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長原孝太郎(3)

牧野研一郎

 東京美術学校が開校された明治22年2月はまた、「美術ノ事当事万般ノ事情アリ吾輩同学者ノ集合極メテ必要ナルヲ感ゼシ故本年二月下旬本多錦吉郎、松岡寿、松井昇、小山正太郎、長沼守敬、柳源吉、浅井忠等七氏ノ発意協議ヲ以テ始メテ本会ノ仮規則草案ヲ作り美術家諸君ノ同意加盟ヲ求メンガ為メ之ヲ配布スルコトトナレリ是此合創設ノ発端ナリ」(明治美術会第一回報告「本会創立記事」)という明治美術会の発端の月でもあった。

 

 明治美術会には殆んどの洋画家が参加しているが、わが長原孝太郎はこれに入会していない。親友原田直次郎が5月1日の第1回発起人相談会から名を連ねているにもかかわらず長原がこれに入会しなかったのは特殊な事情があったことが想定される。

 

 中村不折は長原の追悼記事で次のように書いている。「その頃長原君は安藤仲太郎君や五百城文哉君と云った人達と一緒に小山正太郎先生の塾に学んでいました。僕は明治20年に信州から出て、矢張小山先生の塾にはいりましたが、其の時はもう長原君は塾を去っていました。何でもなにか事件があって先生と衝突し、安藤君の采配で皆んなが袂を連ねて立去ったのだとか云ふ事でした。」 安藤仲太郎も明治美術会発足時はその会員となっていない。不折のいう事件・小山正太郎との衝突が両者の明治美術会不参加の理由であるらしい。

 

 安藤はその後明治美術会に出品するが、長原は全くこれに関与しなかったようである。ところで事件とは一体何であったのか。

 

 平木政次の「明治初期洋画壇回顧」に次のような記述が見られる。

 
 「それから少しとんで明治20年の春、東京府主催の工芸共進会が上野公園博覧会揚の跡で開催された。中略。扨てこの会で非常に不愉快なことが起った。その第一は絵画の陳列場所のことでこたごたした。それは工部美術学校を中途退学した十一会の連中が、会場の中央で一番光線のいい場所を占領してしまい、一般の作品は工芸品とならべられ、しかも光線が甚だ悪かった。

 そこで不平の声が起った。ところが更に十一会よりは審査不公平の声が起った。それで私共もその審査不公平に賛同した訳だが、其後褒賞授与式の発表によれば、十一会を代表している、浅井忠氏が授賞しているので問題となった。」 東京府工芸品共進会は第2回内国勧業博覧会(明治14年・1881)以来展覧会からしめだされてきた油彩画の出品が認められたため、多くの洋画家が出品している。浅井忠は『寒駅霜晴』『農夫帰路』の2点を出品、二等賞を受けており、安藤仲太郎は『汐干狩』を出品している。長原孝太郎はこのとき『雷門』を出品したと思われる。(同展覧会目録未見のため。ただ美術新報第13巻第4号にこの作品の図版が掲載されており、同記事中に「二十年に当時の洋画家の組織していた十一会の展覧会に『雷門』の大作を出して非常に好評を博した。」とある。明治20年に十一会独自の展覧会があったとは考えられず、工芸品共進会のことをさすと思われる。)

 

 『雷門』は図版で見るかぎり、浅草雷門とそこに集う群集とを、写真的な正確さをもって非常に精緻に描写しており、「非常な好評を博した」という言葉が肯ける作品である。ところで長原は小山の下でどのような勉強をしたのであろうか。又々引用文で恐縮だが長原の言葉を聞いてみよう。「明治17年頃と思ふ。画家を志して、始めは少しばかり小山正太郎氏に就た。然し主として同志の者たちと半身のモデル位を使って描くことの方が多かった。」(アトリヱ第3巻第9号)

 

 ここでいう同志の者とは、近藤次郎吉、近藤を介して識った原田直次郎、それに安藤仲太郎、五百城文哉らでいずれも高橋由一の天絵学舎に学んだ面々である。原田は明治17年(1884)2月にドイツに渡るが、ドイツから写真や木炭画などを長原に送っている。

 

 長原や安藤、五百城らは小山を師とは思っていなかったであろう。それが展覧会審査の件、あるいは会場問題のことで小山と意見が衝突し袂を分かつことになったのであろう。しかし先に記した天心とのことといい、この小山とのことといい長原という人は相当に一本気な人であったようである。小林万吾は長原の性格について「正直で又友情に厚い人であった。然し中々の皮肉屋で癇癪持ちで、私なども掴み合わないばかりの喧嘩をしたこともあった。」と述へている。美校の先生になってからも中村勝治郎となぐり合いの喧嘩までしたというからその直情的性格のほどがうかがえる。

 

 ところで、『雷門』は長原にとってかなりの自信作であったがためにそのような挙に出たのではないかとも思うのである。この作品は、長原坦氏によると、おそらくアメリカに渡ったのではないかということで現在所在不明である。

続く

 

(まきの・けんいちろう 学芸員)

 

長原孝太郎についての記事一覧

店先|1889年(明治22)|

店先|1889年(明治22)|水彩、ペン、紙

雷門|明治20年(1887)

雷門|明治20年(1887)

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