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諏訪直樹 年譜

1954年(昭和29)
 6月16日、三重県四日市市に生まれる。父、武臣は日本キリスト改革派四日市教会で牧師の職に就いていた。生後間もなく幼児洗礼を受ける。


1956年(昭和31) 2歳
 四日市市の南方、赤堀町に移転。


1964年(昭和39) 10歳
 西北に隣接する松本町に転居。その前後から、画家・藤田典靖に絵を習い始める。


1965年(昭和40) 11歳
 岐阜県各務原市に転居。


1970年(昭和45) 16歳
 示現会会員であった江崎寛友の画塾に通う。各務原市で画家、井上忠明を中心とする洋画グループ「獏」に加わる。


1973年(昭和48) 19歳
 3月、東京芸術大学美術学部油画科を受験。一次試験合格、二次試験不合格。
 4月、上京、東京都杉並区高円寺に居住。
 フォルム洋画研究所に在籍(75年3月迄)。今井信吾、太田國廣、鈴木隆夫に師事。


1974年(昭和49) 20歳
 3月、東京芸術大学美術学部油画科を再度受験、不合格。


1975年(昭和50) 21歳
 4月、BゼミSchooling System 入学。柏原えつとむに師事。横浜市南区井戸ヶ谷上町に転居。


1976年(昭和51) 22歳
『Exibition Bゼミ』、6月5日−9日、横浜市民ギャラリー、横浜

「(コメント)」

一度、デッサンによって覚えた手先の感触というものは、なかなか忘れないものです。もう一度その感触を辿ることから、平面の作業を始めるべく木炭や鉛筆を手に取ってみるのですが、どうも落書きの域を出ないようです。

   『Exibition Bゼミ』図録、p.3


1977年(昭和52) 23歳
個展『饒舌な平面 vo1.1』、2月14日−19日、白樺画廊、東京[本図録cat.no.1]
 3月、BゼミSchooling Sysrem 修了。
『平面 77展』、3月29日−4月3日、神奈川県民ホールギャラリー、横浜[本図録cat.no.1]
『Exhibition Bゼミ』、6月1日−5日、横浜市民ギャラリー、横浜
個展『饒舌な平面 vo1.4』、6月13日−19日、アトリエ川島、東京
個展『饒舌な平面 vol.5』、8月15日−21日、田村画廊、東京[本図録cat.no.2]
『絵画の豊かさ展』、11月18日−29日、横浜市民ギャラリー、横浜(fig.1)[本図録cat.nos.2,3]

「(コメント)」

この2年ほど、繰り返される中で変化していく、自己と画面との係わりを、再度構造化する目論見をつづけてきました。しかし、行為の繰り返しに拘泥すれば、行為の量を表現の質ととりちがえることになりかねませんし、また、構造を構造として追求すれば、悪しき観念主義におちいる危険性を、はらんでいます。その両方向を避けながら、再構造化を考える時、今までなおざりにしてきた感性の問題が浮上してきます。しかし、この感性を問うということの困難さの前で立ちつくしているのが、私の現実のようです。

   『絵画の豊かさ展』図録


1978年(昭和53) 24歳
個展『The Alpha and the Omega』、1月23日−29日、コバヤシ画廊、東京

「(諏訪直樹個展)」

『私はアルファでありオメガである。……初めであり、終りである。』(ヨハネ黙示録最終章)まず、終りの無い作品で始めてしまいました。どだい人は永遠の反復に耐えられるように出来ておりません。そこで、途中で止めるわけです。止めた所に切口が出来てしまいます。その切口を塞ぐために、円環構造を考えつきました。それで、前回の作品〈IN−CIRCLE〉が出来るわけです。今回は円環をブチ破ったところに、独立した閉回路を分散的に創出せしめようと目論んでいます。ちなみに、作品タイトルは『私はアルファでありオメガである。』

   『美術手帖』、1978.2、p.272

『初発の微動展』、3月13日−19日、田村画廊、東京[本図録cat.no.4]
個展『The Alpha and the Omega』、5月22日−28日、真木画廊、東京(fig.2)[本図録cat.nos.5,6]
個展『The Alpha and the Omega』、10月9日−14日、コバヤシ画廊、東京
 この年より81年まで4年間に渡り、鈴木隆夫、若井正道、森田一と近代日本美術史の研究会を持つ。この間にまとめたレポートとして、「文人画」「渡辺華山と近代リアリズム」「明治における美術と文学」「明治における国家と美術」「美術史における大正期の意味」等をテーマにしたものがある。


1979年(昭和54) 25歳
個展『The Alpha and the Omega』、2月22日−3月3日、銀座絵画館、東京(fig.3)[本図録cat.nos.7-9]

「(諏訪直樹展)」

一年ごとに表現スタイルを変えて人を驚かすつもりは毛頭ないのですが、今回は視覚的には大きく変わったように見えるかもしれません。表現を支える思考や、その方法もこれまでの延長線上にあります。今回展開したのは、これまでの垂直・水平の分割に斜めの分割を加えたことです。それによって形体・色彩とも複雑になりました。また、運筆もこれまでの硬い点描から、ゆるやかな乱描に変化してきました。しかし作品は、むしろそのような変化などという時間軸の中で見られることを拒絶するように存在し得て、はじめてすぐれた作品になるのかもしれません。

   『美術手帖』、1979.3、p.268

 この頃2年間に渡り、吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を詳読する会を、鈴木隆夫、近藤泰弘等と持つ。


1980年(昭和55) 26歳
 1月7日、結婚のため横浜市金沢区長浜65−3に転居。
個展『波濤図』、1月31日−2月9日、銀座絵画館、東京(fig.4)[本図録cat.nos.10,11]

「(諏訪直樹展)」

絵画の表現史を遡ってみると、絵画の“正面性”、“平面性”等が、意外に、自明の前提たりえないことに気がつきます。身近な例をとってみても、我々は、タブローの歴史に比肩しうる障屏画の伝統を持っていますし、壺絵や扇面画を考えても良いでしょう。それらの、絵画の仮象空間と現実空間が交錯する境界的な空間の在り方に興味を持ちはじめました。それは、画面の側面をどう考えるかという課題を追ううちに、前面に現われてきた空間なのです。今回は、波形画面による『波濤図』のシリーズを展示します。

   『美術手帖』、1980.2、p.265

 3月26日、山田(小高)桃子と結婚式を挙げる。同時に信太(1975年1月18日生)を養子とする。
 11月30日、長女未知、誕生。


1981年(昭和56) 27歳
個展、1月5日−10日、コバヤシ画廊、東京[本図録cat.nos.12-14]

「(諏訪直樹展)」

前回の発表から約一年が経ちましたが、この一年間の怠慢をさらす結果になりはしないかと恐れています。認識の怠慢がそうさせるのかもしれませんが、最近、“何を根拠に据えるのか”という問いが理念の足下をすくってゆきます。もっともヴィジョンなど持ちえないところで制作し続けるしかないのが絵描きの宿命かもしれません。ともあれ、それを時代のせいにしたり、論理の側に押しつけたりしないように、自戒しながら進むことにしましょう。

   『美術手帖』、1981.1、p.242

『春雷展』、3月10日−24日、横浜市民ギャラリー、横浜
『ドローイング3人展』、5月11日−17日、画廊パレルゴン、東京
 6月、BゼミSchooling System にゲスト講師として招かれる。

「(諏訪直樹展)」

人の現実意識が歪みを生じた時に、その逆作用として生まれる幻想性が、表現することの根拠を形成するとすれば、作品とは、その幻想を鮮明に映しだす平らな鏡であることが最も好ましいはずである。絵画の偉大さとは、その表面が、幻想を映し出す鏡となり得た時に可能となるものだろう。鏡の中にあった幻想の空間を現実空間の真ん中に引きずり出した近代のカインたちの末裔である私は歪んだ現実意識を背負ったまま、壁から引きずりおろし、自ら歪めてしまった鏡に補正の筆を走らせるという倒錯の中にのみ可能性を探るしかない。

   『美術手帖』、1981.6、p.241

 7月、交通事故を起こし療養、直前に迫った銀座絵画館での個展を中止。
 8月12日、横浜市金沢区釜利谷町1365−791に転居。この頃、横浜市南区白金町2−24の中上清のアトリエの一階を借り、仕事場とする。


