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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > ひる・ういんど 第6号 長原孝太郎(4)

長原孝太郎(4)

牧野研一郎

 

 前回、長原孝太郎の明治美術会への不参加の理由について若干の考察を討みたが、いま少し長原と明治美術会との関係をみておきたい。長原の事実上の養父であった神田孝平は「明治美術界第一回報告」(明治22年11月発行)のなかで、賛助会員7月入会ノ分に渡辺洪基や伊澤修二などとともにその名を連ねており、また同年7月6日に日本橋区坂本町銀行集会所で開催された明治美術会の月次小会に出席し、当時来日中のイギリス人画家アルフレット・イーストの演説を聞いたことも同報告に記録されている。神田と明治美術会との関係は単に名儀上の賛助会員ということにとどまらず、翌23年4月の明治美術会総会(第2回大会この総会は外山正一の「日本絵画の未来」という大演説で強く記憶されることになる)の出席者の記録で、外国公使らのあとの日本人出席者の冒豆に記録されていることからも、明治美術会でその存在が重視されていたことがわかる。これは、おそらく神田と小山正太郎との関係によってであろう。先にも触れたが、長原孝太郎が画を学ぶにあたって神田が紹介したのは小山正太郎であったが、神田と小山との最初の接点は次のようなものであった。

 

 「偶々文部少輔神田孝平氏勧めて曰く、専門の洋式画術を日本に云ふるも、目下必要の一事なれども、普通学としての図画を一般の学校に伝ふるも、亦目下の急務なるが今度伊澤修二君米国より帰り今師範学校の新設に勉めつつあり、君も往て之を助けては如何、他の学術と平行して進むべき実用的図画を、教育の渕源なる師範学校に扶植し、全国をして之に倣はしむるは、国家に益すること甚だ大なりと。先生意を決し、神田氏の名刺を持て伊澤氏に面会す。伊澤氏快諾せられ、同11年12月3日東京師範学校雇教員を命ぜらる。」(「小山先生小傳」板倉賛治) 

 

 明治11年10月、フオンタネージの後任として工部美術学校にフェレッチが教鞭をとるや、彼の人格、画技に不満を抱いた小山正太郎、浅井忠らは翌11月にそこを退学十一字会を結成するが、その血気にはやった行為のあとで小山を襲ったのは前途への不安であったかもしれない。そうした小山の苦境を心配して文部少輔神田孝平にひきあわせたのは、「小山先生小傳」の文面からは誰であったかわからないが、あるいは川上冬崖あたりかもしれない。神田と小山とのこの出合いは、後の図画取調掛における小山正太郎と岡倉天心との論争を想いおこさせるものであるが、それはともかく、小山は神田の勧めに従い、明治8年から師範教育取調のためアメリカに留学し、マサチューセッツ州立師範学校、ハーバード大学理科に学んで11年の秋に帰国して東京師範学校長に就任したばかりの伊澤修二のもとに赴くのである。伊澤もまた小山同様に、その後音楽取調掛において大学を出たばかりの岡倉天心と対立することになるが、これはいずれ稿を改めて述べることとする。

 

 神田の「他の学術と平行して進むべき実用的図画を、教育の渕源なる師範学校に扶植し、全国をして之に傲はしむるは、国家に益すること甚だ大なり」という言葉は、当時の美術教育観の上で特に異とする意見ではないと思われるが、神田にとってこのことは単に文部行政にたずさわるものの理論というばかりでなく、自らの学問上の切実な問題であったかのように思われる。E.S.モースはその「大森貝塚」(明治12)の序文で、「本報告書を準備するにあたって、私はひじょうに多くの日本人学者が寄せられた好意と実際の助力にささえられるところが大きかった。」として協力者の名を列挙しているが、そこで当時の東京大学総理の要職にあった加藤弘之よりも先に神田孝平の名を挙げ謝意を表している。佐原真氏は大森貝塚百年」(「考古学研究」第24巻第3、4号大森貝塚発掘100年記念特集所収論文)で、モースと神田孝平との関係を推察も混えて詳しく論じられているが、そのなかで「モースが、大森貝塚の土器・骨角器、若干の石器をみせて意見をもとめた「好古老」は『報告書』序文に登場する蜷川式胤と神田孝平の2人だったに違いない。とされている。また大森貝塚の『報告書』の日本人画工木村の原図による図版18葉についてモースが「石版工による底部の表現法は正確でない」と言表していることを述べている。

 

 モースは 『日本その日その日』の挿図にかいま見られるように、ラフスケッチも巧みであったが、もとより自然科学者として正確な描写の技術も既に習得していた。神田孝平はモースとの親交のなかで、こうしたモースのデッサンを見ていたに違いない。あるいは『報告書』作成の間に図版へのモースの不満を聞いていたかも知れない。そうしたことが「他の学術と平行して進むべき実用的図画」という神田の言葉の裏にはあるかのように思われる。

(続く)

 

 

(まきの・けんいちろう 学芸員)

 

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