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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > 村山槐多 《自画像》 1916年 解説

村山槐多 《自画像》 1916年

 村山槐多(1896-1919)

自画像

1916(大正5)年 

油彩・キャンバス

60.5×50.0cm

   

村山槐多《自画像》 1916年 

 村山槐多が十八,九歳のころに描いた自画像。その年齢からすれば、槐多がいかに早熟な青年であったかをこの絵は物語っている。
 一九一四年、槐多は京都の第一中学校を卒業し、画家を志して上京したが、健康状態が思わしくなく、経済的にも苦しい状況の中で、二科展と院展に出品を始めた。
 この自画像は、槐多が画家として本格的に出発した、そのころの作品。自身の姿を理想化することなく、自己の内面がありのままに荒々しい筆致で表されている。
 槐多は、この自画像を描いた数年後、二十二歳の若さでこの世を去るが、眼鏡の奥の鋭いまなざしは、何物をも恐れず、ひたすら突進する青年のいちずな情念を私たちに投げかけている。 (毛利伊知郎 中日新聞 1995年12月8日) 


 

 大正期に活躍し、二十二年あまりの短い生涯を送った村山槐多(かいた)は、数多くの自画像を残した。掲載の作品(県立美術館所蔵)は、一九一六年槐多二十歳の自画像。
 画家としてだけでなく、詩人としても知られる槐多は並外れた早熟で、早くから文学や美術に関心を抱いていたが、彼の詩作や絵画はほとんど独学によるものであった。
 この自画像では、細部の描写にこだわることなく、太い筆による奔放なタッチで、重量感のある力強さと暗さが入り混じった画面が生まれている。
 ここには、困窮の中で自由かつ奔放に生きた青年の激しく深い心のありようを見て取ることができる。 (毛利伊知郎 中日新聞 1997年6月27日) 


 

 暗褐色をベースに、白や黄などの色彩を、奔放で力強い筆触で描いたこの「自画像」は、重苦しく息詰まるような印象を与える作品である。
 明治二十九年、横浜市に生まれた村山槐多は、大正八年、二十二歳の若さで逝去している。この「自画像」を制作した大正三、四年頃、槐多は彗星のように洋画界に登場している。大正三年、日本美術院の研究生となり、翌年の第二回日本美術院展出品の「カンナの少女」で美術院賞(大正六年にも同賞を受賞)を受け、大正期の洋画家として注目を浴びている。
 槐多は多感な青年であった。デカダンな暮らしをしながら、詩人としての才能も発揮しながら、画家として、自己の表現と格闘していた頃である。
 画家が自画像を描くとき、従来の制作とは異なる表現意図をもっていることが多い。槐多の場合、おそらく自己の心情の記録としての意味あいが強いものと想像できる。
 短くとも、燃えるような人生をかけたフォーヴィズムを基礎にしたこの「自画像」には、村山槐多でしかなし得ない魅力が秘められている。(森本孝)サンケイ新聞1988年9月11日 


 

 この作品は、村山槐多が二十歳の時にかいた。彼は二十二歳で夭折するが、経済的に恵まれず、体調の不良と戦いながら短い生涯の中で絵をかく者として自己を見つめ、多くの自画像を残している。
 この作品は、逆境の中で前向きな彼の思いが、大きな力となって見る者に迫ってくる。それは一体、絵の中の何によるのであろうか。技法的な解説では説明がつきにくい、不思議な力を感じる作品である。
 彼は絵の具で光の様子を追っており、衣服や背景の白と、顔から首にかけてのオレンジの筆跡を荒々しく残している。だが、勢いにまかせてかいたという印象が、この絵からは思いのほか感じられない。光の表現によって、取り立ててその量感が強調されていたり、ヨーロッパのバロック絵画のように光による演出がなされているわけでもない。むしろ、平面的にさえ見えるほどである。
 しかし、彼のその姿は、深く暗い色調の空間の中に決して引き込まれない強さを持っている。筆致による表面的な勢いではなく、その向こう側からにじみ出てくる確かな存在感に、見る者は圧倒される。 (近藤真純 2001年6月7日中日新聞)



 

 村山槐多、20歳のころの自画像。この作品は以前から下の層に別の画像があることが指摘されており、人物の右側に影のように別の人物の輪郭線が描かれていることが肉眼でも確認できる。
 1997年に下の層に描かれた画像を調査するため作品のエックス線撮影を行った結果、これまで指摘されていた人物像の他にもうひとつ別の画像が浮かび上がってきた。つまり、この自画像の下には2枚の画像が隠されていたことになる。
 まず、これまで指摘されていた下の層の人物は自画像とは反対向き、向かって左を向いており、眼鏡をかけていることがわかった。これは槐多の自画像である可能性が高い。
そして一番下の層に描かれていた画像は、画面中央やや下に牛が草原で休んでいる姿であることが確認された。筆の使い分けや絵の具の厚みの調整による描き分けがなされており、これは村山槐多の描き方とは異なる。別の人物の手によるものと思われるが、確実なことは分かっていない。(原舞子)『日本の美術館名品展』図録、東京都美術館(美術館連絡協議会)、 2009.4.25-7.5

 

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