1982年(昭和57) 28歳
 2月、3月、6月、前年に続きBゼミSchooling System のゲスト講師に招かれる。

「失語の空間」

 自分の制作に深く関わったところで言葉を紡ぎ出すことはしたくない―という思い込みに、ここ数年支配されてきたように思う。だから、人との対談や座談会という席においても、口が重くなってしまうのは性格のせいばかりでも無いようだ。

 ここに、『工房ノート』のような形で文章を書き始めながら、何故、制作現場から言葉が消えてしまったのかを、あらためて考えている。回り路のようだが、そこから始めないと、この文章は先へ進みそうもないのだから。考えてみると、制作現場での失語症とは裏腹に、そこから少し離れた場所では意外に饒舌であったようだ。この制作現場での失語症と、別の場所、すなわち「美術史」という場での饒舌という分裂は、美術という同じ土俵にありながら、いっこうに統一の場を見出せずに数年が過ぎてしまった。

 では、何故そうなってしまったのか。多分それは、私個人の問題にとどまらない、現在という歴史的な時空の中で制作している者に共通の問題であるだろう。ひとつには、'81年という現在にまで押し寄せて来る'70年代的情況、つまりミニマリズムと分析主義の弊害なのかもしれないし、近代という大きな視点から見れば、反イリュージョニズムと主題の喪失が原因だともしいえよう。しかし翻って、制作する側からは、あえて意志的に選択した「失語」ではなかったか。作品の上で饒舌であろうと意志すればするほど、失語から出発しなければならない。少なくとも私はそうだったし、現在もその出発点からいくらも進んでいない。

 一本の線を画面に現出させるための回りくどい手続きに、制作の現場が釘付けにされている時に、その現場にふさわしいのは、「あ・う・お」といったうめき声に等しい発声練習であろう。その一本の線をめぐって、絵画であるとか、空間であるとか、形の問題であるとか、形式的な枠組から発せられる言葉の饒舌さが、その重要性にもかかわらず空虚にひびくのは、言葉が、「かささぎのわたせる橋」であるという意味で、精神に密着したものであるはずという言葉への期待からであろう。それは、言葉のせいではなく、制作の現場が、美術が精神の事柄であるという所から遠く隔たってしまっているからに他ならない。この表現の不毛に苛立っているのは、なにも言葉(批評)だけでは無い。

 発語以前に胸のあたりにつかえて、もう一度意識の奥に沈んでしまおうとしている「しこり」のようなもの。それをすくい上げようとして投げられる言葉の網は、それを取り囲みながらも、「しこり」の核心に触れることが無い。それを取り出すためにには、その「しこり」のような不定形の何ものかに、かたちを与えてやらねばならない。では、発声練習を始めよう。「か・た・ち」と。
 早見堯氏が指摘されたように、私のこの数年間の主な関心は、形の獲得にあるようだ。自分のことでありながら、「あるようだ」とはおかしな言い方だが、「しこり」は、まだかたちに成っていないのだから仕方が無い。「形の獲得」とは、形式的な枠組の方から投げられた網にすぎないし、「しこり」はまだ発声練習を始めたばかりだ。

 「しこり」にかたちを与えること、つまり発語の枠組としての「形の獲得」は、一本の線の現出から始まった。しかしそれが、一本の直線によって、或いは色面によって画面を分割するという方法を取らず、ドローイングによる不規則な線の集積のすきまに浮かび上がってくる負としての線といったものによったのは、今考えてみると、異様な光景でさえある。そこには、画面を実体的な平面としてとらえようとする感性が、奇妙に欠落している。これは西欧的な絵画感性からはずれてしまった、東アジア的な感性とでも言えそうである。この点に関しては、物の実在性を基盤としたイリュージョンを造り出すことに不得手だった近代日本の洋画家たちの感性を、私もまちがいなく受け継いでいる。

 話がそれてしまったが、誤解を恐れずに言えば、私の形の獲得は、その第一歩から虚構としての空間を予想していたはずだ。その後に続く、一種のシェイプドキャンバスによる作品の持っていた矛盾は、画面の中のイリュージョンとしての形が、キャンバスの外形の実体性にはばまれて、空間を孕むことが困難になっていたことだろう。もちろん、当時はそのようには意識されていたわけでは無い。むしろ、空間の問題は、虚構の側からではなく現実空間の側から、つまり厚くなった側面をどう処理するかという実務的な問題としてやって来た。そこで取られた解決策が、画面全体を側面化し、側面を画面化することであり、そうすることで虚空間と現実空間の関係を、別の次元で問題化しようとした。具体的には、画面が凹凸を持つことになったのだが、ここで気を付けなければならないのは、虚構としての絵画空間の喪失を、画面の凹凸によって代償しようとする倒錯に落ち込まないようにすることだ。レリーフに彩色するだけで空間を獲得しようとするのは、平面の実体性という神話の内部での堂々めぐりに足をすくわれるだけだろう。目指されなければならないのは、あくまでも虚としての空間なのだ。

 ここに至って、「か・た・ち」は、発語の空間を求めて新たに発声練習を始めた。「く・う・か・ん」と。

   『象』、vol.3、1982.4.1、pp.57-58

個展『日月山水』、3月24日−4月3日、銀座絵画館、東京(fig.5)[本図録cat.nos.15,16]
個展、11月5日―27日、ストライプハウス美術館、東京

「(コメント)」

もう一つの壁と化してしまった現代絵画に、幻想としての空間を再生させたいと願っています。そのための方法論として、非タブロー的絵画空間の可能性を探っています。

   『諏訪直樹展』案内状、ストライプハウス美術館、1982.11

『ニュールンベルク・ドローイング・トリエンナーレ』 ニュールンベルク、旧西ドイツ


1983年(昭和58) 29歳
 1月8日、次男創、誕生。
 1月より、BゼミSchooling Systrem の専任講師となる。87年まで継続。
『SCENE』展、1月31日−2月5日、銀座絵画館、東京

「(コメント;特集 現代美術とニュースタイル)」

 絵画(タブロー)は壁から生まれたのだから壁に還るべし、という創世記的預言の閉じた円環。

 新大陸に渡った清教徒の末裔によって預言は成就された。

 もう一つの壁と化してしまった絵画に、幻想の空間を復活させるのは、自らの手を血で染めた彼らだろうか。

 極東の絵師たちは、西方の預言者たちのように石の壁に囲まれていなかったので、閉じた円環の外にいた。しかし彼ら極東の絵師たちは、外発的近代という忘却装置によって、博物館の暗がりに追いやられてしまった。

 われわれの幻想の棲まう空間を壁の中から救済するために、彼らの霊を呼び戻せと、黙示の書に記されている‥…かもね。

   『美術手帖』、1983.3、p.47

『春雷展』、3月9日−24日、横浜市民ギャラリー、横浜[本図録cat.no.17]
『金色展』、5月3日−15日、神戸現代美術ギャラリー、神戸[本図録cat.no.17]

「手を動かすこと−Mへの手紙」

 君が小樽へ帰ってしまってから、もう5年にもなるだろうか。この前もらった、札幌での君の個展の案内状を見て、君が元気で活動していることを知って安心したしだいだ。

 Bゼミで2学年上級の君にはじめて会ったのは、たしかぼくがBゼミ1年の時、君にアルバイトの仲立ちを頼みに行った時だったと思う。結局そのアルバイトはだめだったのだが、おかげで君というよき先輩にめぐりあえたのだから、感謝しなければならない。

 丘の頂上近くにあった君の下宿は、北向きの6畳間で、冬などは寒々としていたはずなのに、妙に居心地がよかった。それは君の人柄にもよるのだろうが、そのころのぼくには宝の山のように見えた。君のデッサンの山や、カベ一面に掛けられた、白と黒だけの君の作品に、ぼくがすっかり魅せられていたからだろう。

