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1920年代の日本美術における「反近代」

酒井哲朗

 明治以来の富国強兵を国是とする日本の近代化は、1920年代に急速に進んだ。日清、日露の両戦争を経て、日本は1910年代初めに第一次大戦に参戦して戦勝国の一員となり、西洋世界のパワー・ポリティックスの一角に加わった。大正9年(1920)に日本は韓国を併合して、帝国主義的なアジア経営の大きな一歩を踏み出した。この時期は国内では、工業化の進展とともに、人口の都市集中がはじまり、東京や大阪などの大都市に高層ビルが出現し、鉄道は郊外に路線を延ばして都市圏が拡大した。百貨店が華やかに都市の文化装置として新しい機能を果たしはじめた。新聞の発行部数が急激に伸び、雑誌、全集、単行本など出版ブームがおこり、印刷を中心としたマス・メディアが形成された。大衆社会や消費文明などといわれる今日の生活様式の原型が1920年代に成立したのである。

 

 一方、1920年代は労働争議が深刻化した。1910年代の米騒動の終結の後もインフレや不況は慢性化し、都市や農村の庶民の生活は困窮し、社会不安は増大した。1917年のロシア革命以来、社会主義という新しい世界モデルが世界各国に広がり、労働運動や社会改革の運動の中に浸透していった。アメリカのフォードT型の大量生産方式とロシア革命にそれぞれ象徴される資本主義と社会主義のふたつのモデルが、1920年代の近代化途上の日本にもたらされ、古い社会システムと混在し、あたかも光と影のように交錯していた。さらに、首都を襲った関東大震災という未曾有の災害とその後の「帝都復興」が、ひとつの時代や文明の終末と再生のイメージと重なり、この時代に複雑な影を落としている。震災の廃墟には束の間のユートピアの夢も現出した。

 

 このような1920年代は、美術の領域においてもいくつかのきわだった特色がみられる。その第一は、日本における前衛芸術運動の最初の興隆期であったという点である。大正9年の未来派美術協会、アクション、マヴォ、三科造型など次々と新しいグループが結成され、当時新興美術運動と呼ばれた先鋭な活動を繰り広げた。これらの新興美術運動は、未来派、表現主義、構成主義、ダダイズムなど、大戦後のヨーロッパの社会不安を反映して活発であった海外の前衛芸術の影響を受けたものであったが、震災後はダダ的様相を強め、ピークに達した。それらは芸術批判とともに社会批判を内在させており、従来の芸術や芸術の制度と激しく対立した。また、マヴォの芸術家たちは建築装飾や演劇の舞台装置、グラフィック・アートの分野で活躍したように、新興美術にはジャンルをこえた総合芸術への志向がみられた。

 

 第二に、工芸、デザインなど応用美術と呼ばれてきた、商業美術や工業デザインがめざましい発展をみせはじめたことである。1910年代に職人芸から個性的創造への脱皮を図った工芸は、1920年代には、「元型」のような新しい造形集団が現れ、陶芸、金工、漆工、染織など伝統工芸の各部門で、同時代のヨーロッパの造形理念を意識した革新が行われ、やがて昭和2年に帝展第四部として美術工芸部が設置され、工芸は近代日本の美術の制度のなかに絵画や彫刻とならぶ芸術の一分野として認知された。また、都市化や大衆社会に向かう時代の動向の中で、住宅建築、室内装飾、工業デザインなどの各分野で、さまざまな興味深い実験が行われ、新しい生活様式の提案が行われたのも、この時代の特色であった。

 

 第三に、応用美術の活況は、相対的に純粋美術をきわだたせるが、この分野に顕著であったのは、モダニズムの一層の進展である。1920年代は、日本人のパリ留学の最盛期だった。ゴッホやセザンヌ、ロダンらに憧れて渡仏した日本の美術家たちは、フォービズムやキューピズム以後のエコール・ド・パリの時代のパリで、マチス、ピカソ、ドラン、ヴラマンク、ユドリロ、 ロート、シャガール、レジェ、ブルデル、マイヨール、ザッキン、アーキペンコら20世紀芸術の多彩な様相に触れ、それぞれに新しいスタイルを学んで帰国した。二科会は、これらフランス帰りの新進作家を積極的に受け入れ、モダニズムの牙城となった。1920年代は、日本の美術家たちが、西洋の美術家たちと同時代の意識をもちはじめた点が注目される。大正13年に創立10周年を迎えた二科会は、サロン・ドートンヌと交換展を開き、翌年からロート、ビッシュール、ザッキンらを会員や会友に迎えた。

 

 第四は、本稿の主題である「反近代」の動向である。梅原龍三郎は、大正13年のフランス美術展を併設した二科展について、『明星』(大正13年10月号)誌上で、「それが仏蘭西新画の出店芸術という気がします」と感想をのべ、「もう少し無意識の内に、自然と伝統を異にし、より複雑な教養ある種族としての性情がにじみ出るのがほんとうの吾等の芸術でなければならないと思います」と批判した。1920年代は、西洋の最新の芸術の動向に追随する西洋化一辺倒のモダニズムに対して、日本や中国、朝鮮など西洋と異なった東洋の文化を再認識しようとする傾向が強まった。

