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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > ピカソ 《ふたつの裸体》 1909年 解説

ピカソ《ふたつの裸体》 1909

ピカソ、パブロ(1881 スペイン -1973)
ふたつの裸体
1909年
ドライポイント・紙
13.0×11.0cm

 

 一九〇九年は、美術史の観点から見て、ピカソの制作活動の中でも最も興味深い時期にあたる。一九〇七年、衝撃的な作品「アヴィニヨンの娘たち」を制作したピカソは、そこから次第にキュービスムの手法の確立へと向かうが、一九〇九年は、彼とその相棒であるブラックの作品が刻々と変化しつつ、次第に全く新しい絵画空間が誕生していく記念すべき途上になる。
 この銅版画は小品ながらその過程を十分にうかがわせる。二つの裸体は、ここでは容易に識別できるが、ところどころで人体の部分同士の関係が大きくずれたり、太い線によって連続性が断ち切られたりしている。
 他方、細い平行線の群れは、人体の立体感を暗示するものであると同時に、たとえば背景と人物という本来不連続な要素を、むしろ連続させる方向に働いている。
 ここからやがて、背景も個々のモティーフも同様に、小さな切り子面に分割された、キュービズム独自のレリーフ状の空間が誕生してくるのである。 (土田真紀 中日新聞 1990年1月12日掲載) 


 

 ピカソはブラックとともにキュビスムの創始者として知られている。美術評論家アルフレッド・バーによると、一九〇八年のサロン・ドートンヌに落選したブラックの『エスタニック風景』を見たマティスが、「これは積み木(キューブ)だ」といったことが、キュービスム(立体派)の名前の起こりだという。ピカソは詩人アポリネールの紹介で一九〇七年ブラックと会い、ふたりは意気投合して新しい芸術表現を試行錯誤した。この銅版画が制作された年、一九〇九年はキュビズム誕生にとって重要な年である。ピカソはこのころからいわゆる分析的キュビスムの時代に入り、人物やマンドリンといった絵画の小道具を、ことごとく切り子細工のような抽象的な線と面に分解する方法をとり始めるのである。 (荒屋鋪透 中日新聞 1991年8月9日掲載) 

 

 

土田真紀 ピカソ|ふたつの裸体 友の会だよりno.28 1991.11.26

 

ひるういんどno.65(1999.1) 桑名麻理 「パブロ・ピカソ《ふたつの裸体》(館蔵品から)」

 

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