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研究ノート

1920年代の染織―近代工芸史をどう捉えるか?

土田真紀

 1920年代の工芸を考えるとき、目立った動きとしてまず捉えやすいのは陶芸および金工の分野であろう。前者においては、民芸運動の出発と前後して、新しいタイプの陶芸家として河井寛次郎、濱田庄司らが現れた。一方、金工家たちは、元型の結成、帝展への第4部(工芸部)設置運動において中心的役割を果たし、様式の面でも構成主義、アール・デコの影響下に全く新しい工芸作品を提示した。これらについては、すでに展覧会等を通じてまとまった紹介が行われ、相応の評価がされてきた。1910年代に富本憲吉、バーナード・リーチ、藤井達吉、河井卯之助ら、全く新しいタイプの工芸家が登場したのを受けて、新たな展開がみられたのがこの両分野であろう。1910年代の工芸家による、既存の専門性、すなわち素材・技法別の専門分野を超えた活躍を経た上で、20年代の工芸家たちは、再びそれぞれの専門分野の中で、徐々に個人作家としてのあり方を確立していった。彼らは個展や同人によるグループ展、あるいは1927年に創設された帝展第4部や国画創作協会への出品(1928年から工芸を一般募集)を、工芸家としての存在証明の場としていったのである。この工芸家像が現在に至るまで続いているのは周知のとおりである。

 

 それでは陶芸、金工以外の分野はどうであったのか。ここでは染織を例に、1920年代の工芸の問題について少し考えてみたい。工芸、とりわけ染織の中心地京都の場合、1902年に設立された京都高等工芸学校に浅井忠、武田五一らが教官として招聘された結果、図案家と工芸家が協力して新しい工芸のあり方を探る方向が始まり、陶芸の遊陶園、漆芸の京漆園に次いで、1913年には染織の道楽園が結成され、会員たちは、毎年東京で京都三園展を開催すると同時に、農展に盛んに出品し、毎回賞を獲得していた。このうち、遊陶園、京漆園の活動の内容については、若干の作品の実例も残っているが、道楽園については、これまでのところほとんど知られていない。このほかにも、神阪雪佳を中心とする佳都美会など、様々な研究団体が結成されているが同様である。

 

 一方、京都の個人作家ということに注目すれば、10年代から20年代にかけて、伝統的な基盤とそれに支えられた高度な技術を背景に、龍村平蔵や山鹿清華が登場してきている。龍村平蔵は法隆寺裂などの復元によって知られているが、そこで獲得した高度な技術を生かして創作織物へ向かった。この龍村よりさらに創作を重視した個人作家の道を開拓したのが山鹿清華である。1928年に制作された「綴錦帆船に異国風俗模様卓布」は、伝統的な技術に、洋風の色調とデザインを導入したこの時期の彼の作品の一例である。山鹿清華は、伝統の上に立ちつつ、デザイン面で新しさを取り入れたいわば折衷派、陶芸の世界でも清水六兵衛に代表される京都の大家たちとほぼ同じ位置づけになろう。

 

 この頃東京では、龍村や山鹿とは全くタイプの異なる個人作家としての染織家が登場している。藤井達吉、広川松五郎、木村和一の三人は、1926年に三ツ葉会という染色作家の会を結成し、最初の展覧会を三越百貨店のギャラリーで開催した(11月19日〜24日)。それがいかなる意義をもっていたか、高村豊周が『美之國』(第3巻第1号)に書いた「三ツ葉会染色作品展を観る」に的確に記されているとおりであろう。高村は、他の工芸ジャンルに比べて染色の「工芸美術家」がきわめて少なく、専門業者によるか、あるいは絵更紗などの家庭手芸に近い展監会しかない現状のなかで、他のジャンルに匹敵するこの会の内容の充実を高く評価し、3人それぞれの個性の発揮と、そこに共通する「オリエンタリズム」、すなわち東洋の伝統の咀嚼の現れをよしとしている(『高村豊周文集U』1992年 高村豊周文集刊行会)。

 

 三ツ葉会のメンバーのうち、藤井達吉、広川松五郎は1910年代からすでに活躍を始めており、ともに1919年の装飾美術家協会の展覧会に出品している。ただし、藤井達吉の制作活動は、昨年当館で開催した「20世紀日本美術再見I」展でも紹介したように、工芸のあらゆるジャンルにわたっており、染織もその一つであった。ただし、特に染織に関していえば、彼の姉妹が協同制作者として関わり、農展にも出品しており、「家庭手芸」というこの時期の一つの特徴的な方向を指している。また広川松五郎の場合、1915年に東京美術学枚図案科を卒業後、少しずつ作品発表を行っていたが、染色の分野ではまだ目立った活動はみられず、むしろ装幀の仕事などに注目すべきものが見出される。

 

