「枕を高くして寝る」という言葉があります。これは、“安心して眠る”や“安心する”といった意味で用いられていますが、その出典は『史記』に求めることができます。中国の戦国時代、縦横家であった張儀の「秦の国が生き残るために、魏が秦の国に仕えれば、楚国と韓国は攻撃してくることはなく、大王(魏国王は)は枕を高くして眠れる」という言葉です。敵にいつ攻めてこられるかわからない当時、兵士は地面に耳をつけたり、また遠くの音が良く聞こえるように箙(えびら)という矢をいれる筒を枕に眠り、有事に備えていたようです。これが平和な時代になればなるほど、耳は地面から離れていても安心という訳です。
今回紹介する資料は、そんなことわざを形にしたかのような、時代劇でもお馴染みの枕です。枕の語源には、アタマクラ(頭座)やマキクラ(纏座)など様々な説がありますが、“クラ”は「座」であるとの考えは共通しているようです。枕の形の変遷を概観したとき、古代や中世の枕の主流が四角い箱型であったり、また足のついた台であったりすることからしても、“クラ”は頭という神聖なるモノが座るところであることに間違いはなさそうです。
さて、写真の枕は、かつては木製の箱だけだった枕の系統を引くもので、大きくは箱枕に分類されます。その中でも特に箱の部分が台形をしているものを安土形(あづちがた)箱枕と呼び、それは、箱の部分の形が、弓の的(まと)を置くために作られた「安土(あづち)」に似ていることが語源とも言われています。
江戸時代の後期以降に登場するこの枕は、使われた時期が長く、さまざまな階層の人々に愛用されたことから、多様な仕様のものが生産されています。底面に丸みを持たせた船底型は、丸みを持たない平底の形状のものに比べて寝返りがしやすいことから、需要が増し、箱枕といえばこの形状のものを指すまでになったといわれています。
一方、箱の上に置かれた「括(くく)り小枕」と呼ばれる部分は、箱の部分と同様に、古くは単独で枕として使われていた形状です。つまり2種類の枕を合体させてできたのがこのタイプなのです。この枕が登場する18世紀の半ば頃は、男女ともに髪型が大きくなっていく時期でもあります。より高い枕は、流行の髪型が必要としていたようです。
括り小枕の仕様についてもピンからキリまで多種多彩ですが、大きな花柄をあしらった絹を用い、さらにフリルのついた白い絹の枕カバーをつけているこの資料は、かなりの高級品だったといえそうです。塗りが施された桐箱に入り、また箱枕の部分に金泥で描かれた蔦の家紋は、「嫁入り道具」を思い起こさせてくれます。当館でも2つ揃えという点から「夫婦枕」という資料名をつけています。しかし、この資料が作られたのは大正時代です。男性には既に髷(まげ)はありませんから、夫婦で揃いの箱枕は必要なかったはずです。ではなぜ大正時代にこのような枕が必要だったのでしょうか。
実は、女性の間で、日露戦争後にある髪型が流行します。“二百三高地”というものです。束ねた髪を前後左右に大きく張り出させ、頭上にこんもり髪を盛り上げる髪型は、短期間ではあったようですが一世を風靡しました。このとき、この大きく形作られた髪型を乱さないように、箱枕が再度脚光を浴び売り出されます。大正時代の箱枕は、この流行とともに作られ、そしてまた時代とともに忘れ去られたのではないでしょうか。そういえば、2個ある枕の中身は同じではありません。1つには籾殻のような穀類が、そしてもう1つには柔らかな繊維が入っているようです。硬さの違う2つの枕を、お嫁さんは時と場合に応じて使い分けていたかも知れません。
「寿命三寸 楽四寸」という言葉があります。江戸時代の随筆『雲錦随筆(うんきんずいひつ)』などに書かれているものです。四寸(約12cm)くらいの枕は寝心地がよくて楽だが、長生きがしたいのなら三寸(約9cm)にしておくほうがいいというものです。つまり低いほうが健康にはいいということですから、箱の部分だけでも10cmある今回紹介した枕は医学的にはどう評価されるのでしょうか。
日々肩こりに悩まされ、枕の苦手な私は、髷のない現代に生まれたこと感謝せずにはいられません。
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