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作品目録

凡例

1. 目録のデータは、カタログ番号、作家名、作品名、制作年、材質・技法、寸法、書き込み、来歴、展覧会歴、文献の順 である。
2. この目録の解説等一部は1990年に刊行した『岡田文化財団寄贈作品集』を使用した。
目録執筆者中二名の現在の所属は以下の通りである。
中谷伸生:関西大学文学部
荒屋鋪透:株式会社 ポーラ化粧品本舗美術館設立準備室

4−1
曾我蕭白
松に孔雀図

1767(明和4)年頃 紙本墨画 各171,5×86.0
平安独夷蛇足軒曾我左近次郎暉雄蕭白筆/「曾我暉雄」(白文方印)/「蕭白」(朱文方印)/「虎道」(白文方印)/「曾我」(朱文方印)/「如鬼」(朱文方形円郭印)

SOGA,Shohaku
Pine Tree and a Peacock
c.1767
Chinese ink on paper


4−2
曾我蕭白
許由巣父図

1767(明和4)年頃 紙本塁画 各171.5×86.0
曾我蕭白筆/「虎道」(白文方印)/「鬼申」(朱文方印)/「如鬼」(朱文方形円郭印)/「鸞山」(白文方印)

SOGA,Shohaku
Xuyou Chaofu
c.1767
Chinese ink on paper

その後の蕭白と周辺 三重の美術風土を探るU(三重県立美術館1992)no.54,55
江戸の鬼才 曾我蕭白展(三重県立美術館、千葉市美術館1998)no.67
木村重圭「曾我蕭・窒フ播州遊歴とその作品」(『兵庫の歴史』26 1990)
山口泰弘「館蔵品から 曾我蕭白《許由巣父図》襖絵」『ひる・ういんど(三重県立美術館ニュース)』第37号1991年
冷泉為人「蕭白の絵画−享受者をめぐって−」(『美術史を愉しむ』関西学院大学美学研究室編1996)


曾我蕭白は、京都に生まれ各地を遍歴している。伊勢地方にも何度か訪れており、三重県内には、《旧永島家襖絵》をはじめとして、継松寺所蔵《雪山童子図》、朝田寺所蔵《唐獅子図》《獏図》など多くの作品が現存している。一方、播州地方にも少なくとも2度にわたって滞在し、制作をおこなっていたことが知られている。伊勢路の蕭白について、画家桃沢如水が興味を示し調査をおこなったように、播州路の蕭白については、日本画家として有名な橋本関雪が『白沙村人随筆』のなかで触れている。この関雪の随筆をもとに、冷泉為人〈松尾勝彦)氏が播州地方を調査された結果、蕭白の播州滞在が広く知られることとなったのである(松尾勝彦「播州の蕭白画について」『美学論究』5号1971年、「播州路の蕭白画」T、U『古美術』39、40号 1972、73年)。

ところで、蕭白が少なくとも2度播州地方を遊歴したことは、宝暦12年(1762)と明和4年(1767)の年紀をもつ絵馬が高砂市内の神社に現存していることから明らかであり、《松に孔雀図》《許由巣父図》もまたこの播州地方遊歴時に描かれたものである。現在は改装修理され、《松に孔雀図》《許由巣父図》と各々独立した状態で保管されているが、元来、表裏をなす襖であり、高砂の旧家に描かれ、後に耗戚の家で保管されていた。落款印章や作風から判断し、2度目の播州滞在時、すなわち明和4年、蕭白38歳頃に描かれた作であると考えることができる。

《松に孔雀図》は、墨の濃淡と筆致の使いわけにより、老松、孔雀各々の質感が巧みに表現されている秀作で、蕭白の代表作のひとつと考えて差し支えない。一方の《許由巣父図》には、帝堯が自分に帝位を譲ろうというのを聞いて、耳が汚れたと穎川で耳を洗う許由と、そんな汚れた耳を洗った川の水を自分の牛に飲ませることはできないと牛を牽いて帰った巣父の姿が描かれる。理想の高士としてしばしば絵画化された伝統的画題を扱っているにもかかわらず、蕭白の描く高士は卑俗な笑みさえ浮かべているのである。《竹林七賢図》や《林和靖図》などの蕭白作品にもしばしばみることのできるこのような高士の表情は、蕭白画の特徴のひとつとなっており、「奇矯」「異端」とよばれる一要因でもある。