 あのころのぼくは、2年間の浪人生活のあいだにかかえ込んでしまった表現への思い込みと、その当時の美術情況への反発とで、観念ばかりが肥大してしまった、頭でっかちの学生だった。Bゼミの1年目は、1点の作品も作れなかった。Bゼミの講師たちにケチをつけることばかり考えていたような気がする。とくに、飛躍した論理に自分の願望を込めて語る宇佐美圭司氏などは、かっこうの標的だった。しかし、一方自分で作品を作ろうとすると、何から手をつけてよいのか見当もつかず、苛立つばかりだった。

 Bゼミの2年目に入ってすぐBゼミ展があった。ぼくのはじめての作品発表だった。ぼくはそれに、でっちあげのやっつけ仕事を出してしまった(そうするほかなかったのだが)。ぼくは完全な敗北感にうちのめされた。そうしてはじめて、もっとつくらなければならないという、あたりまえのことに気がついたわけだ。

 しかし、何から始めればよいのか。そんな時、君の作品が教えてくれた。手を動かせと。白い紙に向かって手を動かすという単純なことから始めるより仕方ないのだと、君のBゼミ時代の、やみくもに描きちらされた無数のデッサン群が、教えてくれた。

 君が北海道から出てきて、Bゼミの門をたたいた時、君は現代美術のビの字も知らなかったという。何も知らず飛び込んだ世界で、君は苦しんだけれど、描くことだけは続けたと、柏原えつとむ氏から聞かされた。

 Bゼミ当時をふりかえって、ぼくにとって最大の教師は君だったのかもしれない。こう書くと、Bゼミの講師の先生たちから、しかられそうだが、これは多分ほんとうだ。

 ちょっと君を神話化しすぎたろうか。

 ぼくがBゼミを修了してから、君と前田一澄さんと3人で、グループを組んだ発表したね。そのころから、今度は君がスランプに落ち込んだようだった。そんな君を見るのが辛くて、一緒に酒を飲むことも、だんだんなくなって、君が北海道に帰ったのも後から人に知らされたのだった。別にケンカをしたわけでもなかったけれど、後味の悪いお別れになってしまったね。

 今年からぼくはBゼミで、今度は教える側になってしまった。むかしのぼくのような生徒がいないことを望んでいるよ。

 君とよく行った一パイ飲み屋も、もうなくなってしまったけれど、今度機会があった一緒に飲みたいね。小樽へも行きたいが、生活に追われる身には、それもかないそうもない。いつかまた、君がこちらで作品を発表してくれるのを、首を長くして待っているよ。さようなら。

   『美術手帖』、1983.7増刊号、p.36

現代美術の新世代展』、7月2日−8月7日、三重県立美術館、津[本図録cat.no.17]

「(コメント)」

 最近、私は自分はデシナトゥールだと規定してみようと思っている。これは昨今のパンチュールの流行現象への居直りでもあるのだが、もっと本質的には、自分の出発がドローイングであり、今も筆を持ってはいるが、線的表現にこだわり続けているからだ。

 キュビズムを持ち出すまでもなく、西欧絵画は物の存在を、物を覆う面において認識してきたのであり、カラーフィールドペインティングからミニマルアートヘ至る展開も、面を巡って展開してきた。それは、描かれた面が絵画の表面そのものと一致してしまう過程だといってもよかろう。つまり、絵画は壁(面)から生まれたのだから、壁に還るべし、という創世記的預言の閉じた円環なのだ。

 私はドローイングから出発することによって、東洋のすぐれたデシナトゥール達に出会うことが出来た。そして彼らから、閉じた円環に孔を穿ってゆくためのビジョンを与えられた。だから私は、特に80年以降、日本美術ひいては東洋美術への歴史的参照といってよいような方法をあえてとってきた。いや、まだその端緒についたばかりだ。

 もちろんこの方法には大きな危険がつきまとっていることも知っている。それは伝統という名の圧倒的な文化的優性因子への屈服の危険性であり、つまり近代日本画がその出発点においてなしたと同じ過ちを、再び犯す危険性である。しかし私は、他の方法論を今・ここに持ってはいないのだし、「絵画にはもう何も新しいことは無い」と居直る世紀末的な折衷主義者の群とともに再び閉じた円環に身を投じることも出来ないのだから、選びとった戦略を生きてみるしかあるまいと思っている。

   『現代美術の新世代展』図録

『釜山ビエンナーレ』、7月12日−31日、釜山市立ホールギャラリー・釜山市立美術館、釜山、韓国
『バルパライソ・ビエンナーレ』、10月28日−11月30日、バルパライソ市立美術館、チリ
Free Port Message '83、11月16日−23日、横浜市民ギャラリー、横浜

「(コメント)」

 最近「反風景」と「非風景」が僕のアトリエに住みついてしまった。この2つは「風景」では無いという点で一見よく似ているのだが、本人達にいわせると他人の空似なのだそうで、親に造反して家を飛び出してから「非風景」の方の血統はよくわからず、日陰者の扱いを受けているが、僕の調べたところでは、昔は「山水」とか「花鳥」とか呼ばれた名家だったらしいのだ。それを知ってから僕は、ケンカの際はついつい「非風景」のかたを持ってしまうのだ。

   FREE PORT MESSAGE '83図録

『複眼の試み展』、12月5日−17日、ギャラリーM、福井


1984年(昭和59) 30歳
個展、1月9日−18日 銀座絵画館、東京
個展、5月3日−15日 ギャラリーるなん、東京

「(アンケート)」

@[あなたの作品には日本の伝統的な造形要素、あるいは“日本的なるもの”が見られますが、そういう要素を作品の中にとり入れられた動機、時期は?] 

そのとき伝統(日本的なるもの)を意識されたかどうか。]'80年ごろシェイプト・キャンバスがもっている側面の見せ方の処理の問題を考えているうちに“屏風”という形に行きついた。これだと全体を側面化できる。掛軸の形を使ったのも、上下には閉じられているが、横に関しては規制が強いという独特の性質を画面の空間形式にかかわらせるため。いずれもあまり日本的、伝統的なるものの意識はなかった。面で埋めていくより線の感覚で仕事をしているのは日本的かもしれない。

A[技法上で日本の伝統的な技法をとり入れた、あるいは参考にしたものがありますか?]

水絵具のほうがなじむのでアクリルを使っている。

B[日本美術史上、どういう作品・作家・時期に最も興味をもっていますか?]

唐絵の流れにある水墨画に魅かれる。ただ時代として興味があるのは日本近代。近代作家がつきつめながらどうしてもダメだった部分構成力のなさ、情緒性を正の要素に転換して自分でひき受けたいと思う。

C[今後もこのような仕事を続けていきたいと考えていますか?]

モノクロームの水墨画的空間を実現させたい。

   『アトリエ』、1984.7、p.19

『現代日本47作家ポスター原画展』、10月26日−11月7日、西武アート・フォーラム、東京


1985年(昭和60) 31歳
個展『非風景』、1月7日−12日、コバヤシ画廊、1月7日−19日、コバヤシ画廊アネックス、東京[本図録cat.nos.18-20]
個展、1月19日−30日、ストライプハウス美術館、東京[本図録cat.no.18]
『絵画と彫刻の新世代展』、6月10日−29日、佐谷画廊、東京[本図録cat.no.22]

「『反転された山水』−浅井忠の風景画について」

 ここ数年の間、「風景」という言葉が、私の頭から離れないで居る。この、一見平明にみえて、それ故に一層厄介なこの言葉が、私の頭蓋の内に居座ったのは、私が昭和一〇年代の風景画について考えていた頃からだ。

 昭和一〇年代の風景画について考えること、それは「風景の死」について考えることだ。

 昭和一〇年代の風景画に共通してみられる特徴、即ち、遠近法的秩序の解体、それに伴なう平面化、形態の流動化、装飾化、伝統的モチーフの選択、それらは須田国太郎や小島善三郎ら独立美術の作家や、熊谷守一、中川一政、安井曽太郎、梅原龍三郎、そして若き山口長男の諸作品に顕著である。「伝統回帰」「日本的フォービズム」「油絵の土着化」などと評されるこの期の油絵風景画の動向に私は風景の死を見る。

 風景の死、それは非風景(=山水)の侵蝕によってもたらされた。ちょうど体内のガン細胞が徐々に身体をむしばんでいくように。とするならば、その死の原因となる非風景(=山水)は、風景の誕生において、既にその内部にはらまれていたとみることも出来よう。

