万延二朱判金(まんえんにしゅばんきん)
資料名 | 万延二朱判金 (まんえんにしゅばんきん) |
資料番号 | 3785 | |
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寸 法 | たて: 約13ミリ よこ: 約 7ミリ |
時 代 | 江戸時代 | |
解 説 | 江戸時代に発行されていたお金には、金貨・銀貨・銭貨(銅貨)の3種類がありました。金貨は大判、小判、銭貨は寛永通宝(かんえいつうほう)がよく知られています。現在の通貨システムと異なる江戸時代のこの通貨システムを金・銀・銅の三貨(さんか)制度といいます。それぞれの貨幣を発行した場所を「金座(きんざ)」「銀座(ぎんざ)」「銭座(ぜにざ)」といいます。また、江戸時代中ごろまでは、「東国の金遣い、西国の銀遣い」といって、江戸を中心とする東日本では金貨が、上方(大坂)を中心とする西日本では銀貨が主に使われていました。 額面価格と枚数で価値が決まるものを「計数(けいすう)貨幣」、重さで価値が決まるものを「秤量(ひょうりょう)貨幣」といいます。金貨は、小判1両を基準にそれ以下の単位は4進法で決められた計数貨幣、銭貨は1枚が1文と決められた計数貨幣、銀貨は、重さでその価値が決まる秤量貨幣でした。 金貨の小額貨幣として「二分(にぶ)金」「一分(いちぶ)金」「二朱(にしゅ)金」「一朱(いっしゅ)金」が発行されています。それぞれの交換比率は下にあるとおりです。銀貨は、はじめ丁銀・豆板銀と呼ばれるものが秤量貨幣が使われていましたが、江戸時代中ごろの明和(めいわ)9(1772)年には「二朱銀」が発行され、のちに「一分銀」「一朱銀」も発行されて計数貨幣へと変化していきます。これらの銀貨は、同種の金貨と同じ価値とされました。 写真の資料は、「万延二朱判金(まんえんにしゅばんきん)」と呼ばれるものです。表には扇形の枠に桐の紋と「二朱」、裏には「光次」という名と花押が刻印されています。大きさは、1円硬貨よりも小さなものです。(下の写真を参照)「二朱金」がはじめて発行されたのは、元禄(げんろく)10(1697)年のことですが、13年後の宝永(ほうえい)7年に発行中止となっています。その後、天保(てんぽう)3(1832)年に「天保二朱金」が、万延元(1860)年には、「万延二朱金」が発行されています。この「万延二朱金」は、9年後の明治2(1869)年まで発行され続けます。(FK) 【 金貨と銭貨 】 1両 = 4分 = 16朱 = 4000文(4貫文)から10000文(10貫文) 【 金 貨 】 大判 1両 = 小判 10両 小判 1両 = 二分金 2枚 = 一分金 4枚 = 二朱金 8枚 = 一朱金 16枚 【 銀 貨 】 1両 = 50匁 = 4000文(4貫文)から10000文(10貫文) (のちに60匁) |
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