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「芸術と人生」─1910年代の日本美術をめぐって

酒井哲朗

 1910年代の日本美術の動向を特色づけるのは「生の芸術」である。「生の芸術」に関しては、明治42年(1909)の第3回文展に出品された山脇信徳の《停車場の朝》をめぐる高村光太郎と石井柏亭の論争、さらに明治44年(1911)に高村が開設した画廊琅かん堂における山脇の個展をめぐって、山脇、武者小路実篤、木下杢太郎、本間久雄、石井らの間で熾烈な論争が展開され、この間題について、中村義一『日本近代美術論争史』(求龍堂 昭和56年)が詳しい。しかし、「生の芸術」は、これらの論争にとどまらず、もっと広範なこの時代固有のきわめて重要な美術上のテーマである。

 

 山脇の《停車場の朝》は、モネのサン・ラザール駅の絵を彷彿させる新しい感覚の絵だとして、永井荷風やバーナード・リーチによって賞賛されたが、石井柏亭は西洋の新様式の模倣に過ぎぬ誇張した絵だと批判した。これに対して高村は、『スバル』明治43年2月号で、山脇の絵は格別新しいともうまい絵だとも思わぬが、他の絵にない「天の光」を写そうとする努力が尊いと弁護した。石井は『方寸』同年2月号で反論した。石井は「天の光」を出す努力よりも、写実的立場(リアリスチック・スタンド・ポイント)から何よりも「地方色」(ローカル・カラー)・重視する。この作品にはそれが欠けており、現実離れしたわざとらしい感情の誇張と形式の模倣にすぎぬと酷評した。

 

 高村は『スバル』同年4月号に、有名な論説「緑色の太陽」を書いた。自分は芸術界の絶対の自由を求めるといい、芸術家の感情の自由、自律を主張するこの論説において、絵画は「地方色」によってではなく「生(ダスレーベン)」の量によって評価されるべきものとなる。ローカル・カラーは、ここでは印象派のいう固有色ではなく、「ある地方の自然の色彩の特色をさす」意味に用いられている。高村によれば、日本人の作品は結局日本的であるほかはない。しかし、自我を対象のなかに完全に投入するとき、一個の人間があるだけで、日本などという考えは入りこむ余地はない。地方色の存在は無になる。自由放埒に、見た自然の情調をそのまま画布にあらわせばよいというのだ。

 

 高村は論議の成り行きで山脇の《停車場の朝》を弁護したが、高村が「生の芸術」の一典型とみたのは、荻原碌山の彫刻だった。『スバル』明治43年1月号に書かれた「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」では、荻原の《北条虎書氏肖像》をとりあげ、この彫刻には人間がみえ、背後に「無辺大の生」がみえる。これは作家の人格に由来するものである。「僕がこの作品を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である」といい、このような作品が日本に生まれたことは喜ぶべきことだという。碌山の背後には、高村が敬愛してやまなかったロダンの芸術が存在したことは勿論である。

 

 「生の芸術」論争第2ラウンドは、明治44年4月の山脇の個展がきっかけであった。ここでは論争そのものに立ち入らないが、新帰朝の有島生島が『白樺』6月号で、山脇の作品に新しい感情のリアリティを認めたのに対し、木下杢太郎は、『中央公論』6月号で、作家の強烈な感激を思わせるばかりで、表現の技巧に乏しい。芸術は血圧計の曲線のようなものではなくひとつの表現技術である以上、観衆を納得させる「絵画の約束」が必要であろうと批判した。これに対して山脇は、芸術は全人格的な感情の表現であるとして譲らず、武者小路も「自己の為の芸術」を主張して木下と対立した。山脇や武者小路は、これらの反論のなかで、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらについての心酔を表白しているのが目につく。木下には評論家の本間久雄が同調したが、主観の絶対性をあくまで主張する山脇らに対し、芸術表現の客観性を重視する木下らの見解はついに交わることはなかった。武者小路らは、芸術家の絶対的自由、芸術家の感情の自律、つまり芸術家の生き方について論じ、木下らは作品の芸術評価について論じようとしたのであった。

 

 作家と作品という問題について、同じ頃京都でも興味深い事例がみられる。明治43年12月にフランスから帰った田中喜作(美術史家)と洋画家の津田青楓、田中善之助、黒田重太郎、新井謹也、日本画家の小野竹喬、土田麦僊、秦輝男らが、シャ・ノワール(黒猫会)を結成した。その名が示すようにパリのカフェ文学運動を意識したもので、新進の青年画家や批評家がジャンルを超えた交流をめざし、談話会を開き共同でモデル制作などをした。シャ・ノワールは翌年5月に突然解散し、田中(善)、黒田、新井、小野、土田の 5人が新たにル・マスク(仮面会)を創設し、京都青年会議所で展覧会を開いた。ル・マスク会員と津田、秦との間に、作品本位か作家本位かという対立があったと伝えられている。津田は間もなく京都を去り、秦は倫落の女と いわれた最下層の娼婦たちの人間的真実を表現主義的作風によって描き、麦僊の芸術派に対し人生派と呼ばれた。