 浅井忠における風景の誕生について書くつもりで「風景の死」から書き始めたのは、死から生を視るパースペクティブによって視えてくるものがあると思うからだ。

 今年の春、東京国立博物館に寄贈された高野時次の浅井忠コレクション七三点が公開された。その内訳は、カタログによれば、油絵一一点、水彩デッサン五六点、日本画六点というものであり、数字からも分かるように水彩画が圧倒的に多い。そのせいもあってか、水彩画家=浅井忠という、以前から持っていた印象をより深めるものだった。もうひとつ踏込んで云うならば、農村風景小品水彩画家=浅井忠というところだろう。

 勿論、浅井は、三宅克己や大下藤次郎のように水彩専門を自称したわけではないし、モチーフも農村風景に限らず人物画等も描いており、大作もものにしている。しかし、全画業を通して傑出しているのは、やはり農村風景を扱った水彩小品であろう。ここに、油絵がまだ定着するに至らない明治初期洋画という時代的制約のみを読取るのは間違いだろう。というのは、このような消極的な評価では説明しきれない輝きを、これらの風景小品はもっているからだ。農村風景というモチーフ、水彩という素材でなければならないという積極的な必然性を読取らなければならない。

 この輝きは何処から来るのだろうか。私は、今回の展示を見ながら、浅井の風景画は、その裏側に隠された「反転された山水」からの逆照射によって光り輝いているのではないかと考え始めていた。つまり、浅井は、自然の懐に抱かれた家屋、点景としての人物という山水的モチーフを農村風景に見出し、水墨と共通する空間感を持つ透明水彩と出会うことによって、山水を風景へと反転し得たのだ。

 例えば、「浅井の一連の農村風景は、あくまで土のにおいのする日本の田園であり、湿気の多い空気につつまれて、柔かい地味な色調の中にあたたかい情感をたたえる固有の風土である。」(乾 由明)というような記述によって表現される浅井風景画の輝きは、「農村の風景の真の姿やかたちへの率直な目」(原田 実)によってもたらされた「日本的リアリズム」(乾 由明)によるのであろうか。

 浅井の風景画に流れる「湿気の多い空気」は、等伯の松林図にも流れており、その「あたたかい情感」は蕪村の竹渓訪隠図と同質のものではないだろうか。つまり、反転された山水は、客観化され、対象化されたモチーフという相貌で現われるので、我々はそこに日本固有の風土がリアルに写しだされていると錯覚してしまうのだ。

 その意味で浅井はリアリストではない。彼は、その画業の最初期に、風景画の定型をつくりだし、それの虚構としての完成度を高めるために一生を費やしたといえるだろう。

 浅井の作品には、その最初期から晩年に至る迄同じ空気が流れ、同じ情感をたたえているのは、彼が一生「胸中の丘壑」を描き続けたためである。

 日本の風景画史は、その出発点において、浅井忠という稀有の才能を持ち得たために、その最初期に最も高い到達点に達してしまったようにみえる。しかし、その到達は、山水(=非風景)という伝統的視覚世界を裏返しに取込むことで可能に成ったのであり、やがて、裏側に押込められた非風景は、徐々にその内部を侵蝕し、表へと露出して来る運命にあった。これを生と死という言葉にこだわっていうならば、浅井における風景の誕生は、見事なる死産であったといえるだろう。まるで生きているような死……。

 昭和一〇年代における風景の死を、梅原龍三郎に代表させるならば、日本の風景画史は、浅井に始まり、その直系の梅原に終るという、たった二世代の寸劇であったようにみえる。

   『象通信』、no.7、1985

 9月より、横浜市教育文化センター主催の成人学校で「絵画入門」の講師を務める。89年7月まで継続。
個展、10月20日−11月20日、ヒノ・アート、福井
個展『諏訪直樹展 さまざまな眼-6』、11月5日−24日、かわさきIBM市民文化ギャラリー、川崎[本図録cat.nos.23,24]

「(コメント)」

非風景、
それは、
勿論、風景ではない。
反風景〈アブストラクト〉でもない。
それは多分、
博物館の暗がりに見出されるはずの光芒。
自然、という名の怪物の吐息。

そしてそれは、

ロトの妻よ、教えて欲しい。
塩の柱になった貴方が振向きざまに見たものを。
それは燃え上がるソドムとゴモラ、
それとも、

私達は、振向く事を禁じられて久しいのだ。

   『諏訪直樹展 さまざまな眼-6』図録

 この年より、中上清と共同で借りていたアトリエで、北澤憲昭、中上、森田と近代日本美術の研究会を新たに始める。「読画会」と称するようになる。原田光、藤島俊曾、森登、山梨俊夫、山本直彰、若井正道、和田守弘等が参加。

1986年(昭和61) 32歳
『'86岐阜現況展一戦後生まれの作家たち<平面部門>』、4月11日−5月11日、岐阜県美術館、岐阜[図録cat.nos.24,25]

「(コメント)」

 私達は、「絵画」の終焉以降の絵画情況に絵画すべく在る、と言えるだろう。

 この場合の「絵画」とは、西欧近代絵画、つまりルネッサンス以降に、自立的表現と看做されるに至ったそれを指しており、その終焉と言う時、その自立へ向けての歩みの果てにむかえた死を意味している。しかしこの死は、絵画そのものの死を意味してはいない。それは西欧という一地域の、近代という一時代に形作られた制度としての「絵画」の終焉に過ぎないからだ。

 絵画は死んではいない。

 しかし、このことは、「絵画」の死とは無関係に、我々が自由に絵画し得ることを意味しない。それは我々が既に意識するとしないとに関わらず、この「絵画」の制度の内部に組み込まれており、そしてこれが、我々のような非西欧地域における絵画の近代化の意味なのだ。

 だから、我々の絵画を可能にするためにはこの「組み込まれ方」を仔細に検討し、「絵画」の屍の中から「組み込まれなかった」絵画の芽を見付け出し、それが花を咲かせ実を付けるまで、根気よく絵画の大地を耕すしかないだろうと思っている。

   『'86岐阜現況展』図録、p.24

『日本現代美術展』、5月11日−6月25日、台北市立美術館、台湾[本図録cat.no.23]

1987年(昭和62) 33歳
『第1回神奈川アート・アニュアル』、1月21日一2月1日、神奈川県民ホールギャラリー、横浜[本図録cat.no.24]
個展、6月15日−27日、なびす画風、東京
個展、6月22日−27日、コバヤシ画廊、東京
『もの派とポストもの派の展開−1969年以降の日本の美術』、6月29日−7月29日、西武美術館、東京[本図録cat.nos.4,11,16,25]
『斎藤豊作と日本の点描』、8月8日一9月30日、埼玉県立近代美術館、浦和[本図録cat.no.4]
 8月一杯で、それまで勤めていた青果卸の会社「水沢」を退職。これ以降制作に専念することとなる。
 10月14日、フォルム洋画研究所時代の師であり、年上の友人であった鈴木隆夫が急逝。

「PH-8709 平潟落雁」

 この作品を制作する一年程前から、私の住んでいる「金沢八景」(横浜市)を歩きまわりながら、風景スケッチをしていた。風景、或は風景的な空間についての考えに形を与える為にアトリエの外に出てみたのだが、結果はといえば、近代的な風景画の語法から逃れられない自分を発見しただけだった。その後、アトリエに帰って制作したのが、「平潟落雁」他、6点の作品。で、それらのスケッチはどうしたのかというと、今もアトリエのカルトンバッグの中で眠っている。そして目の前には広重描くところの名所絵「平潟落雁」の複製が壁にピンで止められて、恨めしそうにこちらを見据えている。

   『日経IMAGE CLIMATE FORECAST』、1987

「色としての金は、作家の手の中でコントロールすることができる」

モノとして金をとらえる。そこには、常に高貴なものとしての意識が付きまとっている。使えば、たちどころに豪華絢爛になる。しかし、使い方を間違えば結婚式場の金屏風のように、あるいは街の看板のように、いとも簡単に通俗的なものになってしまう。モノとしてではなくて、色としてとらえてみてはどうだろうか。黒を多用することによって絵がしまってくる。金を用いることによって、絵は向こう側からこちら側に飛び出してくるような、強い効果を持つことができる。もちろん、そこにはまかり間違えばとんでもない世界に入っていく危険性もある。けれど、色としての金は作家の手の中でコントロールすることができる。

