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徳川家康書状(とくがわいえやすしょじょう)

資料名 徳川家康書状
(とくがわいえやすしょじょう)
時 代 安土桃山時代
資料番号 977 寸 法 たて:30.5センチ
よこ:49.6センチ
解 説


 今回ご紹介する史料は、徳川家康が小浜民部左衛門尉(景隆)と間宮造酒丞(信高)に宛てた書状です。
 本能寺の変ののち、織田信孝・柴田勝家を滅ぼして天下支配を目指した羽柴秀吉は、やがて織田信雄・徳川家康と対立し、ついに天正十二年(1584)、合戦に及びます。小牧・長久手の戦いと呼ばれるこの合戦では、小牧山の長対陣や池田・森など羽柴方の諸将が討死した長久手の戦闘など尾張国での諸戦が有名ですが、織田信雄の所領があった伊勢国でも、北勢の峯(みね)城・亀山城、中南勢の戸木(へき)城・松ヶ島城などで両軍の激しい攻防が行われました。
 この書状は年号を欠いていますが、この小牧・長久手の戦いの最中の五月五日に出されたものと考えられています。その内容は、徳川家康が配下の小浜景隆と間宮信高に対して、伊勢国の生津(おいず:大淀:現 明和町の海岸部)、村松(むらまつ:現 伊勢市の海岸部)で行われた戦いで敵を多く討ち取った戦功を賞し、一層の忠勤を励むことを命じたものです。小浜景隆は志摩水軍の出身で武田信玄に招かれて武田水軍の将となり、また、後北条氏の水軍であった間宮信高も武田水軍の将を経て、武田氏滅亡後、両者ともに徳川家康に仕えました。小牧・長久手の戦いでは、徳川方の水軍の中核として伊勢から尾張にかけて転戦し、羽柴方の水軍と戦っています。この書状は、これら一連の戦いにおける戦功に対して出された感状(かんじょう)のひとつです。その後、小浜・間宮氏の家系は、江戸幕府の職制整備により若年寄支配となった舟手頭(ふなてかしら)を勤めています。
 なお、現在、この史料は掛軸装に仕立てられていますが、よく見ると中央に横方向の折り目が認められ、文面はその上方に書かれています。元々は二ツ折りにした紙に文面を書く折紙(おりがみ)という形式の書状で、将軍や大名級の者が花押(かおう)を書いて出す判物(はんもつ)と呼ばれるものです。また、家康の署名花押に比べて、宛先の小浜民部左衛門尉と間宮造酒丞の名前が小さく下方に書かれているのは、両者の地位関係を表しています。
 このように、この史料は小牧・長久手の戦いに際して、主戦場の尾張での戦いに並行して伊勢地域で行われた激しい攻防の一端を物語る数少ない貴重な資料のひとつと言えましょう。(SG)

徳川家康書状
徳川家康書状
署名・あて名 五月五日家康(花押)
            小浜民部左衛門尉殿
            間宮造酒丞殿
                文字の下に折れ目がみえます。
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