 

 人生派の芸術家の典型とみられるのは竹久夢二である。夢二は周知のように、文展等の大芸術に対して小芸術(マイナー・アート)の立場をとり、詩と画の織り成す独特の抒情の世界を、出版、工芸、デザインなどさまざまなメディアを通じてこの時代の大衆に広めた。このような夢二の人と芸術を慕う若い芸術家たちも多かった。秦輝男、のちの国画創作協会の野長瀬晩花、岡本神草、新興美術の柳瀬正夢らであり、恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静男ら『月映』の画家たちである。なかでも『月映』の画家たちは、美術学校を中退し、「夢二学校」と自称して夢二のもとに集まった。大正3年9月から翌年11月まで、田中の結核発病にはじまりその死で終わった詩と版画の雑誌『月映』には、死の不安と生の喜びが交錯し、まさしくそれは「生の芸術」の表象というべきものである。ここには無名の純粋で才能豊かな青年画家たちの人生と芸術の見事な一致がみられる。

 

 1910年代の日本美術の動向が象徴的に集約されたのは、ヒューザン会であろう。若い画家たちがわずか2回展覧会を開いただけのゆるやかな芸術集団であったが、これには日本の「近代」が凝縮されている。西洋近代と同じ地平にたち、個の自覚と芸術の自律を鋭く意識したこの集団は、木下杢太郎が「洋画における非自然主義的傾向」(『美術新報』大正2年)として正当に指摘したように、伝習を否定し生命感情の直截的表現を求めて、強烈な色彩と形体の単純化に向かった。

 

 岸田劉生が「第二の誕生」と自己規定した後期印象派体験は、ヒューザン会の画家たちをはじめ、日本美術院や国画創作協会の日本画家たちも含め、この時代の自覚的な美術家たちが制作主体を確立するために当面した共通の経験であったといえよう。それはセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらとともにロダン、マチス、さらにイタリア・ルネッサンス、デューラー、レンブラントなどに多岐にわたり、その影響関係は啓蒙期特有の雑多な様相を示していたが、それらはすべて西洋近代美学のフィルターを通して受容された。岸田や萬鐵五郎に典型的にみられるように、外に向かったヴェクトルはやがて内に向かい、彼らの表現自体が内面化されるとともに、古典や伝統が再解釈されるという事態が生じる。

 

 明治43年は韓国を併合する日韓条約が締結された年であり、大正3年には日本は第一次大戦に参戦して戦勝国となり、西洋諸国とのパワーゲームに加わった。国内では、明治43年は、大逆事件による幸徳秋水ら無政府主義者らたちの検挙がはじまり、石川啄木が国家権力があまねくいきわたる時代の息苦しさのなかで、「強権」に対する「確執」の志をのべた「時代閉塞の現状」を書いた年である。大逆事件については、パリ、ロンドン、ニューヨークの社会主義者たちが日本大使館などに抗議行動を起こした。1910年代は、日本の重化学工業化の進展とともに人口の都市集中がはじまり、労働争議が頻発し米騒動がおこるなど、さまざまな分野で近代化にともなう社会問題が顕在化しはじめた時期である。1910年代の個性主義芸術は、このような日本社会の動向のなかで展開された。

 

 武者小路実篤は明治44年に『桃色の室』という戯曲を書いた。大逆事件に対する武者小路の姿勢を示したもので、桃色の室で快適に暮らす桃色の女は、「他人様(ひとさま)のことを考へるのは生意気ですわ」といって、寒空のなかで必死にドアを叩いて部屋に入れてくれるよう懇願する灰色の男を頑くなに拒否する。武者小路は非情に現実社会を拒絶して自己確立を図り、無限の自己の伸長が「人類の意志」にかなう普遍性をもつと主張した。こうした自己実現のモデルがロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらであった。武者小路にとって、芸術は『桃色の室』である。それは武者小路にとどまらず、1910年代の青年美術家たち全般についていえよう。武者小路の「桃色の女」は、「一人前にするまでは」という留保条件をつけて、他人のことを考えまいとした。ここで吉本隆明が高村の「緑色の太陽」を「スネカジリの論理」といったことが想起される。大正期の個性主義芸術は、日本近代美術史の青春期といわれる。ここに浮上してくるのは、「芸術」と「人生」であって、「社会」ではない。  

 

(さかいてつお・館長)

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