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伊勢の引札(いせのひきふだ)

資料名 伊勢の引札(いせのひきふだ)  
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資料番号 279
寸 法 縦 25.8cm
横 25.3cm
時 代 明治34(1901)年11月15日印刷
明治34(1901)年11月28日発行
材 質 和紙
解 説
 今回紹介する資料は“チラシ”です。配布された時代は明治時代。もっとも当時は「引札(ひきふだ)」と呼ばれていました。広告主は田中屋という旅籠(はたご)を営む善兵衛さん。お正月を前に、伊勢参宮の宿泊客を当て込み、チラシを配布したようです。図柄は、お正月らしく末広がりの扇子と「謹而 奉賀新年」の文字を入れ、新年の暦と旅籠の宣伝をレイアウトしています。一見すると、それだけのものなのですが、このチラシから得られる情報は、まだまだたくさんあります。

 まず、扇子の中には、旅人を伊勢へと導く行程図が描かれ、「汽車道」と「歩行道」が実線と点線で表現されています。関西鉄道(現関西本線他)と参宮鉄道(現参宮本線)の各駅、伊勢別街道と参宮街道の主な宿場の名前が記されていますが、特に駅は赤丸で表示されているので、人々の往来はすでに徒歩から鉄道に移り変わっていたのでしょう。扇子の左側にも、参宮客に対して、「筋向橋で下車すると便利です」と参宮鉄道の筋向橋駅の利用を勧めています。

 ところで、この「筋向橋(すじかいばし)」という駅は、現在のJR山田上口駅のことで、大正6(1917)年10月に駅名が変更になりました。そもそも「筋向橋」とは宮川の支流にかかる小さな橋のことでした。ちょうど参宮街道と伊勢本街道が合流する場所にあり、JR山田上口駅からは400mも南に離れた地点です。嘉永2(1849)年にはすでに暗渠(あんきょ)となっていたこの橋は、現在でも歩道に橋の欄干(らんかん)だけが残されています。さて、こんなにも離れた橋の名前を駅名としたことで問題が起こりました。この地域に駅と橋の2つの「筋向橋」が存在するからです。大正5(1916)年に旧宇治山田市長は、当時の鉄道院総裁に対して「参宮線筋向橋駅名改称并通過列車廃止ノ儀ニ付請願」(参宮線筋向橋駅の駅名変更と通過列車廃止の請願書)を提出しています。それによると、2つの「筋向橋」の存在は、旅人や地域の人々に混乱をもたらすとともに、読みにくいことを理由にあげています。引札で田中屋善兵衛の文字の横の案内文が、わざわざ「すちかい橋下車」とひらがな表記になっているのも、これでうなづけます。ちなみに「山田上口」という名称は、旧宇治山田市長の請願書の中で例示されたものでした。

 この引札の中で、もう一つ大きな面積を占めているのが、「略暦(りゃくれき)」です。引札に暦を入れた目的は、“すぐに捨ててしまわれない”ためだったと思われます。現在でこそ、カレンダーは簡単に手に入りますが、当時はまだまだどこにでもあるといったものではありませんでした。そこで引札に暦を入れ、また人々の憧れの伊勢参宮への行程を図示すれば、暦の期間は手元に置かれ、暦を見るたびに「田中屋善兵衛」の名を見ることになります。宣伝効果は抜群という訳です。善兵衛さんはなかなかの知恵者です。現在、企業やお店の名前をカレンダーに刷り込み配布するのは、すでにこの時代には始まっていたことになります。明治時代はまだ出版が自由にできる時代ではありませんでしたが、引札は特別に認められていました。また暦の印刷・出版も明治政府の管理下に置かれていましたが、明治16(1883)年4月26日付けの通達(「太政官達第八号 内務卿連署」)によって解禁になります。明治5年12月に明治政府が強行した旧暦から太陽暦への移行も、このような引札への掲載などよって次第に庶民の中に浸透していったのでしょう。

 その他、田中屋さんの場所や宿泊料のこと、また印刷出版者のことなど引札が教えてくれることはまだまだあります。引札は、庶民が庶民を対象に発行しているだけに、風俗・習慣・経済・世相など臨場感のある情報が詰まっています。

 どうですか、スーパーの大売出しのチラシなど、あなたも1枚残しておいてみませんか。未来の民俗学者が涙を流して喜ぶはずです。(UK)
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