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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 伊勢古市備前屋踊りの図(いせふるいちびぜんやおどりのず)

伊勢古市備前屋踊りの図(いせふるいちびぜんやおどりのず)

資料名 伊勢古市備前屋踊りの図 (いせふるいちびぜんやおどりのず)
時 代 江戸時代後期
資料番号

 503

寸 法 たて:37.5cm
よこ:75.6cm
解 説

 

- 伊勢参宮 太神宮へも ちょっと寄り -

この川柳は、まだ自由に旅ができなかった江戸時代、一生に一度は伊勢に参りたいという人々の願いの中に、敬虔(けいけん)な信仰心に加えて、物見や遊山という娯楽的な色彩があったことを端的に物語る句です。当時の道中記などによれば、人々は伊勢参宮への道すがら街道沿いの名所旧跡を訪ね、参宮後も、奈良や京大坂、あるいは、遠く讃岐の金比羅宮などへと足を伸ばしています。

伊勢でも、人々は師檀関係にある御師(おんし)の邸宅に宿泊して、そこで神楽を奉納し、日頃味わうこともない山海の贅(ぜい)を尽くした宴のもてなしを受け、翌日以降は御師やその手代の案内で外宮・内宮・天の岩戸・朝熊山・二見浦・鳥羽志摩めぐりなどを行いました。更に、伊勢古市での遊興も参宮客にとって大きな魅力の一つであったようです。

今回ご紹介する「伊勢古市備前屋踊りの図は、江戸時代後期に役者絵・美人画の絵師として人気を博した歌川国貞(のち三代豊国)が、その古市を代表する妓楼(ぎろう)であった備前屋を描いた3枚続きの浮世絵で、江戸の版元西村屋与八から出版されました。

さて、山田と宇治を結ぶ街道沿いにあった古市は、江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ、元禄(1688~1703)頃には高級遊女も抱える大店もできはじめました。やがて、その中でも有力な妓楼は、享保の改革に対抗して名古屋のまちに文化的な賑わいをもたらした尾張藩七代藩主徳川宗春の治世下の名古屋へ、京大坂の妓楼に肩をならべて出店を設ける程にまでなりました。寛政6年(1794)の大火で古市は被害を受けましたが、かえって妓楼の数は増え、最盛期の天明(1781~1789)頃には妓楼70、遊女1,000、大芝居小屋2を数える大歓楽街となり、江戸の吉原、京都の島原と並んで全国にその名が知られました。

この浮世絵に描かれている備前屋は、牛車楼・桜花楼とも呼ばれ、杉本屋・油屋・千束屋(ちづかや)などとともに古市を代表する大妓楼の一つでした。絵柄は、手前に立ち姿と起き抜けの美人3人が大きく描かれ、画面全体に艶やかさが漂っています。このうち、右端の美人はこちらに背を向け、紺地で下半の淡いぼかしに水仙・菊花をあしらった華やかな着物の裾を引きながら、開け放たれた襖の向こうに見える大広間へまさに出て行こうとするところでしょうか。3人の美人の背景を構成する襖、また、夜具・手拭い、大広間の欄干飾り・幕・提灯などには備前屋の別名である牛車楼に因んだ源氏車の定紋が散りばめられています。そして、大広間では、着飾った遊女たちによる伊勢音頭の総踊りが、繰り広げられている最中です。この大広間が、備前屋のもう一つの別名である桜花楼の由来となった、桜の間と思われます。

古市妓楼の名物であった伊勢音頭の総踊りは、各妓楼で少しずつ趣の異なるものが行われていましたが、これを最初に始めたのも、踊りで用いる迫り上げ舞台を考え出したのも、備前屋であったとされています。備前屋での総踊りは、地方(じかた)の芸妓6人(左右に胡弓・三味線・唄)と踊手の遊女20人(左右各10人)で行われます。大広間の上座に座る観客の正面に欄干を巡らすコの字形の舞台で、拍子木の合図によって踊手が両側より出て、手並みを揃えて踊りながら正面で行き違いになり、双方反対の口より退いていきます。この様子は、参考として掲げた「伊勢古市踊圖(周延)」「伊勢古市備前屋桜花樓躍りの図(豊谷)」のように実に華やかなものであったようです。

なお、費用は客10人までが1両、10人以上の場合は2両ほどであったといいます。1両が数万円に換算されると考えると、相当な出費であったはずです。それでも、多くの人々が観覧したものと思われます。このような華やかな古市の浮世絵を見たり、参宮経験者の話に耳を傾けたりするにつけ、人々の伊勢参宮への期待はますます膨らんでいったことでしょう。(SG)
 



503 伊勢古市備前屋踊りの図(国貞)
【参考】伊勢古市備前屋桜花樓踊りの図(豊谷)
【参考】伊勢古市踊図(周廷)
ページID:000061394