第13話  写本ってなんだろう?

 秋の特別展「斎王の読んだ物語」の幕が開きました。そこで今回は、その展示の最中に気づいた裏話を一つ。
 今回、色々な物語の古写本が展示されています。こういう写本を出すと、必ず寄せられる質問があります。
「何が書いてあるのですか」
「何かてよろしやん。字がきれいやったら」と言ってしまえれば大変楽なのですが、世の中なかなかそうはいきません。
 何しろ、二千円札が出たときに、裏に書いてある源氏物語の一部を「読んでくれ」という問い合わせが、各地の博物館に寄せられた、というくらい、古典ファンの方は真面目なのですよ。
 ちなみにこの一件、発行元の大蔵省(当時)印刷局では読まれることを全く考えていなかったらしく、この場面は、レイアウトの関係で、文章は上半分がカットされていて、文字を追っただけでは全く意味が通らないのです、そこで、何の関係もないが、「知ってそうな所」に問い合わせが集中した、というわけですね。
 さて、印刷が一般的ではなかった時代(うーまわりくどい、つまり、木版印刷は奈良時代からあるにはあるのですが、お経などごく限られたものなのですよ)、本は書き写しで普及していました。つまり、江戸時代以前の「本」とは、まず「手書きの写本」なのです。ところが、漢文と和文で、この写本というやつ、どうも少し意識が違っているらしい。
 まず漢文は、基本的に漢字が並んでいるわけですから、今の写経と大して変わりません。漢字を読み違えたり、行を飛ばしたり、あるいは要点だけを書き抜いた本にしない限り、全く同じ本ができあがるはずです。
 ところがかな文学の場合、それとは違うことが起こるのです。たとえば、今回展示している『住吉物語』の書き出しの場合
活字本(新古典文学大系 岩波書店 もとにしたのは慶長古活字本という近世初期の本)
 昔、中納言にて、左衛門の督かけ給ふ人おはしけり。妻二人、定め給ふ。
ところが、成田山仏教図書館本(鎌倉時代)では、
 昔、中納言にて、左衛門督かけたる人おはしけり。北の方二人兼ねて通ひつつ住み侍りけり。(原文:むかし中納言にてさゑもん乃かみかけたる人をはしけりきたのかた二人かねてかよひつつすみはんへりけり)
また、成田山仏教図書館本(室町時代)では、
 昔、中納言にて、左衛門督兼ねたる人侍けり。上二人を兼ねてぞ通ひ給ける。(原文:むかし中納言にて左衛門督かねたる人侍けり。うへ二人をかねてそかよひ給ける)
 おまえら真面目に写す気あんのかっ!と叫びそうになるほど微妙に文章が違うのです。 それのもっとすごいのが『枕草子』です。今回、学習院大学図書館より、江戸時代の写本(能因本)をお借りして、図録には「物語は」というところの写真を載せているのですが、その部分は
活字本(新古典文学大系 岩波書店 もとにしたのは陽明文庫蔵の写本)
 物語は、住吉、宇津保、殿うつり。国譲はにくし。埋れ木。月まつ女。梅壷の大将。道心すすむる。松が枝。こまのの物語は、古蝙蝠さがしいでて、持ていきしがおかしげなり。ものうらやみの中将。宰相に子うませて、かたみの衣など乞ひたるぞにくき。交野の少将。です。ところが、展示している本では
 物語は、住吉、宇津保のるい、殿うつり、月待つ女、交野の少将、梅壷の少将、国譲り、埋木、道心すすむる、松ケ枝、こまのの物語は古きかわほり差し出でていきしがおかしきなり。
 『ものうらやみの中将』はどこ行ったんじゃぁ、とキレそうになります。そして、活字本ではこの前は「文は」、後は「陀羅尼は」なのに、展示している本では前が「仏は」で後が「野は」なのです。
 流石にこれには、どこをどう間違うたらこんなにバラバラになるんじゃぁ、と爆発してしまいました。そして冷静に考えると、こんなことに気がついたのです。
 どうも、かな文学の写本には、「一字一句間違いなく写してコピーをつくる」という現代の常識とは少し異なる意識が働いているんじゃないか。たとえば、「こないしはったらもっときれいやのに」、とか言いながら、「おほほの貴族」や「おほほの女房」が好きなように添削しつつ文を写している、とかいった感じじゃないんでしょうか??
 とすると、みんなが知っているつもりの『枕草子』でも、『源氏物語』でも、もとの形なんていうのは本当にわからなくなるのですね。
 こういうのって、国文の世界では常識なんでしょうが、それにしてもこんな資料を相手にするなんて、研究者の人はほんとに大変。あー、日本史専攻でよかった。
なお、文章の活字パネルは、そんなこんなで色々調べた結果、たいへん面倒なことがわかったのと、、展示スペースの関係で、今のところ作っていません。ご希望がありましたら、ホームページにご意見をお寄せください。

(榎村寛之)

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