このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1998 > 前田寛治の裸婦-意識された「定型」 土田真紀 コレクション万華鏡展図録

前田寛治の裸婦-意識された「定型」

土田真紀

 《横臥裸婦》《仰臥裸婦》と題された〈寝台に横たわる裸婦〉という主題を前田寛治はいつ頃から描き始めたのだろうか。単に〈裸婦〉ということなら、美術学校時代の彼自身のポートレート写真の背景に写っている立像の裸婦などが早い時期のものであろう。同時期のスケッチブックにも裸婦の素描がみられる。この時期、洋画を学んでいて裸婦を描かない方がむしろ不自然であろうが、留学以前には、現存する作品や資料からも裸婦の油彩作品はあまり知られていないようである。主として風景や人物、ときに静物が彼の主題であった。それではいつ頃から登場してくるのかといえば、彼のパリ留学中である。

 1922年の暮れ、横浜港を出発し、前田寛治はパリに留学する。前田は終始パリを離れず、1925年7月帰国の途につくまで、約2年半を過ごしている。三谷巍氏はこの2年半における前田の芸術的な展開を4つの時期に分けているが(1)、このうち〈寝台に横たわる裸婦〉が描かれるようになるのは、4番目の時期、すなわちパリで再会し、前田に決定的な影響を与えたとされるマルクス主義者福本和夫が帰国した1924年8月以後、前田自身が帰国する1925年夏までの約1年間である。

1)三谷巍「前田寛治のレアリスムの底流」「前田寛治展」図録 石橋美術館 1990年 11頁。
 この時期に描かれた〈寝台に横たわる裸婦〉として2点の作品がよく知られている。1点は東京国立近代美術館所蔵(fig.1)、もう1点は個人蔵(fig.2)である。一昨年刊行された『前田寛治作品集』(美術出版社 1996年)に付された「前田寛治油彩作品カタログ1916-1930」では、「パリ留学の時代」のところに十数点の裸婦の作品が掲載されており、その中には〈寝台に横たわる裸婦〉がこの2点以外にも含まれている。しかしいずれもサイズが小さく、習作というべきものである。上記の2点のうち、個人蔵の裸婦には1925年の年記と K.Maeta という署名がある。東京国立近代美術館所蔵の《裸婦》には署名、年記はないが、前者と同じく1925年作とされている(2)

 留学中に描かれた2点の裸婦の大作のうち、個人蔵の作品(fig.2)には、マネの《オランピア》とのモティーフの扱い、構図における類似性がすでに指摘されている(3)。左右裏返しになってはいるが、両腕の位置と格好がちがう以外、裸婦の向きや姿勢に関しては、マネをそっくりなぞっているといっても過言ではない(ただしこのマネの《オランピア》そのものがティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》を下敷きにしているのは周知のとおりである)。数年後であるが、「写実『裸体』の傑作と凡作の構成上の差異」のなかで前田は《オランピア》を取り上げ、構図法、空間感および量感、物質感のすべてにおいて優れた作とし、その理由を具体的に挙げている(4)。この時点で前田がすでにこうした理解をしていたかどうかは不明であるが、ここでの構図法がマネに基づいているのは確かである。また、裸婦の輪郭線、陰影、平坦な賦彩もマネにならっていることが見て取れる。一方、裸婦以外の部分、特に背景は《オランピア》とは異なっている。1928年に執筆した「肉体と背景の関係の要訣」のなかで、前田は19世紀の作品について次の指摘を行っている。


fig.1


fig.2
  肉体と背景との境界をナイフで切り取ったと思われ
  るくらい明確に強く画しながら、肉体の量や質をい
  ささかもマザマザしくさせていないのがマネーやア
  ングルやクールベやドラクロアなど、十九世紀大
  家の作品の持っている不思議である。(5)

 そのために《オランピア》では裸婦と背景をつなぐ中間物として黒人の女性が重要であるという。前田の作品でこうした中間物にあたるのが左側のカーテンとシーツ、腰の下の黒い布である。マネの作品同様、裸婦の輪郭ははっきりと描かれているが、裸体と背景の区別はマネほど明確ではない。次に背景をみると、ここでは窓が開いており、窓外の風景も描かれている。その他にも背景には様々な要素が配され、裸婦、テーブル、窓という段階的な奥行きのある空間がつくられている。平坦な色面によって閉じられた《オランピア》の背景とはかなり異質である。ただしこの作品の背景は1926年にほとんど描き直されたという今泉篤男の指摘があり(註2参照)、「ほとんど」というのが実際どの程度を指しているのかわからないが、少なくとも1925年当時の作品の全体像については保留にするほかない。

