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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > 曾我蕭白 《松に孔雀図襖》 1767年頃 解説

曾我蕭白 《松に孔雀図襖》 1767年頃

 曾我蕭白(1730-1781)

松に孔雀図襖》 4面

1767(明和4)年頃 

紙本墨画

各172×86.0cm

(財)岡田文化財団寄贈

   

曾我蕭白《松に孔雀図》 1767頃 

 

 孔雀はそれ自体きわめて華麗だが、その装飾効果から、寺院や城郭あるいは住宅などで、室内を飾る襖絵や屏風の主題として、障屏画の歴史の流れのなかで連綿として重要な役割を演じ続けてきた。明和八年(一七七一年)の円山応挙「牡丹孔雀図」(旧円満院蔵)は、その流れのなかでも最も豊穣な成果といえるものである。
 応挙は、孔雀が本来もっている過剰なほど美しい姿や色彩を、的確に写生するために細緻を極めた筆致と緑青や群青あるいは金泥などを駆使している。それに対して蕭白は、孔雀を墨のみに切り詰めて表現している点で、応挙とは大きく異なる。松や土坡(どは)の濃墨に封じ込められたような淡墨の孔雀は、ちょうど壁画に埋め込まれたレリーフのような違和感を与える。
 また、そうした自然物を主観の操作で、思いの通り変容を加える蕭白のアプローチは、松の表現にも顕著に現れている。筆を数本並べた連筆に濃い墨をたっぷりと含ませて、バサバサと力任せにはいて描いた節くれだった松は、自然をあるがままに写そうとする応挙の発想からは、遠いところにある。 (山口泰弘 中日新聞 1994年2月11日) 


 京都に生まれた曾我蕭白(一七三〇-八一)は、一度ならず伊勢地方を遊歴しており、旧永島家襖絵をはじめとした多くの作品を、この地で手掛けている。
 ところで、蕭白が旅したのは、伊勢地方だけではない。蒲蕭が赴いた地に出雲や九州を挙げることができるのだが、兵庫県の播州地方もその一つである。
 ここで取り上げた老松と二羽の孔雀を描く襖絵は、もとは「許由巣父図襖」(当館所蔵)と表裏を成していた。地方の地紙が用いられた裏張りに、高砂市近郊の地名がみられることから、高砂滞在中に描かれた作品と知ることができる。
 蕭白は、三十四歳ごろと三十八歳ごろの二度、播州地方に赴いているが、画風や落款などから二回目の播州高砂滞在中、つまり明和四(一七六七)年ごろに制作されたと考えられる作品である。
 勢いよく枝を伸ばす老松は濃墨で、ゆったりとした羽を持つ孔雀は淡い墨を基調として描かれている。
 墨の濃淡と筆致を使い分けることで、老松と孔雀の各々の質感が巧みに表現されており、蕭自作品の中でも、優れた出来栄えを示す。制作年代、制作地が明らかな貴重な作例でもある。(佐藤美貴 2000年6月15日中日新聞) 



 襖四面いっぱいに松の古本と孔雀のつがいが描かれている。はけのようなものに濃い墨をたっぷりと含ませて、ばさばさとした筆遣いで描かれた奇怪な松と、淡い墨で軽やかに描かれた優美な孔雀との対比が目を奪う作品である。
 曽我蕭白が三十歳代の後半に描かれたものと思われる。蕭白の作品には三十歳代のものにすぐれたものが多い。おそらく、体力、気力とも、もっとも充実したときっだのだろうと思われるが、この作品は、アメリカのボストン美術館にある、中国の故事を題材にした「商山四晧図(しょうざんしこうず)」とともに、この期の最後を飾る佳作といってよい。
 襖という性格上、その裏にも、もうひとつ画を描くスペースが設けられているわけだが、そこにも蕭白の手で、「許由巣父図」という、中国古代の伝説を取り扱った水墨画が描かれている。(山口泰弘)サンケイ新聞1993年3月7日 


 

 蕭白といえば昨今では、奇想にみちたイメージを描いた江戸時代後半の絵師として、狩野派や応挙以上の知名度を誇っている。ただ、一見奇矯と見える画面が、熟練した技倆に支えられている点を見落としてはなるまい。
 本画面の主題自体はある意味で変哲もないものだが、印象的なのは、右上から左下へ大きな弧を描きながら流れ落ちる、ダイナミックさだろう。
 この動勢をもたらしのは、焦点たるべき孔雀はむしろ薄墨で抑え、右の松を濃墨と紙の地色との強い対比で強調するという、墨の濃淡を的確に使い分け、また構図全体に目配りする職人的な冷静さにほかならない。(石崎勝基) 中日新聞2009.6.16 

 

作家別記事一覧:曾我蕭白

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