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三重県総合博物館 > コレクション > スタッフのおすすめ > 大八車

大八車

資料名 大八車 資料番号 1069
時 代 昭和30年代まで使用 寸 法 長さ 305センチ
幅   63センチ
解 説


 資料の大八車は引き手がやや上向きに反り、車幅も狭く、骨組みも比較的細く少ない梁であり、車輪はタイヤに改良されています。また、大八車も登録制であったことが知られる長方形の焼印が3ケ所あります。その中に[三重縣検][飯南郡 大河内村 □□印][飯南郡 大河内村役場]、さらに丸の焼印の中に[]と押されています。この大八車は、現在の松阪市大河内地域で昭和30年代から40年代ごろまで使用されていました。焼印などから県や村に登録し、また検査が必要であったことがわかります。

 大八車は、樫などで部材の骨を組み、左右に木製の車を付けたもので、車を引く人と重い荷物を積んだときなどの押し手で動かしていました。引き手は一人で、押し手は時には2~3人、坂などを登る時は子供たちも呼び止められて、押し手として手伝っていたとの話も残っています。また、熊野古道の馬越(まごせ)峠では大八車を使って魚など運搬していましたが、車は坂の途中まで押し、押すことができなくなったら車を外し、引き手や押し手の人たち5~6人が大八車の四方を持って、峠を越えて荷物を運んだ話も伝わっています。

 大八車は、江戸時代の明暦31657年の大火
の復興に、重量のあるものを運ぶことができたため大いに活躍しました。江戸時代の都市で利用されていましたが、全国的に普及するのは、農村部に入る明治になってからといわれています。
 三重県下でも明治期の都市部では、商業用の運搬車として津や松坂の木綿問屋や伊勢河崎の酒問屋や商家などで使っていました。また、呉服などの軽いものを扱う大八車と重量を乗せる車とは骨組みが異なっています。しかし、昭和30年代に入りと自動車が運搬の主役になってくると、しだいに大八車は利用が少なくなり、農家などの納屋に解体して収められ保存されてきました。また、大八車を改良したのが、リヤカーに発展したといわれています。
(FW)

 ※ 長方形焼印 [三重縣検]の大きさ  タテ 9センチ  ヨコ 3センチ
         [飯南郡 大河内村役場]の 大きさ  タテ 6センチ  ヨコ 3センチ
   丸焼印   径 3センチ

 ※ 飯南郡大河内村は、昭和32(1957)年に松阪市と合併しています。

大八車1
大八車2
焼き印
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