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柳原義達と戦後具象彫刻

三重県立美術館は、彫刻家柳原義達(1910-2004 )から彫刻〔137〕素描[152]などの代表作の寄贈を受け、常設展示することとなった。柳原義達氏は三重ゆかりの作家ではない。しかし、戦後の具象彫刻を代表する作家の一人として開館時に代表作《赤毛の女》《黒人の女》《バルザックのモデルたりし男》〔140〕を収蔵し、また1996年には「柳原義達展」、1999年には「柳原義達デッサン展」を開催するなど、この彫刻家を折に触れて紹介してきた。こうしたことが機縁となって、今回の作品寄贈が実現したわけである。

また、当館には佐藤忠良(1912- )〔138〕、舟越保武(1912-2002)〔139〕という柳原義達と同じ志を持った彫刻家の作品も少数ながら収蔵されている。佐藤と舟越は、柳原より二歳年少で美術学校では三年後輩に当たっている。従って、柳原と佐藤・舟越とでは経歴に二三年の差はあるものの、いずれも1930年代に東京美術学校彫刻科で学び、国画会を経て1939年(昭和14)に新制作派協会彫刻部の創設に参加するという、彫刻家としての出発時期に共通の経歴を持っている。

三人が最初に関係を持った国画会彫刻部は、ブールデル(1861-1929)に直接師事した金子九平次(1895-1968)を中心に1928年(昭和3)に創設され、高村光太郎(1883-1956)も会員として参加していた団体である。日本におけるロダン(1840-1917)の紹介者でもあった高村光太郎の影響力は大きく、1930年代には柳原、佐藤、舟越らロダンやブールデルの作品に触発され、官展彫刻の在り方に反発していた新進作家たちが同会に多数参加するようになった。1939年(昭和14)には、柳原を含む国画会彫刻部会員は全員同会を離れて、新制作派協会彫刻部を創設したが、この時に佐藤、舟越の二人も会員として参加することになる。柳原、佐藤の戦前作はほとんど現存せず、舟越の場合も現存する戦前の作品はわずかで、三名の本格的な活動は第二次大戦後のことといってもよい。

佐藤は、1944年(昭和19)に召集されて中国大陸にわたり、シベリア抑留を経て日本に帰還したのが1948年(昭和23)夏で、本格的な作品発表はこの年から再開された。佐藤は、抑留体験の中で人間の本質に対する認識を深め、作者の純粋な感動が見る者の共感を呼ぶ家族をモデルとした清新な作品から出発し、1952年(昭和27)には《群馬の人》〔141〕が日本人の本質を表現することに成功した真の日本人の手になる最初の彫刻として高い評価を受け、以後生命感あふれるヒューマンな作品、清新な女性像などを発表していった。

舟越は1944年(昭和19)秋の第9回新制作派協会展に《小北嬢》を出品した後、郷里岩手県に疎開し、東京での作品発表を再開したのは1946年(昭和21)秋であった。舟越は同郷の松本竣介(1912-1948)[33]、麻生三郎(1913-2000)[34] [40]らとの交遊やカトリック信仰の中で自らの造形思想を育み、同郷の石川啄木(1886-1912)や宮沢賢治(1896-1933)に触発された文学的感性等を内面に秘めた石彫や塑像に独自の世界を築いている。

最年長の柳原は、美術学校在学中から国画会に出品を始め、1937年(昭和12)には会員に推挙されている。柳原は1943年(昭和18)の第8回新制作派協会展出品作《女の首》が戦前最後の発表作で、戦後は1946年(昭和21)から出品を再開し、一時期建築装飾彫刻制作や白色セメントを素材とした野外彫刻展への参加など、具象彫刻の概念にとらわれない活動を行っている。柳原は、1951年(昭和26)に開催されたサロン・ド・メ東京展で紹介された同時代のフランス彫刻に強く触発され、1953年(昭和28)末に再出発を期してフランスに渡り、1957年(昭和32)に帰国するまで研鑽を重ねてフランス近代彫刻の造形思想を体得し、自然法則に従う生命の運動を表す彫刻表現に開眼して、日本の具象彫刻に新境地を開いた。

このように、これら三人の彫刻家は、戦時期の思想や表現の自由に対する抑圧、兵役や抑留、経済的困難などの苦難に耐えながら各自の彫刻表現を深化させ、戦後に三人固有の彫刻を確立している。その造形世界は日本具象彫刻の一つの頂点とも言われ、明治時代に始まった日本近代彫刻の成熟した姿を彼らの作品にみることができる。

(毛利伊知郎)


[137]柳原義達《道標・鳩》1973(昭和48)年 [138]佐藤忠良《賢島の娘》1973(昭和48)年
[139]舟越保武《OHNO嬢》1982(昭和57)年


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