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ドワノーと実存主義の小鳥たち──サン・ジェルマン・デ・プレの小鳥たち

荒屋鋪 透

*『写真のエコール・ド・パリ』展(1991年)にはロベール・ドワノー(1912- )の占領下時代の写真が展示された。この小論では、同展では扱わなかったドワノー作品を通じて、戦後パリの写真の現場を検証する試みである。

 写真家ロベール・ドワノーには、同じルノーの車を撮影しながらまったく異質なふたつの作品がある。ひとつは新車のオープンカー、戦前のルノー社がほこるネルヴァ・グラン・スポールに、モデルとはいえ、なんの心配もなさそうな若者がのっている。前面のバンパーを切って背後をあけたトリミングは、地平線をわざと傾けた構図とともに、ただ静止しているだけの車を、いま到着したように演出するfig.1。いっぽう黄と黒をチェスボード模様にぬりわけたルノー6CV。開放直後のパリでこれほど有名になったポンコツ車もあるまい。持主のジェルマノプラタン(サン・ジェルマン・デ・プレのインテリという意味)、イヴ・コルバシェールが愛車におおぜいの仲間をのせてパリ中を走り、いくつかの物語をつくったからだ。ドフィーヌ街33番地の ビストロ、タブーの前に颯爽と横づけされたというより、しばらくそこにあったという感じfig.2。くすんだチョコレート色の店の壁には黄色の5文字TABOU。モノクロ写真だが、色彩は同時代の多くの証言から再現できる。若者たちの名前さえ特定可能だ(註1)。ハンドルをかまえた版画家コルバシェールのとなりはカトリーヌ・プレ、そのうしろにタブーの哲学者ターザン、まんなかにエディ・アインシュタイン、新聞をよむドゥロピー、フロントウインドに腕をのせるミシェル・ド・レ。今はもう伝説となった地下酒場タブーは、一説にはコルバシェールとミシェル・ド・レほか何人かの若者が、ビストロの地下酒蔵をかりてピアノをおき、黒人の仮面を壁に飾ってタブーとかいたことに由来するという。

 

 1992年、オックスフォード近代美術館で開催された『ロベール・ドワノー回顧展』カタログ(註2)のなかでピーター・ハミルトンは、この時期(1945-60年)のドワノーには戦後ジャーナリズムに蔓延したイメージへの渇望にこたえて、パリの生活、文化あるいは市民や労働者への広範囲にわたる探究、讃美がみられ、そこから人間的ルポルタージュの写真が展開されたと述べている。戦前、ルノー専属カメラマンであった(1934−39年)ドワノーが、戦後まもない時期に、工業写真の構成要素として機械の部品にさせられた人間ではなく、きまった構図の中にはおさまりきらない若者をとらえた後者の写真 《タブーの前で》fig.2は、その人間的ルポルタージュの出発点のひとつとはいえないだろうか。ドワノーは映像の釣人であって狩人ではないというハミルトンの比喩は、戦後同じアリアンス・フォトと契約したカルティエ=ブレッソンと比較するとわかりやすい。多くのドキュメンタリー写真家が映像の狩人、絶えず新しいイメージを追跡する者であったとき、ドワノーは獲物を追って森をつき進む猟師というよりも、じっと海の波間に釣糸をたれて魚をまつ映像の釣人にたとえることができるだろう。モデルの警戒心をくぐりぬけた一瞬をとらえることで、現実の一断面をするどく暴いたカルティエ=ブレッソンとは対照的に、現実の時間の流れのなかに身をゆだね、夢想する人間たちの想像力の世界に一歩踏み込むことのできたドワノーには、《若き「実存主義者」》fig.3と題した写真がある。ボリス・ヴィアンの小説『ヴェルコカンとプランクトン』の1場面といってもよいスナップショット。ボーヴォワールによると、タブーのヒロインで詩人のアンヌ=マリー・カザリスをとりまく青年たちをジャーナリストはいつのまにか実存主義者と命名したという。サルトルとボーヴォワールはタブーに2回だけ行ったことがあったが、実存主義の哲学を地下酒場の騒ぎにむすびつけ、サルトルの信望を失墜させようとする悪意ある一部のジャーナリズムに対して、ふたりは断固闘いながらも実存主義者のレッテルをはられた青年たちには同情的だった。「ぶらぶら歩いたり、踊ったり、ヴィアンがトランペットを吹くのを聞いたりする、そのどこが悪いのだ」(註3)。ヴィアンが「アーチ型の天井をもった細長い通路のようなところ」、「メトロ駅をうんと小さく、うんと汚くした感じ」(註4)と記述した店タブーの情景をドワノーも撮影しているfig.4。タブーで歌い、サン・ジェルマン・デ・プレの黒い天使と呼ばれた歌手ジュリエツト・グレコもまたそうした実存主義者のひとりであり、詩人クロード・ロワはそんな娘たちを「夜の若い小鳥」と呼んでいた。

