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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 増山雪斎の中国趣味 山口泰弘 三重県立美術館所蔵作品選集

増山雪斎の中国趣味

写実的な虫類写生図譜『虫豸帖(ルビ:ちゅうちじょう)』や華麗な花鳥画で知られる増山雪斎(1754-1819)すなわち増山正賢は、宝暦4年(1754)10月14日、伊勢長島藩主正贇(ルビ:まさよし)の長子として江戸に生まれ、父の死去とともに、安永5年(1776)23歳で遺領2万石を襲封した。長島藩領は木曽川・長良川・揖斐川の三川が運ぶ土砂が堆積してできた三角州地帯を占め、その南東端は伊勢湾に臨む。中世には河内といい、河内御堂と呼ばれた願証寺を本拠にした一向宗門徒が織田信長と争って壊滅に追い込まれたことで有名な長島一揆の舞台として知られる。土地が水位より低く、そのため輪中を形成して開発が進められたが、水害の脅威にしばしばさいなまれ、治水は累代藩主の最大の治政上の課題であり、正賢にとってもそれは例外ではなかった。48歳を迎えた享和元年(1801)、正賢は致仕して巣鴨の下屋敷に隠棲し、文政2年(1819)1月29日、66歳で病歿した。墓所は増山家累代の菩提所である上野東叡山勧善院に定められた。

雪斎はその号で、致仕ののち巣鴨に隠棲したことから巣丘隠人、石をことに愛でたことから石顛道人などと号し、ほかに君選、括嚢小隠、王園、灌園、雪旅、長洲(長州)、愚山、松秀園、蕉亭など多くの別号があった。襲封後は大坂城御加番などを歴任したが、生前はむしろ文芸に秀でた風雅の人として、尊敬を集めていた。

田能村竹田(1777-1835)は『山中人饒舌』(上卷 天保5年)で、雪斎を「画の本質である氣韻生動は、かつては士大夫や逸人の描いたもののなかに現われたものである。近年になって士大夫の中にこの本質を尽くすものがいることを聞いていない。そのなかにあって雪斎の書画は、通り一遍の骨法用筆を脱して絶妙の域に達している。すなわちこの人こそ人格と地位とを兼ね備えた士大夫であって、その画は氣韻生動の筆墨である。」と賞賛している。竹田のみるところ、文人を形成する士大夫と逸人のうち、逸人は我が国にも輩出したが、士大夫のなかに画の本質を汲み尽くす人は久しく現われなかった。大名である雪斎を士大夫になぞらえた竹田には、雪斎が、本来的な意味での文人像の、我が国における希有な具現であると映っていたのである。

雪斎が嗜んだ文芸の領域は、実際、書画のほか、囲碁、煎茶など、文人が嗜みとすべき諸方面に亙っていた。ちなみに『國書総目録』には雪斎の著作として、『観奕記』(1冊 享和3年)・『松秀園書談』(3巻3冊 寛政5年)・『煎茶式』(文化元年刊)などがあげられている。それぞれ囲碁・書・煎茶についての著作であるが、ほかに『松秀園書談』の奥書には、「雪斎滕侯著追刻書目」として『礼談』『楽談』『射談』『御談』『通雅』などの出版が予告されていることからみても、文人として非常に広範囲に関心を広げた人であったことがわかる。

なかでも雪斎がとりわけ意を注いだのが画であり、その中心を沈南蘋風の濃彩による写実的な花鳥の密画が占める。しかし近年の研究によって、このほかにも文人画風の墨筆・淡彩による写意的花鳥画や山水画の存在が知られるようになってきており、なかには南蘋派花鳥画家としての従来の雪斎像の修正を迫る佳作も多い。結果として、南蘋画風のもつ北宗画的要素と写意画のもつ南宗画的要素の双方を勘案した上で、新しい雪斎像を形成していく必要に迫られている。関東における同時代画壇の特徴のひとつといわれる諸派兼学の姿勢を雪斎に適用していくこともそのひとつとして挙げられよう。

(山口泰弘)





[101]増山雪斎《花鳥図》1794(寛政6)年



[102]増山雪斎《花鳥図》1814(文化1)年


[103]増山雪斎《雁図》
1815(文化12)年

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