 この二人に木村和一が加わることで、「染め」の領域にようやく明確な「近代」の輪郭がみえてきたのが、1920年代半ばということになろう。もともと洋画を学んだ木村和一は、三ツ葉会の結成に先立つ1924年3月に資生堂ギャラリーで「木村和一染物作品展覧会」を開催し、山本鼎の高い評価を受けた(『資生堂ギャラリー75年史』1995年 求龍堂)。富本憲吉、バーナード・リーチ、河井寛次郎など、1910年代以来、陶芸を中心に工芸家の個展も開かれるようになっていたが、染色の分野では恐らく初めてであった。非常に残念なことに、藤井達吉、広川松五郎ともに、現存するこの時期の作品は決して多くはなく、木村和一に至っては現在のところ管見する機会を得ていない。しかしながら、残されたわずかの作品、写真図版、文献から察するところ、着物、帯などの衣装に加え、テーブルクロス、クッション、屏風、壁掛けなど、生活空間の洋風化という変化に伴って、室内装飾の分野に新たな染色の領域を模索する方向が共通して見て取れる。なかでも壁掛け、屏風などは、生活空間と遊離することなく、「純粋美術」としての絵画に匹敵するものを生み出すための格好の舞台であったのではなかろうか。

 

 木村和一は画家出身、藤井達吉や広川松五郎も、それぞれ七宝や図案を出発点としながら、従来の職人とは全く異なる近代的な芸術家意識を明確に有した作家であった。今回の展覧会で取り上げたもう一人の染色家元井三門里ももともと画家を志していたが、たまたま目にした更紗に惹かれ、独学で「絵更紗」と自ら名付けた手描き更紗を制作し始めた。「古渡更紗」と呼ばれる17世紀の舶載品以来、更紗は日本の数寄者の間に人気を博し、国産の「和更紗」も大量に生産されているが、大正期は、北原白秋、木下杢太郎らの南蛮趣味にともない、この更紗が新たなブームを引き起こした時期であったように思われ、従来の更紗に加え、作家が更紗を手がける例がしばしばみられる。昨年の展覧会で取り上げたように、手描きや木版の更紗を手がけた富本憲吉はこの点でも先駆者であったのかもしれない。元井三門里の「絵更紗」は、藤井達吉と同様、家庭手芸として普及の方向をとったが、彼自身の作品は絵画的な自由さに独創性を示し、質的にも無視し得ないものである。

 

 その他、1910年代から20年代にかけて染織の分野で個人作家として名が挙げられるのは、総合芸術の一環として室内装飾品から服飾までのデザインを手がけた斎藤佳三、民芸運動の一環である上賀茂民藝協団で民衆的な織物の制作に意識的に取り組んだ青田五良、やや遅れて民芸運動の中から登場した型染の芹沢_介、草木染の研究に力を尽くした山崎賦、東京美術学校出身で広川松五郎らとともに黒耀会の展覧会に出品、岩村透から「日本のウィリアム・モリス」と絶賛されながらスペイン風邪の犠牲となって夭折した小倉淳らがいる。

 

 これらの個人作家に関しても、芹沢_介を例外として、現存する作品の少なさもあってその仕事の紹介は十分になされているとはいいがたく、またそれぞれに名前は知られていても、孤立した現象としてである。そしてここにさらに、こうした個人作家の活動とは無縁に続いている染織業界の流れを加えるとするなら、染織の1920年代の印象はますます混乱するばかりであろう。しかし今回の展覧会では、一応個人作家と区別してはいるが、特に染めを中心とする着物を取り上げることにした。理由は、これらのものが、その質の高さにもかかわらず、個人作家の作ではなく、従来の美術史の枠を離れるがゆえに全く等閑視されているからである。この他、識者を審査員として年毎の標準図案を定めた高島屋の百選会の機構なども無視し得ない存在であろう。

 

 さて、これまで〈染織〉と一つに括って述べてきたが、染めと織り、織りのなかでも高級織物と民芸の織物、個人作家の作品と日常着としての着物など、そこには様々なものが含まれ、それぞれが全く異なる状況に置かれているのが事実である。しかしながら、そのいずれもが1920年代の染織の一面を形成しており、質的にも容易に優劣をつけがたい感を受ける。とりわけ染織に関していえば、個人作家のみを取り上げるのは片手落ちであろう。また、美術館では、実物が現存していないものは軽視されがちであり、事実どうにもならない面もあるが、それゆえに歴史上から抹殺しては、かえって非常に偏った見方しか成立しないのではなかろうか。これだけの広がりをもつ染織の分野に絵画や彫刻と同じ見方や評価基準のみを持ち込むのは妥当とは思えない。たとえば「家庭手芸」という方向性も、この時期重要な課題として提起された「生活と美」の観点からすれば、一概に切り捨ててしまうこともできないと思われる。1920年代に専門家集団の再編成が成された陶芸や金工の分野ともまた事情が異なるであろう。その意味で、一旦従来の枠組をすべて保留にして、いま一度可能なかぎり染織に関する資料を掘り起こし、まずは全体を俯瞰してみる必要があるのではなかろうか。

 

(つちだまき・学芸員)

 

年報/1920年代展

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