蕭白の播州滞在、あるいは伊勢滞在の理由は明らかではない。しかし、蕭白の生家が紺屋である可能性が高いことから、木綿の産地として有名な播州高砂や伊勢松阪と蕭白を結ぶ要因のひとつが木綿であるとの可能性が指摘されている。なお、蕭月、蕭湖といった弟子がいたことからも、播州地方滞在が比較的長期にわたっていたと考えることができる。

(佐藤美貴)


4−3
安田靫彦
鈴屋翁
1932(昭和7)年 絹本著色 47.5×56.0
左中央下に落款印章 靫彦「靫」(朱文方印)、右に のきくらきはるのあまよのあまそゝき
あまたもおちぬおとのさひしさ
YASUDA,Yukihiko
Portrait of Old  Suzunoya
1932
colors on silk
signed and sealed lower left:
靫彦“靫”(朱文方印)
inscribed right:のきくらきはるのあまよのあまそゝきあまたもおちぬおとのさひしさ
安田靫彦展(名古屋市美術館1993)no.30

安田靫彦は調和にみちた高雅な作風で知られている。同時代を生きた人物の肖像画だけでなく、《王昭君》《良寛和尚像》《卑弥呼》、豊臣秀吉を描いた《伏見茶亭》など、中国や日本の古典に取材して歴史上の人物の格調高い肖像画をのこしている。《鈴屋翁》と題された本図も、鈴屋とよばれた質素な茶室風の書斎を利用していた宣長を描いた作品である。《鈴屋翁》と題する作品は2点描かれており、本作は、昭和7年(1932)に描かれたものであると考えられる。

宣長の歌集としては、『鈴屋集』が広く知られているが、本図右に添えられている「軒くらき春の雨夜のあまそゝぎあまたも落ちぬ音の寂しさ」は、『自撰歌』に収録されている歌。『自撰歌』は、宣長自身の撰になる歌集で、明和4年(1767)から寛政7年(1795)の間に詠まれた歌が収められており、写本で本居家のみに伝わったといわれている。「軒くらき…」は、安永8年(1779)の春雨の降る夜に詠まれた歌。

静かな夜に読書に耽る宣長の姿を描いたものであろう。靫彦自身の文字で、「鈴屋翁」との箱書が記されている。


4−4
宇田荻邨
祇園の雨

1953(昭和28)年 絹本著色 97.9×116.9
右下に落款印章 荻邨「荻邨」(朱文方印)
UDA,Tekison
Rain in Gion
1953
colors on silk
signed and sealed lower right:
荻邨“荻邨”(朱文方印)

第9回日展(東京都美術館1953)
没後3年記念−宇田荻邨展(三重県立美術館1983)no.28
本画と下絵−宇田荻邸と近代日本画(三重県立美術館1992)no.1−14
かわらの美展(高浜市やきものの里かわら美術館1995)no,9
水の記憶−人と自然の原風景展(山梨県立美術館1996)no.60
宇田荻邨展(東京ステーションギャラリー1997)no.25

藤田猛『宇田荻邨』京都書院1978年
塩川京子『現代日本画全集第5巻 宇田荻邨』集英社1982年

京都市立絵画専門学校卒業後の、1919年(大正8)の第1回帝展出品作《夜の一力》や、翌年の第2回帝展出品作《太夫》など、国画創作協会の画家たちの影響を受けた暗鬱な雰囲気をもつ大正中期の作品から、《山村》に見られる南画風の作品、そして《淀の水車》などの桃山障屏画を研究した作品へと、大きな展開を見せた荻邨は、第2次大戦の苦難の時期を経て、ついに独自の作風を確立する。その代表作が、第9回日展出品作の《祇園の雨》である。当時、この作品は、大変な好評を博したとみえて、日展に際して製作された絵葉書が、他の作品のそれを大きく引き離して最高の売れ行きであったという。