 次にほぼ同時期に描かれたと考えられる東京国立近代美術館所蔵の作品(fig.1)をみてみよう。裸婦の姿勢にアングルの《トルコ風呂》の右下に描かれた裸婦との類似が指摘されているが(6)、曲げられた左腕から左脇にかけてが完全にL字型の直線をなしている点など、必ずしもアングルとはいえないように思われる。先の作品のような輪郭線の強調はみられず、裸婦は主として黒い背景との対照によって強い存在感を与えられている一方で、足先にかけられた布や枕の部分の白い領域によって、背景と裸婦の間に連続性が与えられている。裸婦はむしろ陰影を抑え、滑らかな質感で描かれているにもかかわらず、豊かな量感を湛えており、先の作品とはこの点で対照的である。またモティーフと色彩が限定されている点でも対照的で、こちらの方は黒を中心とした色調が美しく、全体に調和がとれている。土方定一はこの作品を評価しつつ、「アングルを思わせるが、アングルの初期にみられるプリミティヴな形態感はなく、前田がクールベの写実主義の意識をいつももっていたことを予想させる」(7)と述べている。先の作品がマネの裸婦を意識していたとすれば、確かにここで想起されるのはクールベの裸婦であるかもしれない。クールベの《水浴する女たち》の圧倒的な量感を誇る裸婦は、《オランピア》の平面的な裸婦と同じくらい同時代の非難を浴びたのであった。画論のなかで、前田はマネをクールベの優れた後継者とみなしているが、後にみるような、彼の「写実」の根幹に関わる部分でのクールベとマネの差異について彼がどのように考えていたのか、2つの作品からだけでは読みとりにくい。

 この作品は、色調といい、全体に古風な印象を与えるが、シーツや枕など、布にあたる部分の表現では、前田は明らかに同時代の手法をとっている。皺や陰影は大きな単位で捉えられ、陰影の表現も裸婦の部分とは異なり、同時代のそれに近い。裸婦の足下のあたりの布の描写は部分的にセザンヌを思わせる。全体の構図や裸婦の描写はマネやアングル、クールベに学びながら、寝台や背景の表現に関しては、より現代的な抽象的空間に近づいているといえそうである。


 前田寛治はこの2点の裸婦を、他の滞欧作とともに帰国後に開催された1930年協会第1回展に出品した。そして日本において〈寝台に横たわる裸婦〉という主題にさらに本格的に取り組むことになる。肖像画についてもいえることであるが、前田寛治は相当意図的に留学中の主題を帰国後も継続させているように思われる。ここで前田は、他の多くの留学経験をもつ画家同様、日本人をモデルに日本人の裸体を描くという事態に直面することになるが、前田はここに新たな可能性を見出したようである。「全裸美の描写」という一文のなかで前田は、「日本婦人の全裸は西洋婦人のに比べて大に変わったものがある」として箇条書きでその相違点を挙げて比較し、日本女性の裸体は「西洋人からは夢にも得られない別種のリズム」を持ち、その「美しさは同等である」という。その上で、西洋としての裸体姜はすでにほとんど描きつくされているのに対し、

  日本の洋画家は唯西洋画の便利な技術だけを手に入
  れて、絵としての対照はそのまま日本婦人の全裸体
  の感覚を描出しさえしたら、世界的の絵画として末
  だ創造的の地位に置かれる未知のものをドンドン表
  すことが出来るのだから面白いではないか。

 と述べている(8)

2)今泉篤男によれば、前田寛治は、留学中の作品に後から署名した場合がかなりあり、その場合、いずれも年記は1925年となっており、労働者の像などには実際には1923年の作もあるということである。また、個人像の《裸婦》も帰国後の1926年に背景がほとんど描き直されているにもかかわらず、1925年の年記が入っているという(今泉篤男『前田寛治』アトリエ社 1941年 59頁)。事実とすれば、この作品を考える上で大きな問題となるが、いずれにしても、これらの裸婦が留学の最後にあたる時期に制作されたことはまちがいないであろう。


