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大和街道・街道の昔々

第1話

鍵屋の辻(かぎやのつじ)の「伊賀越仇討(いがごえのあだうち)」

日本三大敵討ちのひとつに数えられ、歌舞伎や講談の題材としても知られている「伊賀越仇討」は、今から約365年ほど前の寛永11年(1634)11月上野の市街地のはずれ、「みぎいせみちひだりなら道」と刻まれた道標が今も残る鍵屋の辻でおこりました。
事件は寛永7年(1630)7月、岡山藩士・渡辺数馬の弟・源太夫が友人の河合又五郎に殺害されたことにはじまります。岡山藩は江戸の旗本の元に逃げ込んだ又五郎の引き渡しを幕府に訴え出ましたが、途中で藩主の池田忠雄が急死したため、渡辺数馬は浪人となって主君の無念を晴らし、弟の仇を討つよりほかに方法がなくなってしまったのです。
数馬は仇討を遂げるため、姉の夫である荒木又右衛門に助けを求めました。又右衛門は上野市の荒木出身で柳生流の達人でもありました。
各地を旅した後、彼らは又五郎が奈良にいることを突き止め、大和街道沿いの鍵屋の辻で又五郎一行に襲いかかり、やっと又五郎を討ちとることができました。この時の死者は数馬方4人のうち1人、又五郎方11人中4人であったということですが、後にこの話は誇張されて、荒木又右衛門の「36人斬り」として知られています。
鍵屋の辻(かぎやのつじ)の「伊賀越仇討(いがごえのあだうち)」


第2話

倭姫命(やまとひめのみこと)と都美恵神社(つみえじんじゃ)

神代の昔、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇女・倭姫命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の鎮座される地を探して各地を旅し、大神のお告げにより伊勢に社を築きました。これが伊勢神宮の始まりです。
この時の倭姫命の旅は、大和・伊賀・淡海・美濃・尾張・伊勢をめぐる大変長いものでした。伊賀町柘植(つげ)町の大和街道の近くにある都美恵神社は、この旅の途中で倭姫命が立ち寄られ、2年の間天照大神をお祀りした「敢都美恵宮(あえとみえのみや)」といわれています。街道筋には「敢都美恵宮跡」と刻まれた石碑があります。
このほか、壬申(じんしん)の乱(672)の折り、大海人皇子(おおあまのみこ)は大和街道の原型と言われる道を通ったと言われており、大和街道は古い歴史をもつ道であることがうかがわれます。
倭姫命(やまとひめのみこと)と都美恵神社(つみえじんじゃ)

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