アクリルで木綿の帆布に直接描いていく。油絵具のように膠層でキャンバスを分離し色をのせるのと違って、絵具は深く木綿の繊維の中にまで染み込んでいく。発色はかなり抑え込まれ、金の持つ輝きは阻害される。それだけ、色としての金はコントロールしやすくなっている。僕は下地にウルトラマリンを塗り込んだ上に、金を薄く掃いていく。それでも、下地の色は消えてほとんどグレーにしか見えなくなる。金の覆い隠す力にはびっくりさせられる。普通に用いれば金をサッと塗っただけで、表面は金色の輝きを放ち始めるだろう。そのために、壁塗り用のローラを使って、下地のブルーを引き出しながら金を薄く薄く掃いていく。

その上にナイロンのブラシで、ストロークのままに金銀を混ぜた緑、紫、青などの線を加えていく。線は錯綜し、互いにせめぎ合い、形を強めていく。すると、そこに直線的なものが出てくる。それが画面を区切る。さらに、ひとつの線に対して平行の線が生まれる。一枚の布が俯瞰的な広がりを持ち始める。大和絵の吹き抜けの技法―画面に緞帳、襖、庇、たなびく雲などの複数の平行線を持ち込んで奥行きをもたらせている−と、パンと繋がる。意図したわけではない。最近は、それに垂直・水平の線が加わる。あるとき、自分の仕事をずっと追いかけていって言葉化する、ということをやってみた。それで、はたと気がついた。「俺は論理的には決して進行していっていない」ただ自分の前に現れたモチーフを追いかけていくうちに、それに付随したモチーフが次々に現れてきた。そのモチーフが前のモチーフの殻を食いやぶって主題化していく。それらの自立した運動として作品はある、作家の仕事は展開していくのだ、と。

金箔を使った狩野派の仕事を意識的に見た時期もある。しかし、物質としての金には興味をもてない。それよりも裏箔、金泥の仕事の方に親近感を感じる。あくまでも色としての金。なぜ、金なのかと問われて「世紀末だから…」と絵描きが発言したら、それは嘘だという気がする。常に時代の空気を吸い込んでいても、時代が絵描きに直接作品を創らせるわけではない。強いて言えば、僕が金にこだわり、それを使って制作を続けているのは、金が作家の空間表象をどうしようもなく阻害していく装置として作動するからだ、と言えるかも知れない。色として扱おうとしても、金は物質としての存在感を強く主張する。それが絵の中に入り込んでしまうと、絵そのものの実体を失わせてしまう程の力を発散する。見る角度、意識によっては地と図はいとも簡単に逆転してしまう。形は、光にもなり影にもなる。どこが中心なのかわからない。多中心的で、眼のやり場を失わせる。常に拡散する意思を孕んでいる。一触即発、視覚の中で見た瞬間にバラバラにくだけ散ってしまう。それでいながら、きわどいところで自立している…。「金は光だ」その言葉が頭からなぜか離れなくなっている。光そのものを、絵の中に持ち込もうとしているのかも知れない。あるいは言葉にならない部分で、時代の空気が僕に金を選ばせたのかも知れない。

  ACRYLART、1987.11、p.11


1988年(昭和63) 34歳
 1月、横浜市南区井戸谷下町にアトリエを移す。
個展『屏風絵』、2月22日−27日、コバヤシ画廊、東京(fig.6)[本図録cat.nos.26,27]
 4月より、社会福祉法人蒲田保育園にて、園児を対象とした絵画教室の講師を務める。90年9月まで継続。同時に、Bゼミ付属のKクラス(一般受講者対象)担当の講師となる。

「表紙の言葉」

 今回の表紙は、リトグラフとシルクスクリーンによる版画を原画に使用しました。版画という、いわば原始的な印刷媒体によって成った作品が、もう一度印刷工程を経て、つまりメディアの変化にともなってその内実をどのように変化させてしまうのか、そこに作り手の興味は集中しているのですが………。

   『淑徳広報』、1988.7.1

『SUMMER3人展』、8月8日−13日、コバヤシ画廊、東京
『Art in Bookshop−アルケーとバイオ』、10月6日一16日、ストアデイズWAVE、東京

「表紙の言葉/非風景」

 日本で絵画のモチーフとして最も多く描かれてきたのは「山水」でしょう。この「山水」を支える自然観は、「風景」を支える西欧の自然観と大きく隔たっており、それが絵画の空間構造までも違うものにしています。日本の山水画の空間構造の特徴をあげると次のようになるでしょう。中心の不在、或いは多中心、多視点的パースペクティブ、面の不連続性、実在感の希薄さ、等々。このように描き出された自然を私は風景ならざる自然、つまり「非風景」と呼ぶことにしました。私の作品は抽象的なものですが、その中に、私の「非風景」への思いを読み取っていただければと願っています。

   『淑徳広報』、1988.11.25

『ニュージャパニーズスタイルペインティングー日本画材の可能性』、12月2日−25日、山口県立美術館、山口(fig.7)[本図録cat.no.27]

「(アンケート)」

Q1[近年あなたの制作活動の上で、いちばん気になること、あるいは興味をそそられていることを書いてください]

無限連鎖する絵画について

開いていくこと
閉じた全体、という絵画の近代主義に対峙すること
現実空間に無限定に拡散するのではなく、構造的に開いていくこと
つまり絵画空間が内部構造的に開いていなくてはならない

無限…ありえまいが、つまり未完であること
閉じないために未完であること
限界を見失うこと

常に次の一枚を予想しつつ在ること
非決定を重層化させること
信じないことを方法化すること

内部と外部、主体と客体の境界に風穴を開けること
開いていくこと

Q2[素材(画材)と表現ということで自分の作品にそくして述べてください。同時に、なぜ現在素材のひとつとして日本画絵具を使用しているのかも含めて青いてください]

 我々は、「素材」であることを止めた裸形の「もの」たちを、美術概念の袋小路に追い詰めてしまった。つまり、個々の作家の恣意性に任せられる「浮遊せるメチエ」(中原佑介)すら失ったのだ。だから我々は「浮遊せるメチエ」の恣意性へと逆行することも許されないし、浮遊せるメチエを再び歴史的文脈や伝統へと簡単に繋留できると考える事も出来ない。此処から問いが始まるのだ。それでも絵画するというとき、「メチエ」とは「素材」とは何かと。

 例えば私が「新岩」といわれる人造岩絵具を使用するのは、それが伝統的メチエと繋がっているからではない。むしろ逆にそれを裏切って特異な歪んだメチエヘと変貌してしまっているからだ。その歪みを逆手にとれば、「もの」へと解体した「素材」をその物質性にこだわりつつ、何等かの新たな「メチエ」へと蘇生させる可能性が拓けるのではないかと思っているからだ。しかし…紙数が尽きた。

   『ニュージャパニーズスタイルペインティング』展図録

『陶壁画』を静岡国民年金保険センター(静岡)に制作。陶板による作品の初めての発表、設置。


1989年(昭和64/平成1) 35歳
個展、1月6(?)日−11日、ギャラリー・ラ・セーヌ、山口
個展、1月9日−1月21日、ハイベル青山、東京

「表紙の言葉/扇面遊戯」

 作品制作を一種のゲームと考えることも出来ると思います。ただし相手が「美」という正体不明の相手なので、ゲームの結果はいつも有耶無耶になってしまうのですが…。
「扇面散らし」という絵画ゲームがあります。このゲームは実は面白いのですが、「自然に」というルールに則っているのが気に入らないので、「不自然に」「わざとらしく」というルールに変えてやることにしました。題して「扇面遊戯」。ゲームの結果はいかなるものになりますやら…。

