このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > オリンピック大競技双六

オリンピック大競技双六

資料名 オリンピック大競技双六 資料番号 89
寸 法 たて 54.8 センチ
よこ 79.5 センチ
時 代 大正9年
解 説  オリンピックに因んで、今回ご紹介する資料は、今から88年前の大正9(1916)年1月に大日本雄弁会(現在の講談社)から発行された雑誌『少年倶楽部』新年号の附録『オリンピック大競技双六』です。

日本が初めてオリンピックに参加したのは、96年前の明治45(1912)年にスウェーデンで開催された第5回ストックホルム大会で、陸上競技に2名の選手が派遣されています。続く、大正5(1916)年開催予定の第6回ベルリン大会は第1次世界大戦のため中止。2回目の参加となった、ベルギーでの第7回アントワープ大会は大正9年4月20日から9月12日まで開催され、29か国2,668人の選手が参加して23競技161種目が行われました。日本からは選手15人役員3人の選手団が派遣され、庭球の熊谷弥一がシングルス2位、熊谷・柏尾誠一郎組がダブルス2位の好成績をあげています。

この『オリンピック大競技双六』は、第7回アントワープ大会の開催に先立ち、その年のはじめに刊行されたもので、大きな洋紙に多色印刷されています。画面の右には優勝旗を手にした若い選手が大きく描かれ、その背後には万国旗が翻る下、広い競技場で進行しつつある陸上トラック競技の情景が画面いっぱいに展開しています。また、画面中央では黒い正装の男性やカーキ色の軍服姿の人が立ち並ぶ中で表彰式が行われているようです。なお、少年雑誌の附録であるため、各選手は小学生のような姿に描かれ、中には和装の人物もみられますが、画面左のテントの吹奏楽団はスコットランドのバグパイプ奏者のような服装で、また、左端のテント前の二人は明らかに西欧人を念頭において描かれ、国際色を表現しています。

一方、外周を巡る双六の進行順はトラック競技と同じ反時計回りに進む数字で表され、通常に進む黄色枠に混じり、連続して進むことができる青色枠にはスパートを意味すると思われる「ヘビー」「最後ヘビー」、また、逆戻りしなくてはならない赤色枠には「鹿砦」「河川」「塹壕」「高跳」「急坂」などと表記され、障害物競走を想わせる構成となっています。

紙面全体から受ける印象は、現代の私たちの感覚からすれば、どこか、小学校の運動会を連想させるところがありますが、東京放送局からラジオ放送第一声が発信される大正14年までまだ数年の歳月を要する当時、オリンピックの情景を直接観たり聴くことがほとんどなかった人々、とりわけ少年少女にとって、このようなオリンピック関連商品は、列強諸国に肩を並べて競技する日本人選手団への期待と憧れを高めたことでしょう。

この頃、急速に進んだ都市化の中で会社員・銀行員などサラリーマン層を中心とする新たな市民階層が成長し、衣食の洋風化、モガ(モダンガール)やモボ(モダンボーイ)の流行、女性の職場進出、文芸誌・大衆雑誌の発刊などに代表される都市文化、大正モダニズムが広まって行きます。この『オリンピック大競技双六』に描かれた人々の姿からも、その新しい風潮の一端を窺うことができます。しかし、同じ頃、もう一方ではナショナリズムの台頭がみられ、大陸への出兵が行われるなど、日本は昭和20(1945)年に敗戦を迎えるまでの、戦争への長い道のりを歩み始めていたのです。(SG)


※クリックすると大きな画像がご覧いただけます。  
ページID:000061370