 岸田劉生は、すでに1910年代にデューラーやファン・アイクに注目して「反近代」を唱えて草土社を起こし、神秘感をともなう細密な静物画や麗子像の制作に入っていた。劉生は、大正10年1月号の『白樺』誌上で、来日 したブリュルークらロシア未来派の画家たちについて、「モッブの心を知って、世界を知らぬもの、表面の要求丈見て、深き内の要求を見得ないもの、現象に支配され、現象と倶に現象し、現象と倶に消ゆるもの、かかるものたちに近代は、近代の芸術を唯一の糧としている様にみへよう。彼等の態度はいつでも宣伝的であって、芸術的沈静に乏しいのもその一つの現はれである」(「製作余談」)と酷評している。この頃、劉生は新芸術だけではなく、セザンヌを除いて、かつて熱愛したゴッホやロダンに対しても距離を置き、否定的に見ている。劉生が熱中していたのは、中国宋元の絵画と日本の初期肉筆浮世絵であり、一連の麗子像や『冬瓜図』などの静物画に、「デロリとした美」と劉生自身が形容した、その美意識が示されている。

 

 萬鐵五郎にとって、1920年代はいわゆる「茅ヶ崎時代」であり、南画研究の時代であった。萬は南画に学ぶべき点は、「先ず第一に人間的リズムという言葉によって代表せられるプリンシプル、精神の世界を高調する思想及び人格拡充の主義、而して漢詩的構図は、新しき自分の詩によって置換えられても差支えないと思う。従来自分の進んで来た洋画の傾向は絵画的諸条件の詩的構成である処から、南画のプリンシプルと一致すべき傾向にある」(1)という。萬は、この時代の東洋回帰の傾向について語ったなかで、西洋の絵には、日本人の模倣を絶対許さないようなある特質、「固有の趣好等日本人にない分子」のあることに気づいてきたからではないか、という注目すべき意見をのべている。(2)

 

 土方定一は、萬の南画研究の意味を、「移植近代のなかで移植近代を克服し、新しい近代を課題とした」(3)と指摘した。それは劉生の宋元画や浮世絵に対する関心とも共通する問題である。したがって、劉生のいう「反近代」は、厳密にいえば「反移植近代」というべきものであり、この近代における「反近代」は、土方のいうように、「新しい近代を課題とした」、固有の近代のあり方への問いの逆説的表現であったといえよう。『白樺』やヒューザン会などの1910年代の先鋭なモダニズムの芸術運動のなかから、「反近代」の志向は生まれた。梅原や安井曽太郎らも含めて、日本の近代美術は、このような近代のあり方自体を問う流れのなかで、成熟していったといえよう。

(1)「玉堂琴士の事及び余談」(『純正美術』大正11年8月号、萬鐵五郎『鉄人画論』229頁、中央公論美術出版、昭和43年)

 

 

(2)「車洋復帰問題の帰趨」(『美術新論』昭和2年6月号、前掲「鉄人画論」72頁)

 

 

(3)土方定一「編集後期」(前掲『鉄人画論』342頁)

 

 1920年代の芸術の動向のなかで、『白樺』の創立同人だった柳宗悦の朝鮮文化への着目の意味は重要である。李朝陶磁の美の発見にはじまる柳の朝鮮の民族文化への傾倒は、それらが鑑賞のためではなく実用のためにつくられたものであること、作者が無名の工人たちであることなど、そこには西洋近代の個性主義芸術とは異質な深い美があることを柳に気づかせ、その後の「民芸美」への道を開いた。

 

 このような柳の朝鮮の民族文化の美の発見は、すなわち朝鮮民族の心、その文化的創造力の発見であり、柳の美の思想は、当時朝鮮の民族文化を否定して、日本への同化政策を進めていた国家の方針と真っ向から対立するものであった。柳は、1919年3月1日の「万歳事件」といわれる独立運動を擁護して、「朝鮮人を想う」という記事を読売新聞(同年5月20日〜24日)に書き、1922年に朝鮮民族が愛し誇りとした光化門(王宮景福宮の正門)が日本の朝鮮総督府によって取り毀されようとした時、「失われんとする一朝鮮建築のために」という公開状を雑誌『改造』(同年9月号)に発表して内外の世論を喚起し、これを阻止した。

 

 劉生や萬の伝統の再発見は、西洋と日本という二項対立を基軸としており中国に対する視座もそこから析出されているといえよう。朝鮮は視野に入っていない。しかし、柳の場合、マージナルな朝鮮文化を重視し、従来の美の位階では下位に属する李朝陶磁に注目した点がユニークであり、そこから沖縄や日本各地の郷土文化、民衆文化に美を発見するにいたった。このような柳の立場は、「脱近代」的なもうひとつ別のモダニティのあり方を示すものであった。

 

(さかいてつお・館長)

 

年報/1920年代展

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