 

 典型的ジュルマノプラタンであったボリス・ヴィアンの小説『ヴェルコカンとプランクトン』は戦前の正統派ザズー(ジャズ狂)の生態を記録した文学だが、戦後のザズーを活写したドワノーの意図のなかにも、ザズーという言葉のもつ批評精神がよみとれるだろう。カルティエ・ラタンにたむろするイギリスかぶれの学生、オックスフォード風の長髪に、こうもり傘をもち、スイングに熱中する占領下パリの反抗児たちは、彼らが夢中になったジョニー・ヘスの曲『おいらはスイング』の一節、「おいらはスイング、ザズー、ザズー」からザズー族と呼称されたが、ボーヴォワールは「彼らのアナーキズムは、反抗の一形態を代表していた。きざではあるが、私たちはむしろ好感をもった」(註5)と回想している。さらにジャン・コクトーは占領下日記のなかで「この言葉(ザズー)は、さまざまの社会活動の根底に潜む、ある精神状態を表現している」と分析し、第二次大戦さなかの「ヨーロッパの恐ろしい軽薄さに、この手の軽薄さが応じていることほど正常(ノルマル)なものはない」(註6)と断定している。戦時下にレジスタンス運動をつぶさに記録し、戦後のサン・ジェルマン・デ・プレの若者をみつめるドワノーの視線には、戦後ヒューマニスティツク・ルポルタージュの旗手として活動する、知的で機敏な映像作家のそれをみることができる。ドワノーのヒューマニズムの背後には、戦前の全体主義への果敢な挑戦、そして戦後の非人間的でモノリティック(一枚岩のよう)な経済構造のなかで、人間を非個人的な大衆とみる社会への強い反発がその根底に流れている。

 

(あらやしきとおる・学芸員)

 

参考文献

 

* Robert Doisneau, RENAULT, Nishen, 1990.

*「ボリス・ヴィアンのサン・ジェルマン・デ・プレ」,『WAVE』36,ペヨトル工房, 1993年2月

*『ドアノー写真集(1)[パリ]』堀内花子訳,リブロポート,1992年.

fig.1 ドワノー 「31馬力8気筒、ネルヴァ・グラン・スポール」 1936年

fig.1 ドワノー 「31馬力8気筒、ネルヴァ・グラン・スポール」 1936年

 

fig.2 ドワノー 「タブーの前で」制作年不詳(1947年頃?)

fig.2 ドワノー 「タブーの前で」制作年不詳(1947年頃?)

 

註1Saint-Germain-des-Pres 1945-1950, catalogue de I'exposition, Pavillion des Arts, Paris, 1900, p.28

 

註2.Peter Hamilton, Robert DOISNEAU: retrospective, exhibition catalogue, The Museum of Modern art Oxford, 1992, pp.30-40.

 

fig.3 ドワノー「若き『実存主義者』」制作年不詳(1947年頃?)

fig.3 ドワノー「若き『実存主義者』」制作年不詳(1947年頃?)

 

註3.シモーヌ・ド・ボーヴォワール/朝吹登水子・二宮フサ共訳『或る戦後』上.紀伊國 屋書店,1965年,p.158

 

註4.ノエル・アルノー/浜本正文訳『ボリス・ヴィアン──その平行的人生』,書肆山田,1992年,p.143

 

fig.4 ドワノー「キャバレー・タブー内部(サンジェルマン・デ・プレ)1947年

fig.4 ドワノー「キャバレー・タブー内部(サンジェルマン・デ・プレ)1947年

 

註5.シモーヌ・ド・ボーヴォワール/朝吹登水子・二宮フサ共訳『女ざかり』下.紀伊國屋書店,1963年,p.140.

 

註6.ジャン・コクトー/秋山和夫訳『占領下日記:1942-1945』T.,筑摩書房,1993,pp.109-110.

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