   『淑徳広報』、1989.2.25

「メチエの崩壊」

 山口県立美術館から展覧会出品のお誘いがきた。展覧会の趣旨は、日本画材、特に日本画顔料を使用している若手の現代美術家の作品にスポットをあてて、日本画材の素材としての可能性を探ろうというものらしい。ちょうど素材から見た日本画について考えているところであったので出品させていただくことにした。

 しかし、素材について語るときに、技法を抜きにすることは出来ない。つまり、技法を通じてはじめて素材は素材たり得るのであって、技法と乖離した素材はただの「もの」へと転落、或いは昇華してしまうのだ。だから、日本画材という時に、既にそれは「日本画」と呼ばれるある種の技法と素材との結びつき、すなわちひとつのメチエを前提にせざるをえない。つまり日本画のメチエを問題にしない「日本画材の可能性」はありえない事になる。

 では日本画のメチエとはどのようなものか、現代日本画においてそれを見てみると、余白のない全面着色、厚塗りのぼってりとしたマチエール、色彩の重層構造、顔料(岩絵具)の粗粒子化といったところが眼につく。これらの特徴は、我々の知っている伝統絵画のそれとは全く異質であり、それを同じ日本画のメチエとして括ることが不可能な程大きな落差がある。この落差を生み出したのは、近代日本画がその出発点において既に抱え込んでいた色彩への強い渇望であったといえるだろう。また、アンフォルメルに代表される絵画の物質化状況がそれを加速させたともいえる。いずれにせよ、日本画のメチエはその極北にまで至り着いたのであり、既に伝統的メチエとの間には、大きな断層が生じている。

 ところで、今回の展覧会は「日本画材の可能性」というタイトルにもかかわらず、日本画の展覧会ではないという不思議な事態がおきている。このような事態を引き起こしているのは、現代美術という文脈と日本画という文脈が平行関係におかれているという日本の美術状況なのだ。

 実のところ日本画は既に伝統絵画ではない、つまり現代美術なのだが、「日本画」という実体の無い理念の牙城に閉じこもり、美術の現在性という意味に過ぎない「現代美術」は、ひとつの様式のようにふるまっている。しかし現実には、この両者は同一の状況、即ちメチエの崩壊(素材と技法の乖離)の状況に直面している。そのように見えないのは、一方がアルチザン的手技によって断層を絵肌の底に塗り込めてしまい、一方は崩壊を解放へと倒錯させる詐術によって、状況を単なる美術領域の拡大へとおとしめてしまったからだ。その過程で「浮遊せるメチエ」(中原佑介)の恣意性へと逆行したり、伝統的メチエとの密通が行なわれたりするのだ。だから、現在の状況をメチエの解放状態と錯覚し、その恣意的選択のひとつとして日本画材を捉えるならば、この展覧会の企画意図は何のアクチュアリティーも持たない事になる。

 長々と展覧会の企画意図について書いてきてしまったが、最後に自分の作品の素材について少し触れておきたい。素材の全てについて触れる紙数は無いので、展色剤としてアクリルエマルジョンと、顔料として新岩絵具に絞らせてもらう。

 ちょうど文房具の最先端として開発されたワープロが、我々の書記行為についての反省を強いるように、アクリル絵具は、近代における「浮遊せるメチエ」を支えてきた工業生産化された絵具の最先端として、かえって、我々のメチエに対する反省を促す可能性を持っている。

 又、新岩絵具は希少な天然岩絵具の代用品として開発されながら、百色以上に及ぶ色彩の豊富さと量産化によって日本画顔料の主流にのしあがり、現代日本画のメチエの解体を促してきた。

 この両素材は、歴史的メチエを補強するために開発されたのだが、反省的意識において使用するならば、逆に、メチエの崩壊状況を覚醒せしめる反省の道具たり得るように私には思われる。

 私は、アトリエでこれらの奇妙な素材と格闘しながら、メチエの崩壊と再生について思い巡らしている。

   Art’89、1989 SPRING、p.37

「(アンケート)」

1・A[代表作をあげてください。そして、それを代表作とした理由を教えてください。選べない場合はその理由を教えてください]

代表作「無限連鎖する絵画」(1988〜 )。そもそも本人が代表作を選ぶというのはヘンなのだ。最も愛着のある作品とか、自信作とか、最も大きな(小さな)作品とかでも聞いてくれたほうが素直に答えられるのだが……。この「無限連鎖する絵画」は、未完の作品であるが故に最も愛着があるのでここに掲げておいた。つまり、殊の外この作品が気に入っているとかでなく、現在進行形なのでいちばん気に掛かっている、という程度の理由である。ただ付け加えるならば、この作品は現時点に於いて最もスケールの大きな作品である。

1・B[選んだ作品のコンセプト(ねらい)、あるいは制作過程を記述してください]

この作品のコンセプトのひとつは、タブロー的絵画、つまり、「閉じた全体」という近代的作品概念に対するパラドックスを試みることである。そもそもこの「無限連鎖する絵画」というタイトル自体がパラドックスなのだが……。

2[芸術の定義が自分の中にありますか。あれば、内容を記述してください。なければ、理由をおしえてください]

定義などにはなり得まいが、芸術とは、作品という「図」に対する「地」の様なものだろう。私は「もの」を作っているのだが、それを芸術という「地」の上に乗せなければ作品に成らないのだろう。ところが、最近その「地」が「図」に見えてきてしまう、つまり「地」を「図」とするもう一つの「地」が、チラチラと見えてきたような気がするのだ。そうすると、私の作った「もの」は作品としての「図」なのか「地」としての何かであるのか……。

3[美術史の流れのなかで自分の作品の位置を考えるとき、どのような位置づけになると考えますか。もし、そのような考え方をしないとすればその理由は?]

美術史の名において自分の表現を正当化する時にのみ、「美術史における自分の作品の位置」なる発想が生まれるのでしょうが、私はそのような正当化を必要としていないので、そのような発想はしません。

4[あなたの制作スタイルに影響を与えた(与えている)人、作品、ことがら(もの)を教えてください。また、それのどのようなところに影響を受けましたか]

まず挙げておかなければならないのは、キリスト教、というよりもその信仰(キリスト教に限らないが)というものの不可解な在り方だろう。それは、理解しようと思っても不可能なのだ。信じるしかないのだ。だから、私のように信じることの出来ない人間は、信じないことを方法化するしかないと思っている。それを実践する場として、私は美術を選んだのかもしれない。だから、よくある「芸術信仰」とも、私は無縁であるつもりだ。

その他、影響を受けたもの(人、作品)は数限りなく在るが、思い付いたものだけ列挙してみる。

金剛寺蔵日月山水図屏風、モーリス・ルイス、吉本隆明、松田研、クロード・モネ、浦上玉堂、鈴木隆夫、松林図屏風(等伯)、フランク・ステラ、手塚治虫、柏原えつとむ、山田桃子、浅井忠、俵屋宗達、父親、風景……etc.

5[いま、自分の作品制作以外でもっとも興味のあることはなんですか?]

私の恩師であり、友人でもあった故鈴木隆夫における「当為としての表現」について考えている。

彼にとって、表現においてまず問われるべきは、その表現の必然性であったように思われるが、彼にそのような考え方を強いた必然性を、私は今問おうとしている。

  WAVE、「特集 アート新世紀」、1989.4、p.91

個展『無限連鎖する絵画 PART2』、5月29日−6月3日、コバヤシ画廊、東京(fig.8)[本図録cat.no.29]

「表紙の言葉/九景目の富士」

 私の住んでいる金沢(横浜市)の地は、かつては金沢八景と呼ばれた景勝の地で、広重なども名所絵を何点も残しています。もっとも今は、海岸線の埋め立てや都市化によって見る影もありませんが……。この八景のほぼ真ん中に、八景を一望できる九覧亭と呼ばれるビューポイントがあります。八景なのに何故「九覧」なのかと人に問うと、「ここからは八景だけでなく富士もよく見える。」という答えがかえってきました。

   『淑徳広報』、1989.6.1

 6月、故鈴木隆夫の墓を、遺族の意を受け友人たちと協同し、陶板にて制作。
『Japanese Contemporary Art in the 80's−90年代へのプロローグ』、6月23日−7月30日、Heineken Village、東京[本図録cat.nos.15,28]