3)三谷巍「作品解説」『アサヒグラフ別冊日本編73 前田寛治』朝日新聞社 1992年 89頁。


4)『前田寛治画論』金星堂 1930年 102-106頁(初出は『美術新論』1929年6月号)。


5)「肉体と背景の関係の要訣」同上 60頁(初出は『アトリエ』1928年4月号)。


6)三谷巍「作品解説」前掲書 89頁。


7)土方定一「前田寛治ノート」『土方定一著作集7』平凡社 1976年 247-48頁(初出は『前田寛治展目録』1969年)。


8)『前田寛治画論』97-99頁(初出は『アルト』1928年7月号)。
 また、裸体表現における具体的な差異については、日本人の裸体の場合、肉体の柔らかさに節度を与える方法として「日本人は裸の外部を包む線に現われる曲直強弱で全体的の節度を与えなければならないと思う」(9)と語っており、実際、後に触れる第9回帝展出品の裸婦の「自作解説」でこれを試みたとしている。

 前田はこの「日本婦人の全裸体の感覚の描出」に早速取りかかったのだろうか。帰国後の1926年に描かれた大型の裸体の作品としては、第7回帝展に《裸体》(fig.3)として出品された作品がある。各雑誌等の帝展評でも、この時一緒に出品された《C嬢》とともに、概ね好意的に受け取られた作品である。この裸婦は、帰国後の作品であるものの、全体としては留学中の2点の裸婦と大きな相違点を感じさせない作品である。

 一方、明らかに「帰国後」の作品と感じられる裸婦が1926年から翌年にかけて描かれている。ひとつは今泉篤男が著書で取り上げ、1927年初め頃に描かれたとしている裸婦(fig.4)で、「可成りアカデミックな表現になっている」としつつ、興味深い証言を遺している。「これは彼も発表を好まず、久しく物置の中に入れておいたが、彼はそれを突破する為に猛烈に吾国の女体の習作を試みた」(10)。この裸婦は、掲載された白黒写真で見ても、「アカデミック」という言い方が納得されるほど伝統的な写実表現に近く、また裸婦そのものが小さくまとまっている印象を与え、本人が不本意としたのも領ける作品である。

 油彩の大作ではもう1点、1926年作とされている《仰臥裸婦》(fig.5)が、滞欧作とは全く雰囲気の異なる明らかに日本女性の裸体を意識した作品である。この作品の場合も、空間全体が前田にしてはやや伝統的な遠近法に基づいている。裸婦は陰影を少なく、明るい色調で描かれ、背景からくっきりと浮かび上がっており、平板に感じられる。量感の表現と陰影の量との関係に関する次のような前田の理論が思い出される。

  光を反射する面を明とし、吸収する面を暗とすれば、
  一物体の量感はこの明暗が略々同量に分れる時、最
  も適当に養われ、明に偏すれば固くなって停滞し、
  暗に偏すれば陰惨になって現実感を失う。(11)

 前田のこの裸婦では「明」が意識的に強調されているのは明らかである。こうした試みから理論が次第に形成されていったのだろうか。

 こうして一時期、滞欧作とは明らかに異なる裸婦の表現が試みられているのは事実である。しかしこの頃から徐々に、前田寛治の裸婦は、一見しただけでは日本女性の裸体ということを意識させない、ある種の抽象性を強めているように思われる。翌年の第8回帝展に出品された裸婦(fig.6)はそうした一例である。ここで女性は腰と膝を曲げ、右手を体の前におき、左手で半ば顔を覆うポーズをとっている。そして全体がやや俯瞰的な視点から捉えられている。その結果、強調されているのは体の屈曲する線である。裸体のヴォリュームは右腕によって区切られ、一つのヴォリュームとしてではなく、凹の空間と凸の空間の交替によって捉えられている。ここで思い出されるのは、裸体を包む線の「曲直強弱によって節度を与えなければならない」とする彼の説である。

 この帝展出品作には油彩の習作(fig.7)が残されている。ここでは、前田が曲線と直線をいかに組み合わせているかがより端的に現れている。この方法は、以降の作品に引き継がれており、翌年には明らかにこれのヴァリエーションともいうべき作品も描かれている(cat、no.4-39)。色彩に注目すると、背景の青系が支配的であるが、再び《オランピア》を想起させる部分的な赤(寝台)も重要な役割を果たしており、ここでは青系と赤系という対照的な色彩の配置を中心とした画面構成という、これ以後次第に顕著になる前田寛治の色遣いがみられる。そしてこれ以後、ヴァルールによる空間の表現という姿勢が次第に明確になっていくのである。また陰影部分の面積が増え、明部とのコントラストも増しており、深い奥行感を与えられた裸婦は、明確な輪郭をもって背景から飛び出してみえる。


