鉄格子から大脱走
加藤悦郎(1954- )の『Rain or shine - 106』[53]において、真っ白な画面から浮かびあがる格子は、縦長の長方形をなす画面の四辺と平行しており、画面の形態を反復している。構図を組みたてるための足場にとどまらず、画面のあり方そのものを主題とする格子は、モダニズムの絵画において重要な役割をはたした。モダニズムの絵画が自らのあり方に目を向け、夾雑物を廃し純化すべきだと見なされる時、画面の平面性と枠どりを反復する格子は、そうした理念を達成するのに有効な道具の一つと目されたわけだ。
もっとも表現は、平面性なり物質性、あるいは観念性が、それらに納まりきらない何かを宿した時に生じることだろう。格子は平面性と枠どりに即するがゆえにこそ、そこからのずれをあらわにせずにいない。加藤の画面においても、きわめて稠密に塗りこめられた白の、その上に描き足されたのではなく、内側から滲みだしたかのような格子は、ぼんやりとかすむことで非物質性を印象づける。
この非物質性は、制作の緻密さ、すなわち物質としての素材に向けられた注意深さに支えられている。同様の事態は、朴栖甫(1931- )の『ECRITURE No.000212』[54]でも認められよう。韓紙を貼り重ねるプロセスは、実際の凹凸となって現われている。そうした素材の物質性は、しかし格子状に調律されることで、端正な静謐さを感じさせるものとして自足する。
アルバセテ(1950- )の『幻影 1』[55]では、入れ子状に反復する枠の中ないし奧で、シルエットと化した静物がゆらいでいる。枠どり自体、明るいグレーと黄の二色を、絵具が垂れ落ちるような塗り方で引かれ、不安定さを宿さずにいない。ここでは、イメージが画面から出現する仕組みが主題化されていると見なすべきだろうか。
石井茂雄(1933-1962)の『暴力シリーズ - 戒厳状態Ⅱ』[56]において、格子は斜めに配された。斜向によって動勢を得た最前景の格子は、さらに中景の舗石、後景の建物へと、角度をずらしながら波及していく。鉄格子が監禁や遮断を表わすとして、その斜向・動勢・波及を、抑圧の無限連鎖ととるか自由への逃走ととるかは、見る者に委ねられている。
(石崎勝基)
[53]加藤悦郎《Rain or shine - 10》1999(平成11)年 墨、岩彩・和紙 230.0x150.0cm [55]アルバセテ、アルフォンソ《幻影 1》1990 年 油彩・キャンバス 170.0×150.0cm |
[54]朴栖甫《ECRITURE No.000212》2000年 ミクストメディア・韓紙 182.0x228.0cm [56]石井茂雄《暴力シリーズ-戒厳状態Ⅱ》1956(昭和31)年 油彩・キャンバス 130.5x162.0cm |