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序にかえて

毛利伊知郎

 本年は池田遙邨の生誕一一〇年という節目の年です。また、画家が没してから既に十七年という短くはない時が流れています。この時期に、改めて池田遙邨の画業を振り返る展覧会を開催することとなりました。倉敷市立美術館は、画家ゆかりの美術館として遙邨作品と関係資料の収集、調査研究を行っています。一方、三重県立美術館は遙邨と特に深い関係はありません。しかし、日本近代美術を主たる活動領域とし、遙邨初期の《颱風来》(no.9)と《冬の入海》(no.10)が志摩半島波切の大王崎を主題としていることなどから、この画家に対しては以前から関心を寄せており、本展を両美術館の共同企画として開催することになりました。

 各章扉解読と一部重複しますが、遙邨の画業展開について概略を確認しておきたいと思います。池田遙邨は一八九五(明治二十八)年に岡山県に生まれました。紡績の技手であった父が転勤するたびに、幼年期から青年期の遙邨は大阪、大牟田、上海、堺、福山、今治、姫路などを転住していましたが、十五歳頃から本格的に画を学び始めました。

 遙邨が画の道に進んだ明治時代末から大正時代初期に、美術界は大きな変革期にありました。西洋の新しい美術の表現と思想が次々に紹介されて、画家たちは自分自身という「個」を強く意識して、新しい表現を試みていました。この時期に遙邨が画家としての歩みを始めたことは、その後の画業を考える際に考慮すべきことと思われます。

 また、遙邨は最初洋画に進み、後に日本画に転向しましたが、福山在住時代に笠岡出身の日本画家小野竹喬と出会います。竹喬は後に京都の日本画界で革新的な運動に参画したことで知られていますが、竹喬との関係も軽視することはできません。

 時代が大正から昭和へ変わる頃、遙邨画に変化が現れます。この変化は遙邨自身の変化であると同時に、同時代の日本画の変化と軌を一にしていました。この変化を一口でいえば、日本東洋の古典絵画の研究に基づくものということができますが、その具体的な内容は十分に吟味する必要があります。遙邨の場合は、古代中世の大和絵研究、江戸時代の浮世絵師歌川広重への傾倒、日本美術院で活躍していた富田渓仙からの影響であったりしたわけですが、本展覧会では広重研究の実態が東海道五十三次を通して紹介されます。

 池田遙邨は旅の画家、美の旅人などと呼ばれますが、旅は遙邨画の大きな源泉でした。同時に、遙邨は自ら句作を行うなど、文学的素養もあわせ持っていました。そうした資質と青年期以来の研鑽が大きく開花するのは第二次大戦後のことでした。一九五〇年代から六○年代は、技法、表現、主題など様々な面で新しい日本画を目指した革新的な試みが行われた時期でした。この時期の遙邨画には、抽象表現への関心なども見て取ることができますが、ある時は詩情豊かに、ある時はユーモラスに、またある時は幻想的に、遙邨は心の内で熟成させたイメージを次々に画面に表していきます。

 晩年の《山頭火シリーズ》は、遙邨が到達した独自の境地を示す風景作品といわれます。しかし、その中に東海道徒歩旅行の際に描かれた写生が含まれていることが近時明らかにされ、同シリーズの成立について新たな視点が与えられました。遙邨は九十二歳という長寿でこの世を去りましたので、その画業は七十年以上の長期に及びます。その最後に画業の集大成ともいえる《山頭火シリーズ》が描かれたことは、強靭な創造力と長寿の成果というだけではなく、この画家の制作に対する姿勢を象徴しているように思われます。

 池田遙邨は生前の回顧展の他、没後も本格的な遺作展が幾度か開催されてきました。そうした展覧会は代表作をほぼ網羅して構成され、初期から晩年に至る画実の展開を辿り、遙邨が切り開いた日本画の新しい可能性や遙邨独自の風景画の意味について検証しようとするものでした。こうした回顧展と各種の画集などを通じて池田遙邨の評価は定まり、今日も多くのファンから愛され続けています。

 本籍地が現在の倉敷市であったことから、画家は一九八〇年に五百点近い自作を同市に寄贈し、これを母体として一九八三年に倉敷市立美術館が開館しています(開館時の名称は倉敷市立展示美術館)。過去に開催された遺作展は同美術館に収蔵された作品と調査研究とを基礎としており、それは本展覧会にも共通しているところです。

 本展の準備に際して、過去の遺作展との差別化をどのように図るかは関係者にとって大きな課題の一つでした。この課題に対する一つの解答が、最新の調査研究の成果を展覧会構成に取り込むことでした。具体的には、倉敷市立美術館が行ってきた調査によって発見された新出作品を紹介すること、同美術館・佐々木千恵学芸員が二〇〇四年度を中心に行った「池田遙邨の東海道五十三次」というテーマの調査研究で得られた新知見を展覧会構成に取り入れることでした。

 遙邨は広重の東海道五十三次に強く引かれて、《昭和東海道五十三次》(no.27)、《昭和六十余州名所》(no.28)など浮世絵風名所絵の連作を制作していますが、その実態を探ることは近代画家による浮世絵研究がどのようなものであったかを知る上で興味深いテーマです。

 遙邨による広重研究は浮世絵風名所絵制作にとどまらず、《山頭火シリーズ》に繋がっていることも明らかになりました。同シリーズに描かれる風景は、これまで画家の心象風景といわれてきました。遙邨が描いたのは特定の場所ではなく、画家のイマジネーションによってつくられたフィクションの風景だというわけです。たしかに、そうした風景も含まれていますが、実景写生に基づく作品も含まれているとのことです。遙邨の旅は、思索を深め、イマジネーションを豊かにし、同時に制作の素材となる写生を蓄えるという二つの意味を持っていたということです。

 旅、あるいは文学は、古今東西多くの画家たちに様々なインスピレーションを与えてきました。本展では、旅と文学とが芸術創造に果たした役割の具体的な一つの事例を、遙邨の画業を通してご覧いただくことができるのではないかと思います。

(三重県立美術館学芸員)

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