「素材と語る30 岩絵具=諏訪直樹(T)」

 「日本画」という言葉がある。日本人であれば誰でも「ああ、あの手の絵のことだ」と、なんとなく分かるにもかかわらず、不思議なことに、私は、納得できる定義を聞いた事がない。とりあえず手元の「広辞苑」を開いてみる。

 「明治以後ヨーロッパから入った西洋画に対し、わが国在来の技法・様式による絵画。墨や岩絵具を主として若干の有機色料を併せ用い、絹・紙などの上に毛筆で描く」

 さすが広辞苑というべきだろうか(?)。一般に信じられている「日本画」についての認識を正確かつ簡潔に述べている。しかしこのように語られる「日本画」が「日本画」の現状といかにかけはなれているか。「様式」においても「技法」においても、わが国在来の絵画からは、程遠いものになっているのが現代の日本画なのだ。

 「新岩絵具」と呼ばれる人造の岩絵具がある。陶器の釉薬と同じ製法で作った「色ガラス」を粉砕して顔料としたものだ。言ってみれば「人工の色砂」である。この「人工の色砂」が、現代日本画の顔料の主流である。この「人工の色砂」は、はじめは、希少な天然岩絵具の代用として作られたのだが、人工故の豊富な色彩と経済性によって、その主役の座を奪ってしまった。勿論、天然岩絵具や、墨や、若干の有機色料も使われ続けてはいる。しかし、現代日本画の色彩体系を支えているのは、百色以上の色数を持つ「人工の色砂」なのだ。

 人工顔料が今更珍しい訳ではない。20世紀絵画は、人工顔料によって支えられてきたといっても過言ではない程、我々のまわりには人工顔料が溢れている。しかし、「新岩絵具」は、ただの人工顔料ではない。天然岩絵具の持つ顔料としての特質(これは、普通に考えれば欠点ともいえるが)であるところの粗粒子性、高屈折率、高比重を、そっくり真似る為に大変迂遠な製造過程を通って作られた、顔料と素直に呼ぶのがはばかられる程屈折した顔料なのだ。

 この屈折を生み出したのは、日本画は「我が国在来の様式・技法による絵画」であらねばならないという当為と、西洋からもたらされた「美術」という制度を受け入れた事によって「日本画」である、という歴史的現実とのギャップによって「日本画」自身が受けた歪みなのだ。言ってみれば、「新岩絵具」の屈折率を透かして視えるのは、近代日本美術史、就中「日本画」の歪みそのものなのだ。

 擬制としての「日本画」は、これから先もこの「人工の色砂」を「岩絵具の代用である」とうそぶき続けるだろうが、そろそろ我々はこの美しい色砂を「わが国在来の様式・技法による絵画」という嘘、つまり「日本画」から、解き放ってやってもよいのではないか。そのためには、まず「日本画」として括られている作品群を、ただの「色砂膠絵」としてすくいあげる必要があるだろうし、日本画のメチエとして信じられている質的判断から極力遠いところで、別のメチエの可能性を試みてみる必要もあるだろう。

 私もそれを試み始めたばかりだが、容易なことではないのは眼に見えている。

  『新美術新聞』、1989.7.1

「素材と語る31 岩絵具=諏訪直樹(U)」

 私は、現在、アクリルのグロスメディウムで人工岩絵具を溶いて使っているが、初めて岩絵具を使ってみたときの驚きと戸惑いは、私の「絵具」に対する認識を変えるほどのもので、ちょっとしたカルチャーショックといってもよいものだった。

 私に限らず通常の義務教育によって水彩絵具を知り、その後、油絵具、透明水彩、アクリル絵具等の出来合いの工業製品を使ってきた者にとって「絵具」とは、ほとんど「色彩」という語と同義であり、絵具の物理的側面について思い巡らす事は殆ど無くなっているようだ。

 たしかに我々も「マチエール」という言葉で絵具の物質性について考えることもある。しかし、それは結果としての物質性であり、それを引き起こす原因としての物理的側面に思い至る事は希であろう。岩絵具によって私が受けたショックは、絵具の物理的側面にたいする鈍化した感性への一撃だったのだ。

 それまでも私は、絵具の、或いは絵画の物理的側面に全く無関心だった訳ではない。しかし、その関心は、殆ど展色剤と支持体に向けられており、顔料には向けられていなかった。実際、油絵具やアクリル絵具に通常使われている顔料は、その粒子の細かさ故に展色剤の中では色彩そのものとして振舞うのだ。そしてマチエールを決定するのは、展色剤の粘り具合と支持体の表面の状態なのだ。

 ところが岩絵具は、私の持っていたマチエールに対するそのような常識を破ってしまった。この場合、マチエールを決定するのは顔料なのだ。

 「砂」と呼ぶのが相応しい極大粒子の顔料が平坦な麻紙の表面を覆い尽くす、しかも何層にも積層して…。粒子はガラス質のため、光線の具合によってチカチカとひかる。しかも屈折率が高いので色は不透明である。膠によって定着された「砂絵」…。面白いのは、このような「現代日本画」の特殊なマチエールが、「わが国在来の技法・様式」という必然性によってではなく、油彩画の技法・様式を岩絵具と膠に置き換えることによって生み出されてきたということだ。ここで特殊というのは、そのように生み出されたマチエールが、わが国在来のそれでも西洋画のそれでもない、特異な質感を成立させているということだ。

 我々はこの特殊な質感をその特殊性において面白がれば良いのではないか。事実、特殊な質感を生み出すこの顔料は、工業製品化されチューブに詰められた「使いやすい」絵具に慣れてしまった我々の感性には、実に刺激的な物質なのだ。

 最初に、人造岩絵具をアクリルのメディウムで溶いていると書いたが、この人造岩絵具と色々な展色剤と支持体の組合わせをもっと試みて・謔「と考えている。

 支持体も古くから使われている絹、和紙、木の他に木綿や麻のキャンバス、素焼きの陶板、各種の金属、ボール紙、コンクリート、石材等々が考えられるし、既に試みている作家も大勢いるだろう。

 展色剤も膠やアクリルのほかにエポキシ等の強力な接着剤を使ってみるのも、支持体の幅を広げて面白いだろう。又、ある絵具メーカーは、岩絵具を顔料に使った油絵具を発売していると聞く。

 このように書いてくると、岩絵具、特に人造岩絵具は、様々な文化事象が無節操に結合した現在のハイブリッド・ジャパンに最も相応しい顔料のような気がしてくる。

   『新美術新聞』、1989.8.1

 夏頃より、若井正道と共にカヌーを始める。
『4人展』、9月18日−10月7日、ヒノギャラリー、東京
『日本の美「琳派」』、10月7日−11月5日、福岡市美術館、福岡
10月9日より14日まで、銀座、コバヤシ画廊にて鈴木隆夫遺作展を開催。

「(表紙の言葉)扇面遊戯(2)」

 1号とびましたが、扇面遊戯シリーズの2回目です。私が扇面の形に惹かれたのは、二つの理由からです。ひとつは、円弧の一部なので中心を持つにもかかわらず、その部分が欠落しているということ。それゆえに私たちの眼は、中心を探しながらさまよってしまいます。ふたつめは、回転するムーブメントが途中で急ブレーキをかけられ、分断されたといった形をしていることです。そのために、扇面の形の中には、動と静が封じ込まれているような趣があります。

 これから何回かにわたって、この扇面の形をめぐってゲームを展開してみたいと思います。

   『淑徳広報』、1989.10.11

『第15回神奈川国際版画アンデパンダン展』、11月23日−12月10日、神奈川県民ホールギャラリー、横浜


1990年(平成2) 36歳
『THE EIGHTIES一出版記念展』、1月16日−20日、コバヤシ画廊、東京
個展、2月22日−28日、近鉄百貨店阿倍野店、大阪

「表紙の言葉/扇面遊戯(3)」

 扇の祖先は木簡だということです。ですから、私たちがちょっと考えるように涼を呼ぶための道具としてではなく、手帳あるいはメモ帳として生み出されたようです。つまり、製紙技術がまだ未熟で紙が貴重品であった時代に、木片を束ねてメモ帳としたのが始まりらしいのです。その木片には、公私にわたるメモに混じって、たぶん殿上人が会議の暇つぶしに描いたのでしょう落書が残っているといいます。後に洗練され芸術品と呼ばれるようになる扇絵も、元を正せば落書だったとすれば愉快なことではないでしょうか。

