17~18紀のスペイン美術
歴史における偶然と言うべきか皮肉と呼ぶべきか、偉大な才能の出現は時と場所を集中させる。17世紀スペイン絵画においては、さながらアンダルシア地方の港町セビーリャがその舞台にふさわしいだろう。没落の影忍び寄るスペイン、ハプスブルク家をいただく首都マドリードが国際政治都市としての権勢を誇示せんとしたのに対し、新大陸貿易の独占と、欧州の主要港からの毛織物や加工食品の水揚げにより、セビーリャは「大洋の女王」と讃えられていた。
都市の繁栄は文化の成熟へとつながる。マドリードが主に王侯貴族たちを後ろ盾にすれば、セビーリャは教会や修道院といった宗教勢力が芸術家たちを支えていた。このことは主題にも影響を及ぼし、前者が上流階級の宮殿を飾る肖像画や歴史画を求めれば、後者は対抗宗教改革の理念を色濃く反映した宗教画を描かせた。それらは決して難解な教義や複雑な象徴に彩られたものでなく、自然主義的描写を根ざし、市井の人々の信仰心をかきたてる描写を旨とするものであった。
フェリペ4世(在位1621-1665)の宮廷画家としての華麗な作品群が印象深いベラスケス(1599-1660)も、この港町で生を受けた。17世紀初頭よりヨーロッパを席巻した、カラヴァッジョ(1573-1610)の仮借なきリアリズムや強烈な明暗画法の波は同地にも届いていた。マドリードに上る以前のベラスケスの作品には、宗教画や風俗画に関わらず、対象への冷静な観察に裏付けられた実在性の光る描写がすでに顔を見せている。「繊細において第2位よりも粗野において第1位でありたい」と語った画家のうちには、宮廷画家となり頂点を極めた後もセビーリャでの修行時代の教訓が生き続けていたに違いない。
ベラスケスと一つ違いのスルバラン(1598-1664)は対照的に活躍の地をセビーリャに限定した。注文主との契約書の記述に忠実に従い、制限を逆に想像力の源としたこの画家は、やや生硬さ残る画風であったが、個々のモティーフの描写の迫真性は時に超越的な存在をも想起させ、敬虔な祈りの対象としてふさわしい図像を生み出した。1620年代に相次ぐ修道院の建設も後押しして、続く30年代にかけて新たな絵画の需要を一手に引き受けることとなる。
しかしながら、セビーリャにも黄昏の色が濃くなってくる。1588年のスペイン無敵艦隊の壊滅により制海権を失たことから始まった没落の道は、大西洋に面した港町カディスの台頭を許すことで新大陸貿易の独占も危うくする。さらに1649年からのペストの猛威により数万人が命を落とし、街には飢えや疫病、物貰いや悪漢が蔓延していた。疲弊しきった市民に1652年のアンダルシアの反乱が追い討ちをかけ、人々はもはや過酷な現実から目を背けようとしていた。
そのような時代のうちひしがれた心に、ムリーリョ(1618-1682)の描く優美な聖母やあどけない幼児キリスト像はひと時の慰めとなったに違いない。今では画家の代名詞ともなっている「無原罪のお宿り」は主題と様式が絶妙な調和を奏でた幸福な作例であり、現存する作品の数の多さが当時の人気の程を裏付けよう。セビーリャに脈々と流れる現実に根ざした描写の系譜は個々の事物の描写に留まらず、画中人物たちが見せる身振りや表情にもつながっていく。それは現実の親子の間に通う信頼感や、一人の人間として聖人達が抱いた苦悩であり歓喜の表れであった〔57〕。
黄金時代と讃えられる17世紀スペイン美術の輝かしき遺産の継承者は、18世紀半ばのゴヤ(1746-1828)の登場まで待たねばならない。着実に画家としての階段を登りカルロス4世(在位1788-1808)の宮廷画家の地位まで到達したゴヤは、決して早熟の天才画家ではなかったが、革命と動乱の時代の冷徹なまでの記録者であった。時の権力者たちの肖像を描くことを生業としながらも、豪華な衣装や厳しい勲章に隠されたものをも非情にも画家の絵筆は暴き出した〔58〕。不幸にも40代半ばで病により聴覚を失い純粋に「目の人」となってからは、鋭敏さを増す現実主義者としてのまなざしと、もはや抑制の効かぬ想像力は両輪となり、時代の狂気をあぶりだしていくのであった〔59-60〕。
(生田ゆき)