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伊賀焼の窯跡を訪ねて

森本 孝

 

 伊賀上野から、山の中の曲がりくねった細い国道422号線を北に走ると丸柱に出る。丸柱は静かな山里で、現在の伊賀焼の産地となっている窯場である。県道674号線が始まる地点でもある国道422号線の所を起点に西に向かうとすぐ右手に堂谷の古窯跡がある。現在は丸柱区民運動場となっていた。この窯跡から西方約200メートルのところに宝暦年間(1751−64)に伊賀焼を再興した定八の窯跡がある。堂谷窯跡から5分程度進むと定八窯と同時期の弥助の窯跡が左手にある。この辺りから右手には三郷山が見える。ここから松を中心にうっそうと茂る樹々の中を走ると桜峠に出る。京都三条の仏光寺の了源上人が賊に襲われ没したという所で、伊賀と信楽との境界争い、すなわち三郷山の山論の結果、元禄13(1700)年から信楽との国境となった地点でもある。信楽に入ってもまだ道は上り坂である。5分程で道は下り坂になった。この頂上が元禄13年以前の国境であった。桜峠が国境であったのは人為的で不自然である。

 

 信楽に入り、道の周辺は平坦な風景に代わり、南新田を通過して神山から東北に伸びる県道127号線に入る。神山から15分程走ると五位ノ木古窯跡群があり、三重県内に入ってオスエノヒラ古窯跡群があるとされる所に来た。五位ノ木古窯跡群も元禄13年以前は伊賀領であったことが考えられる。五位ノ木古窯跡群とオスエノヒラ古窯跡群のあった周辺では、信楽の業者によって三郷山の陶土を採取する所がある。このすぐ西に、桃山時代に古伊賀を排出した槇山の集落があり、槇山の門出にある西光寺の裏には川喜田半泥子が発掘した槇山古窯跡がある。藤堂元甫の『三國地誌』(1763年)によると、筒井定次の時代に焼成された窯跡である。現在は西光寺の墓地となっていた。江戸中期以降に焼成していた門出の窯跡は畑になっていた。門出から河合川に添って南に下り県道674号線を西へ進むと丸柱に戻る。門出の南、すなわち丸柱の北には良質の陶土が取れた白土山があり、槇山、丸柱、そして信楽の神山を結ぶ三角地帯全体がほぼ三郷山である。古伊賀を代表する作品は白山土の陶土が使われたといわれている。三郷山の土も陶土としては良質であり、伊賀焼も信楽焼もこの土を使っているため、当然のことながら三郷山の陶土による伊賀焼は信楽焼と区別できないほどである。

 

 明治建築を代表する建築であった旧県庁は明治村へ譲渡し、津城の堀を埋めて文化会館や警察署を建設するというように、歴史的文化遺産を消失させてきた津市とは異なり、伊賀上野は歴史の香りに満ちた街である。近鉄・上野市駅から北に進むと上野市役所があり、その北に上野白鳳公園がある。この一帯は小高い丘陵地で、現在では砂利が敷かれる箇所もあるが、過去には小石さえない粘土質であったという。この良質の陶土によって筒井定次の時代に古伊賀が焼かれていたともいわれているが推測の域を出ていない。定次が構築した天守閣は現在の場所ではなく、公園に上がる坂道の左手にあったといわれ、この天守閣跡の上水道貯水槽建設工事現場から、1935年(昭和10)、「伊賀耳付水指」(石水博物館蔵)、「伊賀耳付矢筈口水指」(伊賀文化産業協会蔵)をはじめ、陶片、窯道具、窯壁片などが出土し、これらは窯跡からの発掘品であると考えられ、いつの時代の窯であるかはともかく、公園内に窯が築かれていたことは確実とされている。

 

 先日、芭蕉記念館の山本茂貴氏を訪ね、1959年(昭和34)の記念館建設工事のとき、白鳳公園内および市役所周辺から出土した陶土などを拝見した。陶片と陶片が付いた断片があり、これは信楽焼の特長をも示している。こうした信楽焼と区分し難いものは石水博物館に収蔵されている断片の中にもある。また、同じ場所から同時に採取されたという平楽寺の瓦と思われる断片も拝見した。その他、片口鉢の半焼成品と断片、窯壁の一部と付いた陶片があり、市役所と公民館との間から出土した再興伊賀と考えられる施釉の陶片、仏事あるいは神事に使用されたものと思われる小皿もあった。

 

 上野市三田の陶芸家・谷本光生氏は「室町時代の茶陶伊賀焼─平楽寺伊賀の存在」(目の眼 No82 1983年9月号)と題した大胆な構想による新説を記している。天正7年(1579)、織田信長の伊賀攻めによって灰に帰した平楽寺は筒井定次が築城した天守閣の位置にあって、古伊賀と呼ばれる茶陶は既に室町時代後期に窯を築き、周辺の粘土を使用して焼成されたと主張する説得力ある資料である。

 

 茶の揚とのかかわりのなかで、桃山時代から江戸時代初期に誕生した各地の窯場では、昭和10年代から発掘を中心として、その全容が明らかにされ、伊賀焼も上野白鳳公園や槇山でも陶片などの発見によってその片鱗を窺わせているが、今もって謎多い窯場である。隣接する信楽では古墳時代から須恵器が焼かれ、また穴窯での焼成も考古学的調査で明らかになり、14世紀後半頃に、一般的には古信楽と呼ばれる菱垣文や線刻といった文様を持つ、当時としては新しい様式を示す壺を生産し、桃山時代の茶陶信楽、そしてそれ以降現在への変遷も辿ることが比較的可能である。しかし伊賀焼は桃山時代に突如として登場し、また姿を消し、完全に断絶してから再興伊賀の窯が築かれたように考えられている。しかし、三郷山を一周して考えてみれば、オスエノヒラ古窯跡群も、五位ノ木古窯跡群も元禄13年以前は伊賀領であったとするほうが妥当であり、伊賀と信楽が全く距離がなく、三郷山の同じ土を用いて同じように焼締めたことを考えると古伊賀の前史は信楽と一致するようである。槇山の西光寺の墓地や、上野城周辺が発掘されれば、古伊賀をめぐる謎のいくつかは解明されるだろう。 

 

(もりもとたかし・普及課長)

 

年報/古伊賀と桃山の陶芸展

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