 1928年は、〈寝台に横たわる裸婦〉という画題による、最も力のこもった作品群が残された年である。第9回帝展に出品された《裸婦》(fig.8)、鳥取県立博物館蔵の《横臥裸婦》(fig.9)、1929年1月の1930年協会第4回展に出品された2点の裸婦(1点は神奈川県立近代美術館蔵(fig.10)、もう1点は三重県立美術館蔵[cat.no.4-39])である。注目すべきはそれぞれが全く異なる方向をとっている点であろう。帝展出品作(fig.8)は、前田のすべての裸婦のなかでも最も特異な作品というべきである。裸婦は土色から褐色で、その濃淡で輪郭も陰影も描かれている。青緑、赤、白がアクセントに用いられ、筆触は激しく、勢いがあり、生々しいほどである。この作品については前田寛治自身が「今度はお化けみたいなグロテスクなものを描いてやろうと思っているのだ」と語っていたという(12)。また「自作解説」では、「なるべく重々しい無表情の、物質的の感覚を持った肉体を描こうとしました。青い色調であやしい雰囲気を漂わし赤い鋭い寝台でその青の全体的の強さを助けようとしましたが、曲直柔剛の配列に画工として苦辛を一番沢山に払いました」と語っている(13)。研究は少しずつ進められてきたとはいえ、これまでの裸婦とこの裸婦との間には明らかに飛躍があるといわなければならない。

 これとは対照的に、鳥取県立博物館蔵の《横臥裸婦》(fig、9)は、シーツを初めとする布と裸体との質感の相違が強調され、布の皺が筆触によって丁寧に表現されている。ここでは裸婦の腰に巻かれた青が主調色となっているが、やはり赤がアクセントに使われている。一方神奈川県立近代美術館蔵の《仰臥裸婦》(fig.10)では画面全体が赤の絵具に包まれている。なかでも注目されるのは女性の頭部を取り巻く点描のような筆触である。従来指摘されているように、初期の作品に見られるゴッホ風の点描の復活を思わせるものである。この赤い光に包まれた裸婦は、これまで〈寝台に横たわる裸婦〉という画題の探求のなかで一貫してきた分析的ともいえるやり方を逸脱しており、帝展出品作と同じくらい、一種の飛躍を感じさせる。この作品に、初期作品に現れていた前田寛治本来の資質の復活を見る見方もあるが、確かに、これまで抑えられていたものが、一挙に堰を切って溢れだしたような感がしないでもない。三重県立美術館蔵のもう1点(cat.no.4-39)については作品解説で詳しく触れている。

 この時期の作では、前田は背景にモティーフをほとんど描かず、裸婦およびそれを取り巻く布の表現に集中している。この頃、先に引用したような、裸体表現に関する文章を前田は幾つか書いている。〈寝台に横たわる裸婦〉という主題の研究には、さらに足下から裸婦を捉える手法や伏臥裸婦も加わってくる。しかし同時にそれらはこの主題の最終段階を示しており、残された作品で見るかぎり、前田寛治の関心は裸婦を離れている。

 1925年から1928年にかけて前田寛治は裸婦を集中的に描いた。それらは構図に様々なヴァリエーションがあるものの、いずれも裸婦と寝台という組み合わせである。言うまでもなく〈寝台に横たわる裸婦〉という主題は、西洋美術史上に数々の傑作を生み出してきた。ときにはあからさまな欲望を神話というオブラートに包みながら、数え切れないほど描かれてきたのである。(寝台に横たわる裸婦)は西洋美術のひとつの「定型」といえるものであろう。19世紀以降、「リアリズム」の台頭によって主題やモティーフの選択の自由が一挙に拡大するなかでも、この「定型」は描かれ続けた。「定型」であるがゆえに、絵画言語の破壊と創造という行為を明確に示せる手段だからであり、「定型」にはマンネリズムとともに地下水脈のような尽きることのない創造源としての力が秘められているからであろう。前田寛治が集中的に描いた裸婦は、まさしくこの西洋絵画の「定型」として明確に意識された裸婦であった。

