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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 松阪市繪葉書

松阪市繪葉書

資料名 松阪市繪葉書 資料番号 365
寸 法  たて: 89ミリ
 よこ:140ミリ
時 代 昭和時代(戦前)
解 説  今回は、戦前に松阪市が発行した「絵はがき」を紹介します。国学者・本居宣長(もとおり のりなが)や「三越(みつこし)」の前身である「越後屋(えちごや)」を開いた三井高利(みつい たかとし)、松阪牛などで知られる松阪市は、戦国時代の武将・蒲生氏郷(がもう うじさと)が天正16(1588)年に松坂城を築城したことで誕生した城下町です。その後、城下町として発展するとともに三井高利に代表される「伊勢商人(いせしょうにん)」と呼ばれる人たちが活躍し「商業都市」としても発展していきます。
 写真の資料は、「三重縣松阪港全景(其ノ三)」「三重縣松阪舊城趾(きゅうじょうあと)公園南入口」「三重縣松阪 中央省線(しょうせん) 並ニ名松(めいしょう)線 右參急(さんきゅう) 左松電(まつでん)」の3枚が1セットの「絵はがき」です。これらの絵はがきを納める袋には「松阪市繪葉書 松阪市役所」と旧市章とともに印刷されています。この「絵はがき」セットがどのような目的で発行されたのでしょうか?観光客をターゲットにしたお土産用なのか、何かを記念してつくられたものなのか。いずれにしても袋の表題や中の絵はがきから知ることは難しそうです。
 では、いつごろつくられたものなのでしょうか。ポイントとなるのは「袋」と3枚目の「絵はがき」です。まず、袋には「松阪市」「松阪市役所」と書かれています。「松阪町」から「松阪市」にかわったのが昭和8(1933)年のことです。そして、3枚目の「絵はがき」の題名には「三重縣松阪 中央省線 並ニ名松線 右參急 左松電」と書かれています。松阪駅を南側の踏切付近から北の方向を見ているカットです。「省線」は、現在のJR東海・紀勢本線のことで、明治26(1893)年に開通。「參急」は「参宮急行電鉄(さんぐうきゅうこうでんてつ)」の略で、現在の近鉄のことで昭和5(1930)年に開通。昭和16(1941)年に「関西急行鉄道(かんさいきゅうこうてつどう)」(のちの近鉄)と社名変更しています。「松電」は「松阪電気鉄道」の略で、大正元(1912)年に開通、昭和39(1964)年に廃止されています。そうすると、昭和8年から昭和16年までの間に発行された「絵はがき」セットだと考えることができます。
 昭和8年といえば日本が国際連盟(こくさいれんめい)から脱退した年です。前年には5・15事件が、11年には2・26事件が起こっています。12年以降には、盧溝橋(ろこうきょう)事件、国家総動員法の公布、日独伊(にちどくい)三国同盟の締結、そして、昭和16年には太平洋戦争の開戦。「絵はがき」からは、激動の時代を歩んでいる雰囲気は感じられませんが、市民生活に徐々に戦争の影が忍び寄ってきた時代にこの「絵はがき」セットがつくられたのです。現在の松阪駅周辺は、駅ビルやホテル、商店街などが広がるターミナルです。でも、この絵はがきには、どこまでも広がる町並みだけで、どこか懐かしい雰囲気を漂わせている風景の1コマが切り取られています。(FK)

三重縣松阪港全景(其ノ三)


絵はがきセットの封

三重縣松阪舊城趾公園南入口

三重縣松阪 中央省線 並ニ名松線 右參急 左松電
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