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鑑賞会から

モローの芸術について

中谷伸生

美術史家ルイ・マチューの言によれば、ギュスターヴ・モローは虔なカトリック信者ではなかったが、当時の多くのフランス人と同様に、彼は神を深く信じていたという。確かにフランス近代社会におけるカトリック教の支配力は、われわれの想像を絶するほどに強く、その長い宗教的伝統は、19世紀を迎えても依然として人々の感情を揺さぶり続けていたはずである。あの背徳的言辞を執拗に書き連らねた小説家ユイスマンスでさえ、19世紀末にカトリック教に回宗して、ついにはベネディクト派の修道僧として幸せにこの世を去ったと伝えられる。モローの場合でも、カトリックの信仰との関係は、初期の作品「ピエタ」(1856年)や「モーゼ」(1854年頃)など、聖書の一場面から選択された宗教画に見出されるが、彼はこれらの作品において、ある種の理想主義的な清らかさの表現を示している。要するにこれらの画面には、神への畏敬の念の現象化を見てとることができるのである。もちろん「ピエタ」など初期の宗教画は、その殆どが注文制作によるものであり、単にモローの個人的な趣味に基づく主題ではないことに注意すべきである。しかしともかく、ここには芸術的感性という観点からして、極めて神聖な宗教精神の絵画的表現が見られることを誰しも否定することはできないであろう。

1864年のサロンに、モローはギリシア神話の物語に取材した「オイディプストスフィンクス」を出品し、画壇に衝撃を与えた。これは1808年にアングルの描いた同一主題の作品に想を得た油彩画であるが、モローは様々なモティーフをアングルから借用しながらも、アングルとは造形的力点の置き方を大きく変えて、悪魔の化身である女性の姿を見せるスフィンクスを画面中央に配置した。この男心を魅了する美しい女の顔をした怪物は、翼を生やしオイディプスを挑発するかのごとく、豊かな乳房を突き出して、その肉食獣を想起させるおぞましい体を、持つ旅人の胸に添わせている。一説によると、この作品は、ドイツの詩人ハイネの『歌の本』の序詩として書かれた病的でエロティックな詩の影響を示しているといわれる。すなわち恐ろしい上に魅感的でもある石のスフィンクスが動き出し、謎を解けなかった人間を爪で引き裂くという内容の詩である。マクシム・デュ・カンは、適切にも、この不気味な怪物が女性のコケットリーのすべてを保持していると指摘した。ここに表現された潜在的なエロチシズムは、以後のモローの絵画において、常に宗教や神話的図像によって隠蔽されつつも、視覚的には間違いなくその中心的モティーフとして扱われ、倦むことのない一種異常な情熱によって追求されたのである。

さてその後もローは、彼の名声を決定的なものにした(サメロ)の主題に没頭したが、とりわけ「出現」(1876年)は、前記のスフィンクスの造形思考をより一層洗練させた様式を誇示しており、彼の悪魔主義の美学の確立を告げる幻視的な作品である。洗礼者ヨハネの首を切らせた悪魔的女性サロメは、中世以来、数百年にわたって、悪女の代名詞とされ、キリスト教徒の忌まわしい敵と考えられてきた。モローはこの新約聖書に登場するサメロを、フローベールの小説『サランボー』に基づきながら、独自の想像力を用いて、悪であるがゆえに魅力的で価値ある女性として描いたのである。その意味では、彼の絵画は、厭うべき女サロメを断罪し続けてきたキリスト教的倫理観を逆転させる?神の思想を含んでいる。しかも「出現」において注視すべきは、空中で浮遊する洗礼者ヨハネの首の超現実的な表現と並んで、殆ど全裸に近い姿にされ、きらびやかな宝石を腰に巻きつけたサロメの半裸の姿態であろう。モローの画家としての関心が、聖書の主題から軌道を大きく逸れることによって、究極的には、女性の裸体が見せる官能的な表現に到達したことは疑い得ない事実である。モローの作品の独創的な偉大さと品格上の限界は、何よりもこの女性の裸体描写に集約されているといってよい。また見逃せないのは、スフィンクスやサロメの表現に、当時の時代精神が少なからず反映させられていることであろう。一例を挙げれば、奇才ユイスマンスも愛読していた厭世哲学者ショウペンハウエルの書が主張するニヒルな世界観が、この時代の多くの芸術家の魂に深刻な影を投げつけていた事実である。神なき精神がいよいよその全貌を露わにする時代のただ中にあって、モローの芸術が示す女性の肉感的な表現は、まさに時代の落とし子とでもいうべき性格を裡に秘めていると思われる。こうした観点からいえば、宗教及び神話的主題をエロチシズムの表現に変貌させたモローの様式は、19世紀末美術の置かれた抜き差しならぬ状況を、明日々白々に物語っているといえるはずである。

(学芸員)

友の会だより8号より、1985・3・20

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