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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1991 > パブロ・ピカソ《ふたつの裸体》 土田真紀 友の会だより no.28 1991.11.26

友の会だより所蔵品解説

パブロ・ピカソ《ふたつの裸体》

パブロ・ピカソ(1881-1973)
《ふたつの裸体》
1909年
ドライポイント・紙
13.0×11.0cm

 「ふたつの裸体」は10cm四方ほどの版画の小品である。しかしこのごとく小さな画面から、ピカソがブラックと共に遂行した、キュビスムという美術史上の大冒険の軌跡を充分に窺うことができる。

  キュビスムの進むにしたがって、我々が普段見慣れたものの姿は、小さく分割された四角い面へと切れ切れになっていくが、ここではまだ、二人の人物とマンドリンをすぐに見分けることができる。しかし同時に、従来の表現とは全く異なる特徴が幾つか見てとれる。まず、形は非常に単純化され、太い輪郭線によって要約されて捉えられている。人体は、なるべく少ない数の基本的な形の集合体にまで還元されている。そのため、たとえば右の人物の顔からは、目、鼻、口などの個々の凹凸が失われ、まるでコッペパンのような一つの塊と化している。また、連続しているはずの人体の各部分が、ところどころではっきりと寸断されたり、位置関係が故意にずらされたりしている。逆に、陰影は、従来のようにものの立体感を強調しているのではなく、区別されるべき人体と背景を融合させる役目を果たしている。

 それでは、いったい何のためにピカソはこうした表現方法を用いているのだろうか。ピカソが真っ先に言いたかったのは、「絵がは現実の写しではない」ということであった。どんなに写実的な表現であっても、絵画は単に現実を写したものではなく、絵画独自の秩序をもっている。そうでなければ絵画そのものが成り立たなくなってしまう。しかし20世紀に入るまで、このあたり前のことが表だって取り上げられることはなかったといってよう。目に見える現実に即しながらも、それとははっきりと区別される絵画独自の秩序と空間をつくり出そう。それがキュビスムの冒険の中身の一つである。

 中身はもう一つある。我々は、「遠近法」と呼ばれる方法で描かれた絵画の図式に慣れきってしまっている。つまり自分が絵の手前の中央にいて、奥に向かって次第に遠のいていく空間を見ているという図式である。しかし、実際には、我々は様々な方向から時間をかけてものを観察し、それらを頭の中で総合して一つの像を描いている。そちらの方がものの本当の姿であるのではないか、ともピカソは言いたかったのである。先に述べた空間の分断やずれはそのために生じてきている。

 さて、「ふたつの裸体」がキュビスムの入り口に位置する作品であるとすれば、「ブルゴーニュ・ワインの瓶とグラスと新聞」は、ちょうどその出口にあたる。ここで重要なのは、絵の具に砂が混ぜられ、画面がまるで壁のような質感をもっていること、実際の新聞、文字、絵の具が全く同例に並べられていることである。そのため、この作品は、壁のようでもあるし、絵画のようでもある。つまり、ここでは現実と額縁の中の絵画の間の厳然たる境界線が崩れようとしている。ピカソたちの冒険はさらに一歩を踏み出している。

(土田真紀・学芸員)

友の会だよりno.28 1991.11.26

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