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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 「右幕下頼朝公渡海行粧之図」

「右幕下頼朝公渡海行粧之図」

資料名 右幕下頼朝公渡海行粧之図
(うばっかよりともこうとかいぎょうしょうのず)
資料番号 976
寸法  たて:363mm
 よこ:245mm
(竪大判3枚組の1枚あたり)
時代 江戸時代
(文久3年2月)
解説

この資料は、江戸時代末期から明治時代にかけて浮世絵界で一大勢力をなした歌川派の絵師のひとり歌川芳盛(1830から1884)の作品です。幕末の文久3(1863)年、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)は、3代将軍・家光(いえみつ)以来、将軍として実に229年ぶりの上洛(じょうらく)を決行しました。当時、センセーショナルな出来事として注目された、この将軍上洛を題材とした浮世絵が多数刊行されましたが、この作品もその中のひとつです。
幕末の激動の政局の中、「公武一和」を期して前年に孝明天皇(こうめいてんのう)の皇女・和宮(かずのみや)と結婚したばかりの若き将軍・家茂(このとき18歳)は、2月13日に大挙して江戸を出発、3月4日に京に到着しました。天皇への拝謁を果たし、6月16日に江戸に帰りました。この作品は、家茂の上洛が実施された文久3年2月に刊行されたもので、前年9月に将軍上洛が触れられてからほどなく、先を見越して製作に着手されたものと考えられます。
なお、時の将軍・家茂に対する直接的な表現をはばかって、画面右上に「右幕下頼朝公渡海行粧之図」とあるように、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の上洛風景に見立てた作品となっています。「右幕下」とは、右近衛大将(うこのえのたいしょう)のことを意味しますが、頼朝は建久元(1190)年に上洛した際に、この右近衛大将に任官されています。船の帆・旗指物(はたさしもの)などにあしらわれた笹竜胆(ささりんどう)の紋は、源氏の定紋(じょうもん)とされたものです。ちなみに徳川家もまた源氏の出身とされていました。いずれにしても、当時、この作品を見る人にとって、これが将軍・家茂の上洛風景であることは自明のことだったわけです。
さらに、作品中に場所名は記されていませんが、本作品がつくられる30年近く前に出版され、大ヒットした歌川広重の作品『東海道五十三次之内』の中の1枚「桑名」と構図が同じとなっていて、一種のパロディ的な趣向によって、この場所が桑名であることが分かる仕組みとなっているところも本作品を楽しむポイントであったといえるでしょう。(A)

右幕下頼朝公渡海行粧之図
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