第16話 映画「ハリーポッターと賢者の賢者の石」に寄せて
見てまいりました。話題の映画「ハリーポッター」。すごいすごいとは聞いていたけれどやっぱりすごい。何がって、博物館の展示に関わる問題がいっぱい詰まっているところが。
ともかく世間で言われている通り、原作者が徹底的に口を入れた、というのが随所に現れていました。キャスティング、ロケイメージ、鉄道やお店の描写、ほとんどが「原作のイメージ通り」つまり、原作が展示設計、映画が展示製作だとすると、すばらしい展示設計を見事に形にした展示製作だといえるのです。具体的にいくつかの例を挙げると・・・
小道具、つまり展示造作へのこだわりがすごい。例えばホグワーツ魔法学院に行く列車を引く蒸気機関車は、本当の急行用蒸気機関車と古典高級客車を利用しているし、ロケをする場所もいつの時代かわからない「魔法界」の雰囲気をよく出している。日本でも動態保存の蒸気機関車を映画に使うことはあるけれど、種類が限られていて、考証上おかしいことが多いし、客車ごと急行列車を復元するのは到底無理。イギリスのドラマなどを見ていても、こうした文化的蓄積のすごさにはいつも圧倒される。
ホグワーツ魔法学院をそれらしく見せていたのは、何と言ってもライティングの妙。今も使っている校舎を借りたというが、どこにもあるようでどこにもない雰囲気をかもし出した最大の効果はあのライティングだと思う。展示における照度の重要性を改めて確認する。
魔法の表現はCGや合成技術などを使えばほとんどできないものはない、というのが今の映画やテレビのうれしく、かつ悲しい所。しかしこの映画では、いかにしてストーリーを再現するかにこだわっているので、「特撮の見世物」になっていない。とくに「クィディッチ」という寄宿舎対抗(こういう設定がいかにもヨーロッパの学園者という感じでいいなぁ)の三次元ラグビーのようなスポーツを見せる所は、原作で描写されていた展開をいかに見せるか、に徹底的にこだわっていたので、十分魅力があった。
映画としては、伏線やら場面のつなぎにやや唐突な所があったのは事実です。しかしこれを原作という「図録」があって、それと補完しあう「展示」と考えれば、これほど魅力的な展示はちょっとないでしょう。原作の意図をここまで汲み取って再現してみせるというのは、やはりただごとではないと思います。
さて、ひるがえって、今の博物館はどうでしょう???
本館を含め、今の博物館の、特に常設展示は、展示業者による「演出」を抜きには考えられません。「こういうものを展示したい」「こういうことを伝えたい」と考えても、それが実行に移されるかどうかは、展示業者の手腕いかんにかかっています。もちろんディスプレイのプロですから、こちらが思いつかないようなアイデアや技法を次々に出してくる。たしかにそれはおもちゃ箱的で面白い、しかし、そこに「本来伝えたかったこと」が、十分に反映されているかどうか、時々疑問に思えるような博物館があるのも事実です。あるいは、コーナーコーナーは充実しているけれど、展示構成にメリハリがなく、ただ見ていると疲れるばかり、という博物館もあります。これはいわば、演出はいいけど「構成」に問題があるわけです。
映画という分野では、監督の意図が最優先されます。つまり、原作があっても、実際に画像化されるのは、原作そのままの世界ではなく、監督の内的世界になるわけです。しかし、ハリーポッターは、その二つを極限にまで縮めた映画ということができるでしょう。そこでは監督の個性は極限まで弱められるかもしれないので、映画作りとしては邪道になるかもしれません。しかし、芝居や映画やアニメなどで、原作にない設定が入ったことで、その風味が殺がれた作品がどれだけあったことか。その多くは、原作者と監督、あるいは製作者の意図や意識の違いから来ているのです。
さて、博物館でこれをあてはめるとどうなるか
原作・博物館
脚本・演出 展示業者
製作・展示業者およびその下請
監督・展示業者
となるのが普通じゃないでしょうか。この監督に原作者がどこまで口を出せるのか、どこまでその内的イメージを理解させるか、それが、「ハリーポッター」になるか、凡百のファンタジー映画になるか、の差になると思います。つまり、博物館での原作者たる学芸員には、展示業者を上回る豊かな内的世界と、そのイメージをうまく伝え、具体的な指導を行う能力が必要とされてくるわけです。
どこの博物館でもやってることは同じ、といわれる昨今、話題の映画を見て、そんなことを考えていました。
というわけで今年の斎宮百話はおしまい。20話まで行きたかったけど、少し届きませんでした。また来年もよろしくお願いしまーす。
(榎村寛之)