このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 広重「東海道五十三次之内 関」(ひろしげ とうかいどうごじゅうさんつぎのうち せき)

広重「東海道五十三次之内 関」(ひろしげ とうかいどうごじゅうさんつぎのうち せき)

資料名 広重「東海道五十三次之内 関」
(ひろしげ とうかいどうごじゅうさんつぎのうち せき)
時 代 江戸時代
資料番号 828 寸 法 たて:24.0cm
よこ:35.8cm
解 説

 新緑がだんだんと深くなり、野山の草木がしだいに夏の装いへと姿を変えてゆく季節となりました。三重と滋賀を隔ててそびえる鈴鹿山脈も濃い緑の屏風(びょうぶ)のような姿をみせています。険しい鈴鹿山脈を越える鈴鹿峠の東に位置する「関」は、古来、畿内周辺地域と東国(とうごく)を結ぶ交通の要衝(ようしょう)として重要な位置を占めてきました。街道が整備された江戸時代には、東西交通のの大動脈であった東海道と、奈良・伊賀方面へと通ずる大和(やまと)街道、伊勢に向かう伊勢別(いせべつ)街道が交差する東海道47番目の宿場としてたいへんなにぎわいをみせていました。
 街道絵・名所絵の第一人者であった初代・歌川広重(うたがわひろしげ)は、保永堂版「東海道五十三次之内」シリーズで、街道風景に四季の気候変化の装いを見事にまとわせた作品や沿道の人々の風情を巧みにとらえた作品を残しています。
 広重が描いた「関」の副題は「本陣早立(ほんじんはやたち)」です。江戸幕府の大名統制政策によって江戸と国元(くにもと)の二重生活を強要された諸国の大名は、参勤交代(さんきんこうたい)により多くの家臣を従えて江戸と国元を往復しました。街道を行く参勤交代の大名諸侯(しょこう)や高貴な人が宿泊・休息した場所が、本陣と呼ばれる施設です。関には、伊藤家と川北家の2軒の本陣が置かれていました。この作品はどちらの本陣を描いたか不明ですが、まだ明けやらない早朝、本陣での大名一行の早立ち支度(したく)の風景が描かれています。薄暗い闇につつまれた本陣の敷地や建物に定紋(じょうもん)入りの幔幕(まんまく)が張り巡らされ、駕籠(かご)や槍(やり)、提灯(ちょうちん)、笠、竹籠(たけかご)に入った替え草履(ぞうり)などが用意された大玄関では出立(しゅったつ)の打ち合わせがおこなわれています。その脇には支度を終えた供奴(ともやっこ)が待機し、背後の門付近では旅装(りょそう)を整えた供侍(ともさむらい)があいさつを交わしており、本陣での早立ちのあわただしさが巧みに描き出されています。なお、幔幕の定紋は、御所車に「田中」の文字を図案化したもの、玄関内に描かれた「かほの薬 仙女香」「しらが薬 美玄香」の看板など、広重の遊び心もちりばめられています。
 現在、関は東海道の往時の面影を唯一残す歴史的町並みとして、昭和59(1984)年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、町並みの保存と修復がおこなわれています。保存地区は、東追分(ひがしのおいわけ)・西追分(にしのおいわけ)の間、約1.8kmに及び、中央には国の重要文化財に指定されている関地蔵院(せきじぞういん)があります。関宿の町屋には18世紀中ごろから明治中ごろまでの時期のものが多くあり、街道沿いに続く平入(ひらいり)で低い二階建ての建物や庇下の幕板(まくいた)、格子戸(こうしど)、出格子窓(でこうしまど)、塗り籠(こ)めの虫籠窓(むしかごまど)などに往時の街道宿場の風情が、今も色濃く残っています。この作品は、このような当時の関宿の様子を伝える貴重な資料のひとつです。(SG)

広重「東海道五十三次之内 関」

玉屋・関の戸付近


中町付近


東追分
関 連
ページ
広重「東海道五十三次之内 庄野」 広重「東海道五十三次之内 庄野」
広重 東海道五十三次之内 亀山 広重「東海道五十三次之内 亀山」
ページID:000061561