9)「肉体と背景の関係の要訣」『前田寛治画論』62頁。


fig.3


fig.4

10)今泉篤男 前掲書 60頁。


fig.5

11)「写実技法の要訣」『前田寛治画論』50頁(初出は『一九三○年協会美術年鑑(一)』一九三○年協会 1929年)。


fig.6


fig.7


cat.no.4-39 
前田寛治《裸婦》
1928(昭和3)年 油彩・キャンバス
90.9x116.7cm



fig.8


fig.9


fig.10
 前田の描いた裸婦が、1点1点いかに異なっているか。重要なのはこの点である。前田はこの「定型」を利用して、裸婦の造形をひとつの理想に向かって純化していくというより、次々に新しい実験を重ねつつ、それぞれに異なる裸婦を描こうとしているようにみえる。見る者の度肝をぬくような第9回帝展出品作の直後に、なお全く異なる2点の裸婦を描いたりしているのである。同時期にやはり優れた裸婦像を多く描いた小出楢重の場合と比較してみても、前田の姿勢は独自といえよう。

 裸婦を描く直前、前田はパリで労働者の肖像や工場地帯の風景、さらにはメーデーの光景を描いていた。〈寝台に横たわる裸婦〉はそこに突如として現れた主題である。この両者はつなぐ鍵は、クールベをおいてないであろう。クールベが前田寛治に与えた影響は、前田を語る際に欠かせない要素である。クールベとプルードンの関係が、前田寛治と福本和夫の関係を前田に意識させたという点、労働者などの主題に関する影響に加え、造形的にもクールベが前田に影響を与えたとされている。しかしながら、前田の裸婦にとっても実はクールベこそが決定的であったのではないだろうか。

 1928年6月、アルス美術叢書の一冊として前田寛治は『クルベエ』を出した。前田はその著書『クルベエ』の巻頭に次のふたつの言葉を引用している。

     クロード・ビノンの批評より
  出来る丈け野卑を表そうとしているクルベエの作品、
  それは最も野卑な最も不潔なものであるより外はな
  い。誰がそれを真理と呼び写実主義と云うのか?(14)


     クルベエの言葉より
  醜くした?
  醜いものを俺に美しく出来るのか?(15)

 そして本文中で次のように述べている。

  彼に取っては裸体は唯一塊の肉体的存在物で十分で
  あった。柔かで弾力のある白い肉体が台の上に座し、
  或は横わって触れるが如き生々しい実感と重量とを
  持っている事が彼の描写目的の焦点であった。その
  形が美であろうと醜であろうと現実の物なるが故に
  その現実を画こうとするのであって、典雅な理想化
  された優美、媚びるが如き嬌態等は更に彼の関せざ
  る所であった。そして、この見解は今日も尚お現実
  主義者の肉体観なのである。(16)

 こう前田が語るクールベの裸婦への見方が、前田自身の裸婦に決定的な意味をもっているように思われる。すなわち「現実主義者の肉体感」に出会ったからこそ〈寝台に横たわる裸婦〉という労働者とは対極にある主題を、積極的に描く意味を見出せたのではなかったかと思われるのである。

 前田の裸婦の探求は、一見したところ純造形的といっていいものである。前田は古今の様々な裸婦像を研究し、そこから構図法、量感の表現法、裸婦と背景の関係などに関わる造形原理を導き出し、また自らの作品においてそれらの原理を実践していこうとした。それぞれの原理がどの程度妥当であるかについては疑問の余地なしとはいえないが、徹底して裸婦の造形的側面にのみ注目していることは確かである。こうした追求の結果、前田覚治が「写実技法の要訣」として指定したのが「質感」「量感」「実在感」の3つを得ることである。

