青木夙夜 《琴棋書画図》 1795年
青木夙夜(?-1802)
《琴棋書画図》
1795(寛政7)年
紙本墨画淡彩
115×51.7cm
青木夙夜(あおきしゅくや)は江戸時代中、後期の京都の文人画家。池大雅(いけのたいが)の弟子となり、大雅の没後、大雅の住まいであった大雅堂を継いで大雅堂二世を名乗った。
中国においてかつて、琴を弾じ、棋(碁)を囲み、書画をよくすることは文雅のたしなみとして、知識人にとって不可欠のことと考えられた。
日本においては四芸とも呼ばれて、文人画をはじめとする絵の重要な主題のひとつひとつとして盛んに描かれた。
この作品もそのひとつひとつで、手前に囲碁を楽しむ人、奥に琴をつま弾き、その音色に聞き入る人、岩面に筆を下ろそうとする人が描かれる。これで「琴棋書」がそろったことになるが、「画」を描く人は見当たらない。実は、この「琴棋書画図」そのものが、「画」を表しているのである。 (山口泰弘 中日新聞 1996年7月19日)
「琴棋書画」はキンキショガと読む。中国文学者青木正児は、同じ「琴棋書画」を題とするエッセーの中で、幼少のころ父に買ってもらった「絵本」の中に「四芸」の図というのがあって、そこで初めてこの言葉を知ったという思い出から話をたぐりだしていっている。
歴史的にみると、まず琴書の熟語があり、ここでの毒は書籍を意味していた。良い読書に倦(う)んだ文人がその欝(うつ)を琴を鼓することで発散させることからきている。
「少クシテ琴書ヲ学ビ」といった陶淵明から、江戸の日本の浦上玉堂まで琴を弄(もてあそ)んだ読書人は無数にいたし、近代日本の文学者内田百聞も、たしか琴を善くして、宮城道雄とごく親しかったはずである。
その書籍の書がいつの問にか書道の書にかわって、書画という対になった後で、もとの琴は囲碁を表す「棋」と熟して、コトとゴ、書と絵の四つを並べて文雅な遊びを総称することになった。
そして青木夙夜の生きた江戸時代、これは中国を慕った文人たちなら、できれば身につけていたい一種の教養だったといえよう。それをテーマにして夙夜はこの絵をかいているが、まじめそうに見えて、実は謎(なぞ)をかけている。こんなひねりは洒落(しゃれ)がもうひとつの芸だった江戸人ならではの得意技である。 (東俊郎 中日新聞 1999年6月3日)
作家別記事一覧:青木夙夜