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明治洋画の諸相

わが国の文化が古代以来外来文化と関係をもちながら形成されてきたことはいまさらいうまでもない。現代の私たちは日本の伝統的文化や生活様式の方にかえって距離を感じてしまうほど、生活と文化双方の領域で日常的に西洋起源のものに慣れ親しんでいる。しかし、これほど西洋文化が日本に定着するまでには、様々な興味深い現象が生じた。美術の分野も例外ではなく、西洋の絵画表現と日本人との関わりは、異文化受容という点でも多くの重要な問題を含んでいる。

西洋絵画を初めて目にした日本人は、日本の伝統絵画にはなかった、対象をありのままに描き出すことができる写実的な表現力に驚き、これを高く評価した。司馬江漢(1747-1818)ら18世紀後半に活動した洋風画家はもちろん、江戸時代末から明治時代にかけて活躍した高橋由一(1828-1894)をはじめとする画家たちも、将来された石版画などを頼りに技法の模倣が行われた。そうしたなか、1860(万延元)年に「イラストレーティッド・ロンドンニュース」紙の特派員としてチャールズ・ワーグマン(1832−1891)が来日し、五姓田義松(1855-1915)、高橋由一らに油彩画を指導した。日本人が直接西洋人から西洋画を学んだ最も早い例である。一方、松阪出身の岩橋教章(1832−1883)は1873(明治6)年にオーストリアに派遣され、1年ほどの短い期間ではあったが銅版石版画技法を習得した。日本人画家としてはかなり早い時期の留学であり、帰国後描かれた《鴨の静物》〔1〕は西洋画法研究の成果が発揮されている。

1876(明治9)年には、お雇い外国人のひとりとしてイタリア人画家アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)〔2〕が来日した。科学技術の振興を図る目的で政府が設立した工部美術学校の教鞭をとった彼は、それまで油絵具を扱ったこともなかった大半の学生を相手に高度な授業を展開した。西洋画法が単に写実表現に長けた技術ではなく、芸術表現のための有効な手段として認識されたのもフォンタネージによるところが大きく、わずか2年に満たない短い期間であったが、そこで学んだ浅井忠(1856-1907)[9]、小山正太郎(1857-1916)、山本芳翠(1850-1906)、五姓田義松などは、彼の教えと実践がその後の活動の重要な布石となった。同校は1882(明治15)年に閉校となり、1896(明治29)年に東京美術学校に西洋画科が設置されるまでの間、1880(明治13)年創立の京都府画学校西宗科を除くと、わが国における西洋画の教育は画家たちの私塾を中心に行われた。

明治中期以降の洋画界は、黒田清輝(1866-1924)〔3〕がフランスから帰国したことによって大きく変化した。法律研究を目的に留学した黒田は、山本芳翠のすすめで画家に転向し、アカデミックな作風に外光派風の明るい表現を取り入れた画家ラファエル・コラン(1850−1916)に学んだ。黒田が18歳という若さで留学したことは、西洋の美術を純真に受けとめ、さらには西洋人と同じ視点で当時の芸術を把握するには非常に好都合であっただろう。天性の画才にも恵まれた彼は、ヨーロッパの伝統的な写実性や構図法を吸収し、師コランの外光派的な表現に印象派的なより明るい表現を加えた。時代の要請もあり、帰国した翌年の1896(明治29)年、東京美術学校に西洋画科が新設され授業を一任される。さらにこの年、久米桂一郎(1866-1934)〔4〕藤島武二(1867-1943)〔32〕らと白馬会を結成。この会は旧弊をあらわにしつつあった明治美術会に対して不満をもっていた若い画家たちに支持され、黒田は当時の洋画壇の中軸を担うようになる。彼はこの会に構想画《昔語り》などの大作とあわせて下絵類を出品したが、このことは後進に対して西洋のアカデミックな構成方法を教育する目的もあったようである。白馬会には上述の画家以外に長原孝太郎(1864-1930)、岡田三郎助(1869-1939)、和田英作(1874-1959)、青木繁(1882-1911)〔10〕らが出品しており、それらの作品には概して光の変化を明るい色調で丹念に捉える共通したスタイルが認められ、明治前期の作品と一線を画すこととなった。

(田中善明)




[1]岩橋教章《鴨の静物》1875(明治8)年



[2]アントニオ・フォンタネージ《沼の落日》1876-78(明治9-11)年頃



[3]黒田清輝《雪景》1919(大正8)年


[4]久米圭一郎《秋景下図》1895(明治28)年

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