 前田によれば、「質感」は「物の質によって覆われる触覚感」、「量感」は「幾何学的の透視方法だけに頼るのではない空間感、立体感」、「実在感」はこの2つが達成されたときに現れる「実在的感覚」である。説明的な描写を排し、絵画をその本質的な要素に還元・純化していく姿勢はマネに始まる「近代絵画」が辿った道である。また前田の作品は現に、絵画を「自律的な価値」へ向かわせた未完成な仕上げ、絵具の物質性そのものの強調に向かっているように見える。ところが前田のいう「量感」「質感」「実在感」は、先の引用にある「柔かで弾力のある白い肉体」の「触れるが如き生々しい実感と重量」と同義ではないか。とすれば「塊の肉体的存在物」というまさに現実そのものに根ざしていることになる。言い換えれば前田の「写実」は、裸婦という様々に表現可能なモティーフを画面上で「塊の肉体的存在物」、物質そのものに還元することである。裸婦は単なる画布上の裸婦として完結することを許されず、「絵画独自の価値」は前田の立場からすれば、否定せざるを得ないことになる。それは、技法においては対象の「写し」であることを否定する方向に向かいつつ、しかし同時に対象から自律し得ない絵画を探るという絶対的な矛盾に陥ることではないか。少なくともマネから印象派を経て、セザンヌ、キュビスムにいたる近代絵画が辿った道とは決定的に異なる。『クルベエ』の最後を前田は次の言葉で括っている。

  我々現代人はセザンヌの絵画的構成の要素そのもの
  から喜びを感じて端的に芸術の極致に飛び込むこと
  が出来る。それは現代人の幸福である。だがクルベ
  エの残した頑強な意志と冷酷な物的探求の作品から
  誰しもが触れなければならない生々しい現実の生活
  に引き戻される時、我々は先ず人間であることを識っ
  て真剣に動き出す底力を得なければならない。(17)

 実はこの「現実の生々しさ」というところにクールベを通して見出された前田寛治の「写実」の拠って立つところはある。物質のもつどうしようもない重さや抵抗感、そこにこそ前田寛治の「リアリズム」は在処を見出したのである。絵画は「現実の生々しさ」そのものを取り出してみせなければならない。前田が裸婦と布を描くのは、それらが物質的存在の典型であり、裸婦の手触りや重み、折り重なった布の量感が、いやがおうでも人間の意志を離れて存在する「物」がもつ存在感を喚起するからである。前田にとって「物」の存在感とは、触れたとき、手が感じる確かな抵抗感にほかならない。それをいかに絵画として実現するか。〈寝台に横たわる裸婦〉はそのために描かれるのであり、前田の裸婦にはこの「生々しさ」こそが必要なのだといえよう。ここではプロレタリア美術運動と前田との関係について触れる余裕はないが、前者からの批判のなかで、前田が〈寝台に横たわる裸婦〉を描き続けた理由は、こう考えたとき、ようやく納得されるように思うのである。裸婦を「肉体的存在物」として非情にみる、きわめて即物的な態度をとればこそ、前田にとって〈寝台に横たわる裸婦〉は「定型」として機能し得たのではなかろうか。

 最後に中野和高の次のような回想を記しておきたい。

  彼は披の帰国に際し、僕にルーヴルの廊下で「君、
  こんな絵を一枚是非描いて来い」としんみり言った。
  その絵というのは仏蘭西一五世紀の画家クーサンと
  いう作家の八○号の、画布に描いた絵(Eva Prima
  Pandora)である。彼の生涯描いた裸女総ての仕事
  が実に、此絵と何にかいつも共通のところがある事
  は見逃せない事であると自分では思って居る。(18)

12)「師・前田寛治を語る」『前田寛治作品集』倉吉博物館 1975年。


13)前田寛治「自作解説」『アトリエ』1928年11月号。


14)前田寛治『クルベエ』アルス 1928年。


15)同上。


16)同上 86頁。


17)同上 90頁。


18)『前田寛治作品集』美術出版社 1996年 175頁(初出は中野和高「滞仏時代の前田君」『銀座画廊ニュース』第1号 1935年)。
 ルーヴル美術館にある《エヴァ・プリマ・パンドラ》(fig.11)の作者は、フォンテーヌブロー派の周辺で活躍したフランス16世糸己の画家ジャン・クーザンとされる。ルネサンス期のフランス宮延美術のエッセンスそのもののように優美このうえないこの作品を、前田寛治はどのような思いで眺めていたのだろうか。帰国後の前田寛治は、クールベに立脚する画家として、裸婦を即物的に冷静に観察しようとした。しかしながら、どこまでも物質的に非情に裸婦をみることは、前田本人にとっても耐え難いほどの重荷であったにちがいない。1930年協会第4回展に出品された《仰臥裸婦》は、物質として裸婦を描くことの範囲をはるかに越え出てしまっている。そこに現れたものが、前田が「作画的練習の基礎が得られてから、現れねばならない」とする「作者の気象(特性、個性)」なのかどうかは、いまここで確言できないが。
fig.11

ページID:000056732