつもりで書いた紀行文ですが、内容から見て、国司夫人級の人で、子連れで土佐に行ったのに、その子をなくした、ということなので、家族での赴任を想定しているようです。
ところが残念なことに、斎宮ではいまだにそこのところ、つまり生活のにおいのする部分がわかっていません。方格地割の調査では、小字名が「御館」としているところで大型の建物が検出されたりしており、寮の長官の屋敷などは区画の中にあった可能性があるのですが、下級の官人や番上、つまりパートの人たちの生活の場などは全く分かっていません。御館にしても、はたしてそこが本来の生活の場なのか、区画の外にも別邸があったのか、などはわかりません。
ところが文献の方でいうと、有名な長元四年(1031)の託宣の時に解任され、流罪となった斎宮寮頭(寮の長官)の藤原相通は、これも流罪となった妻の藤原小忌古曾(古木古曾とも)と一緒に暮しています。この小忌古曾(『小右記』より。おみこそ、と読みたいが、『太神宮諸雑記』は古木古曾としているので、こきこそ、って読むと思われる。意味はわからない)は、伊勢神宮の神を祭ると称して、祠を作って、連日歌舞狂乱していて、藤原を名乗っていることから、地元の人とは思えません。出仕していなかったので「○子」形の名前をつける機会がなかったのではないか、と考えられます。とすれば、斎宮の周りには、仕事をしない奥さんたちもいたのかな、ということになります。とすれば、この事件の発端は、夫が仕事をしている間に、一人留守番の奥さんが退屈をもてあまして宗教に走る、という、今でもありがちなことなのかもしれません。
また、この少し後、永承四年(1049)頃になると、斎宮の女別当(平安時代後半に新設されたらしい、斎宮女官のまとめ役、内侍に次ぐ身分)に「家司」(つまり執事=ホームマネージャー)や雑色がいる、という記事があります。つまり女別当も独自の家政機関を持っていたことになるのです。このように、11世紀になると、斎宮寮の長官層や女官たちも、独自に家族や部下を抱えていたことはまちがいありません。
ところが平安時代のこのころの斎宮は、発掘調査では全くといっていいほど、その実態がわかっていません。このへんが文献と発掘のうまく合わない所で、今後の調査の期待される点でもあるのです。
(主査兼学芸員 榎村寛之)