深化する色彩世界
井上隆邦
石垣さんが脳血栓で倒れたのは2008年の春だから4年の歳月が過ぎた。お見舞いも兼ねてこの春久方ぶりに彼のアトリエを訪問した。石垣さんのファンであり、またコレクターでもある三重大学名誉教授の櫻井實先生夫妻もご一緒してくださった。
アトリエの入り口で声をかけると、「どうぞ」と奥から返事が返ってきた。随分とハリのある石垣さんの声だ。元気を取り戻している様子が伝わってくる。室内に入ると、石垣さんは車椅子に座った状態で出迎えてくれた。少し痩せた感じもしたが、顔の色つやは良い。
広々としたアトリエには、ところ狭しと新作が大小取り混ぜて40から50点ほど並んでいた。ここ1、2年の間に仕上げたもだという。まだ額装も施されていない。櫻井夫妻と新作を見て回り、石垣さんから話を聞く。
「石垣定哉」といえば、青、赤、ピンク、黄、グリーンと色彩が乱舞する作品で有名だが、彼のこうした色彩世界は今回の大病を契機として更に深化したように思った。色彩を「塊」で捉えるようなタッチは、新しい試みだ。色の使い方も抑制的というか、ストイックになった。特に印象に残ったのは、色彩あふれる作品の中に登場する黒い線描だ。「墨書」を彷彿とさせる表現で、画面が一層引き締まる。
石垣さんの色彩世界は、若かりし頃見た「地中海」の海の色、空の色、そして大地の色がヒントになったという。確かにそうかもしれない。しかし、彼の色彩世界はそれだけでは説明がつかない。生まれ故郷であり、現在アトリエのある三重県・員弁(いなべ)の大地や空の色も無関係ではあるまい。石垣さんの作品を眺めていると、その背後から「員弁」がほのかに垣間見えてくるから不思議だ。彼の色彩世界は、「員弁」と「地中海」が出会い、花開いたものではないだろうか。
石垣さんは目下、青という色彩を研究し、追求している。今回拝見した新作でも、南仏や彼がこよなく愛したイタリア・シチリアを題材とした作品では、この青が際立っていた。「ラピラズリーの青、宝石のような青を使いたい」「青との対比の中で赤や黄色を生かしたい」石垣さんは、そうした言葉をよく口にした。
病気になる前の石垣さんは取材のため精力的に世界各地を旅していた。一年のうち半年くらいはパリで過ごすことも珍しくなかった。こうして生まれた、パリ・クレージー・ホースの踊り子たちやニューヨークの摩天楼を題材にした一連のシリーズは、彼の代表作といってよい。今は無理かもしれないが、遠出が可能となった暁には、新しい題材を求めて好きな旅行を是非再開してほしいと思う。
アトリエを去るに際して、石垣さんの奥さま、恵さんが我々を門まで送ってくれた。門の近くには一面、忘れな草が咲き誇っていた。まるで絨毯のように。夫人が毎年種をまいているとのことだった。忘れな草の淡いブルーを見た瞬間、石垣さんの作品が目に浮かんだ。そう言えば、この淡いブルーは彼の作品に通底するものではないか、そうした思いが心を掠めた。
深化する石垣さんの色彩世界。新たな挑戦と今後の展開を期待しつつ、アトリエを後にした。
(『石垣定哉図録』 日動画廊 2012年9月)