この《祇園の雨》は、祇園白川の町並みを背景に、傘をさして通り過ぎる京の女性を、薄墨を使って描いた情緒あふれる絵画である。家々の板塀や簾に見られる繊細な線描、ざわめくように揺れる柳の葉、うっすらと画面をおおう雨の描写、加えて、朱の傘、黄の着物、緑の松や遠山の淡泊で上品な色彩など、いずれの点を見ても、洗練の極致とでもいうべき品格を放っている。荻邨が残した写生帖には、こうした祇園の街のスケッチが多く描かれているが、その中に、しばしば引用される次の吉井勇の歌が、祇園の町並みを描いたスケッチの右端に書き込まれていて、京都という風土に対する画家の想いが推測されるとともに、《祇園の雨》などの主題の意味、あるいは荻邨のライト・モティーフが奈辺にあるかが理解できて興味深い。

かにかくに祇園は恋し寝るときも
        枕の下を水の流るゝ
               吉井勇

荻邨は、このモティーフによほど惹かれていたのであろう。7年後の1960年(昭和35)にも、まったく同様のモティーフと構図によって、《祇園白川の雪》という冬景色を描いている。1987年(昭和62)に、岡田文化財団より三重県立美術館に寄贈された下絵類の中には、この《祇園の雨》の構想を示すスケッチ風の下絵素描が含まれている。

《祇園の雨》は、荻邨が、ことのほか大事にして手元に置こうとした作品であったというが、戦後、日本にやって来たアメリカの軍人ウィリアム・バーディック氏が、荻邨宅を訪れ、熱心に頼み込んで、アメリカヘ持ち帰ったという。三重県立美術館が開館を間近に控えた1982年(昭和57)のこと、アメリカの所蔵家バーディック氏と交渉が進み、日本に買い戻されることになって、岡田文化財団の手を経て、三重県立美術館の所蔵となった。

(中谷伸生)


宇田荻邨下絵類およびスケッチ帖

岡田文化財団より三重県立美術館に寄贈された荻邨の下絵類は計178点である。また、スケッチ帖は計121冊で、それには4000枚にも及ぶ素描やメモ書が綴じ込まれている。こうした資料は、荻邨研究にとって、きわめて貴重なものである。《夜の一力》(大正8年)、《太夫》(大正9年)、《港》〈大正10年)といった、暗鬱な大正期の作品の下絵から、《高雄の女》(昭和3年)、《吉野山》(昭和4年)、《梁》(昭和8年)などの南画風の爽やかな昭和初期の下絵、さらに《祇園の雨》(昭和28年)など、荻邨独自の様式を確立した第2次大戦後の詩情あふれる作品の下絵など、178点の下絵類は、荻邨の制作過程を窺い知る上で、興味深い資料であるといってよいが、それのみならず、本画とは異なる独自の絵画となっており、きわめて迫力ある表現力を示す作品でもある。

従来の日本美術史研究においては、種々さまざまな粉本や下絵類は、本画の副次的資料として考えられ、美術的価値の低いものと見なされがちであった。また、本画の研究においても、その下絵、スケッチ類などが、有効に駆使されることも少なかったようである。しかし、近年、そうした下絵類などを、研究の重要な資料として扱う傾向が増しつつある。さらに、荻邨の場合に見逃せないのは、とりわけ《夜の一力》や《太夫》などの大正期の下絵がもつ、本画をも凌駕するほどに豊かな表現力である。おそらく、大正期の画家たちにあっては、西洋の芸術思潮の圧倒的な影響の下で、本画よりも下絵の段階で、一層激しく創作意欲をかき立てた場合がしばしばあった、と推測される。このことは、大正以前の時代、およびそれ以後の時代とは異なって、大正期には、絵画の「表現」の問題が、新たな角度から、追求されたためだと考えられる。その意味では、これら荻邨の下絵類の中には、本画から独立した固有の価値をもつ作品が、多く含まれていることを見逃してはならない。加えて、本画自体が行方不明となっている《山村》などは、より一層貴重なものといってよい。

また、121冊にも及ぶ膨大なスケッチ帖は、荻邨の少年時代のスケッチから、中村左洲や菊池芳文・契月に師事した時期の写生や模写、また、昭和のスケッチ類やメモなどが多数綴じられていることから、荻邨の画業の全体像を解明する上で、きわめて重要な資料だといってよい。さらには、京都はもとより、尾鷲、紀伊、信州などにまたがる荻邨のスケッチ旅行の足跡を記していて、興味を惹く。

(中谷伸生)

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