 製紙技術の発達とともに実用性を失い形式化するようになったころ、扇の表面は、職人によって描かれた絵によって華麗に飾られるようになります。芸術とはそのようなものなのでしょう。

   『淑徳広報』、1990.1.25

『現代“展風”絵展』、3月31日−4月14日、彩林画廊、横浜[本図録cat.no.30]
『今、ドローイング展T』、6月4日−16日、ヒノギャラリー、東京
個展『The Nineties Vol.13−無限連鎖する絵画 PART3』、7月2日−14日、コバヤシ画廊、東京(fig.9)[本図録cat.no.31]

「絵画という旅」

 最近、川旅という遊びをはじめたので、自然の奥深くへ入りこむことが多くなった。人気のない渓谷に舟を浮かべていると、「山水」に抱かれていると思う。近代人の自己意識の外化としての「風景」に、ではない。ところが、すぐに不粋なコンクリートの護岸や堰堤が、私を「山水」の夢から引きずり出す。「風景」が出現する。

 近代日本の風景画は、この「おのずから然る・山水」と「自己と対立する・風景」との矛盾と葛藤によって展開してきた。それは制作という側面においては、「成る」絵画と、「創る」絵画との矛盾と葛藤というかたちで表れるだろう。

 私の制作においても「成る」と「創る」の対立が、作品の展開を引っ張っていく原動力となっているように思う。私の作品は風景画ではない。しかし「成る」と「創る」の対立の向こうに「山水」と「風景」の対立を遥かに見透かしながら、制作を続けている。

 私は、一昨年から「無限連鎖する絵画」なる作品のシリーズをはじめた。一種の連作なのだが、無限という言葉を冠したため、この作品は完成することがない。作品を未完成に終わらせるために描き続けるという矛盾の中に、自分は身を置いている。

 川旅の話に戻るが、蛇行する川に身を任せていると、カーブする流れのむこう側にどのような世界が開けてくるのか、まるで予想がつかない。その期待と不安が川旅の楽しみなのだが、私の「無限連鎖する絵画」もどのような展開になるのか、本人にも分かってはいない。これもまた、旅なのかもしれない。

   『赤れんがから』、no.49、1990.6.20

個展『土』、9月3日−29日、インフォミューズ、東京[本図録cat.nos.32,33]
 9月15日、読画会例会の日、台風で増水した酒匂川(神奈川県)でカヌー下りの途次、水難事故に遭遇。若井正道と共に死去。
 9月17日、日本キリスト教改革派横浜教会にて葬儀。
『マチエールの異種交配』、11月26日−12月1日、ギャラリー白、大阪
『諏訪直樹 若井正道 追悼展』、12月17日−28日、コバヤシ画廊、東京[本図録cat.no.31/No.37-50]


1991年(平成3)
『今日の造形7―現代美術<日本の心>展』、2月16日―3月2日、岐阜県美術館、岐阜[本図録cat.no.31/No.37-50]
『目黒名<画>座』(五つの展覧会からなる)中『<未完の絵画>への行旅 追悼・諏訪直樹展−無限連鎖する絵画』、6月8日−7月14日、目黒区美術館、東京[本図録cat.nos.28,29,31]
『90'S THE NINETIES ドキュメント展 PART2』、7月8日―20日、コバヤシ画廊、東京
個展『諏訪直樹初期作品展』、9月16日−10月12日、コバヤシ画廊、東京(「PART1 饒舌な平面」、9月16日−28日[本図録cat.nos.2,3]/「PART2 THE ALPHA AND THE OMEGA」、9月30日−10月12日[本図録cat.nos.4-9]
『第27回今日の作家展 史としての現在』、11月14日―27日、横浜市民ギャラリー、横浜(fig.10)[本図録cat.nos.25,28,29,31]


1992年(平成4)
回顧展『諏訪直樹展一絵画という旅』、2月13日−24日、有楽町アート・フォーラム(主催:セゾン美術館)、東京[本図録cat.nos.3,5-11,15-17,24,28,29,31]
個展『諏訪直樹作品展U』、9月14日―10月3日、コバヤシ画廊、東京(「PART3『波濤図』をめぐる小品、9月28日−10月3日[本図録cat.nos.12-14]/「PART4 日月山水」、9月14日−26日[本図録cat.nos.15,16]
『筆あとの誘惑』、11月1日―29日、京都市美術館、京都[本図録cat.no.5]


1993年(平成5)
『ART IN JAPANESQUE‐現代の「日本画」と「日本画」的イメージ』、1月29日−2月23日、O美術館、東京[本図録cat.no.12,17,29/No.28-31]
個展『諏訪直樹作品展V』、9月14日―10月3日、コバヤシ画廊、東京(「PART1 1982-84 HANGING SCROLL SERIES」、9月13日−25日、[本図録cat.no.18]/「PART2 HANGING SCROLL SERIES」、9月27日−10月9日、[本図録cat.nos.22,23]
『現代絵画の−断面−「日本画」を越えて』、9月28日−11月24日、東京都美術館、東京[本図録cat.nos.10,11,25,31/No.37-50]


1994年(平成6)
個展、4月1日−30日、翠峰画廊、徳島
4月、『諏訪直樹作品集』(美術出版社)出版
個展『「諏訪直樹作品集」出版記念展』、5月9日−21日、コバヤシ画廊、東京[本図録cat.nos.1,33]


1995年(平成7)
『1995名古屋コンテンポラリーアートフェアー』、4月18日−23日、名古屋市民ギャラリー、名古屋;ガレリア・フィナルテより出品
個展『諏訪直樹作品展W−屏風絵−』、9月4日―16日、コバヤシ画廊、東京[本図録cat.nos.26,27,30]
個展『諏訪直樹展 HANGING SCROLL SERIES』、11月21日−12月9日、ガレリア・フィナルテ、名古屋


1996(平成8)
個展『ストライプハウス美術館コレクション 諏訪直樹展』、7月4日−28日、ストライプハウス美術館、東京
個展『諏訪直樹作品展X』、9月9日・\21日、コバヤシ画廊、東京[本図録cat.nos.32,33]


2000年(平成12)
個展『タブローに抗して 諏訪直樹のしごとから』;「波濤図と掛軸状絵画」、9月6日―20日 跡見学園女子大学花蹊記念資料館、埼玉県新座[本図録cat.nos.10,11,18,25]/「無限連鎖する絵画」、9月11日−23日 コバヤシ画廊、東京[本図録cat.no.31/No.32-36]
 9月17日、NHK教育テレビで『新日曜美術館 絵画は死なない 画家・諏訪直樹の軌跡』放映


2001年(平成13)
個展『諏訪直樹の記憶』、7月17日−28日、島田画廊、東京
個展『諏訪直樹の記憶 U』、9月11日−22日、島田画廊、東京
回顧展『没後十一年 諏訪直樹展』、11月13日−12月24日、三重県立美術館
個展、11月26日−12月8日、コバヤシ画廊、東京
個展、12月10日−26日、ガレリア・フィナルテ、名古屋



*本年譜は、『諏訪直樹作品集』所載の「諏訪直樹年譜」(森田一編)の一部に基づき、また対談等(『みづゑ』1979.5、『美術手帖』1981.6)を除く諏訪直樹の自筆文献を挿入したものである。前半生の詳細、交友関係、作風の変遷等については、森田一編年譜を参照されたい。

 (石崎勝基)


[挿図ネーム]

fig.1[cat.no.2]

fig.2[左:cat.no.5、右:cat.no.6]

fig.3[左:cat.no.9、中央:The Alpha and the Omega MD-5、右:The Alpha and the Omega MD-7]

fig.4[左:cat.no.11、右:cat.no.10]

fig.5[左:cat.no.15、右:cat.no.16]

fig.6[左:cat.no.26、右:cat.no.27]

fig.7[cat.no.28]

fig.8[cat.no.29]

fig.9[cat.no.31]

fig.10[cat.nos.28, 29, 31]

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