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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1993 > 横山操年譜 横山操展図録

横山操年譜

1920年(大正9)


1月25日新潟県西蒲原郡吉田町に生まれる。


1922年(大正11)


3月、同町の横山修平の養子となる。


**「横山操はみずから語るところによれば、新潟県のある町に地方名士である医者の妾腹の子として生まれ、父の本妻によって夫への抗議をこめて操と名づけられたという。生まれてまもなく、実母は東京へ嫁がされ、彼は横山家に養子に出されたらしい。」(針生一郎「横山撰の再起」)


1927年(昭和2)7歳


4月、吉田尋常高等小学校に入学、5年生のころに父から油絵具を買ってもらい、絵をえがきはじめる。



1930年頃 尋常高等小学校5年生当時(左側)

1934年(昭和9)14歳


3月、吉田尋常高等小学校高等科卒業。画家をめざして上京、一時は神田錦町の塗料店に住み込むが、のち銀座木挽町に住んでいた光風会会員の雅山石川藤助の内弟子となり、版下やポスター描きを手伝う。


1938年(昭和13)18歳


2月、第25回光風会展に『街裏』を出品、初入選する。


1939年(昭和14)19歳


石川雅山の勧めで日本画に転向し、川端画学校にはいる。新興美術院第2回展に『隅田河岸』が初入選。
10月、第9回新潟県展に『裏街の子供』が入選する。



1939年 川端画学校在学中

1940年(昭和15)20歳


9月、第12回青龍展に築地明石町河岸にあった佃の渡しをえがいたという『渡舟場』が初入選。
11月、養父横山修平が死去。
12月、新発田歩兵第16連隊に入隊、翌年の長沙作戦をふりだしに、終戦まで中国大陸各地を転戦。


*「青龍社に入選することが、アヴァンギャルドの一員になったような気がして嬉しかったものであった。このとき先生は、くちばしの黄色い僕をつかまえて「これが君と青龍社をつなぐ渡し舟になるといいね」と、いわれた。このときの感激が、そのまま僕と先生を結んだきずなになって、今日に至った。」(「人間修業」)


1945年(昭和20)25歳


7月、中国国境を超え満洲へむかう。
8月、終戦と同時にシベリア(カザフ共和国)カラガンダの収容所に抑留され、石炭採掘に従事する。横山は画家であることをあまり人に漏らさなかったようだが、それでもときおり絵筆をとった。


**「横山操の絵は20号ほどの大きさで、暗い灰色の空をバックに黒いボタ山が大きく画面を占め、右下方に白壁のはげた泥煉瓦の家が描かれていて、その前には黒い炭坑服を着た男と赤い頭巾をかぶった女が寄り添っている。(略)画面は水彩と違い、なんとなくざらざらしていたし、赤味がかった屋根の色がなんとも奇妙な感じだった。この赤の色はどうしたのかと聞いたら、煉瓦をくだいてつくったものだと言ったのが印象に残っている。」という記録がのこっている。(川堀耕平「カラガンダ第八分所の美術展-横山操幻の絵」)


1950年(昭和25)30歳


2月、高砂丸でナホトカから舞鶴へ帰国、吉田町にかえる。
4月、上京、文京区本駒込の石川雅山宅に寄宿し、その印刷工房をてつだいながら制作にはげむ。鶯谷の不二ネオンでデザインのアルバイト。
9月、第22回青龍展に『カラガンダの印象』を出品。これは日本画だが同名の油彩も描いた。


1951年(昭和26)31歳


4月、青龍展に『カザフスタンの女』を出品。
5月、杉田基子と結婚。この頃、青龍社研究会に入会する。
9月、第23回青龍展に『沼沿ひの町』を出品。この年、青龍社社子に推薦される。


1952年(昭和27)32歳


3月、長女彩子生まれる。
4月、春の青龍展に『千住風景』を出品。
9月、第24回青龍展に『燈台』を出品。「大部分の人は余り印象もなかったようであった。しかし私はその絵の中に小気味のよい筆の伸びと、うまい描写力と、一種の装飾感を受けとって、ほかの絵にない痛快さを感じた。」(河北倫明)


1953年(昭和28)33歳


4月、春の青龍展に『白壁の家』『横臥』を出品。『白壁の家』で春展賞を受賞。
9月、25周年記念青龍展に『ショーウィンド』『駅前広場』を出品。『ショーウィンド』で奨励賞を受賞。
この年から、大森の川端龍子のアトリエでひらかれていた青龍社の研究会に欠かさず出席した。


1954年(昭和29)34歳


3月、春の青龍展に『青春』『熱海月明』を出品。『青春』で春展賞受賞。
8月、第26回青龍展に『変電塔』『舞妓』を出品。『変電塔』で奨励賞受賞。社友に推挙される。青龍社研究会の幹事となる。この年から踏青会展(日本橋三越)に小品を発表。
この年、不二ネオン会社社長川瀬伊代治の好意で鶯谷の会社事務所二階をアトリエに借りる。


1955年(昭和30)35歳


1月、品川区大井庚塚のアパートに引越す。
3月、春の青龍展に『十文字』を出品。春展賞を受賞。
8月、第27回青龍展に『対話』を出品。奨励賞を受賞。「『対話』の横山操の目下の画業はただ押しの一手を信条とする。」(川端龍子、「青龍展目録」)


1956年(昭和31)36歳


1月、求龍堂の石原龍一の支援で、初個展を銀座松坂屋でひらき、『熔鉱炉』『網』『架線』『川』『木』を出品。とりわけ『熔鉱炉』『網』は超大作でみる人を圧倒した。



1956年 「熔鉱炉」

2月、世田谷区松原町3-938の貸家に移転。玉川電車の線路のすぐわきで、電車が通るたびに振動したが、一戸建で3部屋あって、はじめて自前のアトリエができた。
3月、春の青龍展に『ビルディング』を出品。春展賞を受賞。「『ビルディング』の横山操君は賞の方では常連となっているが、今春銀座の松坂屋の個展では、その堅実な描写力を世間からも確認されたことであり、この一作も君が今の処好んで駆使する黒の系統に属するものである。」(川端龍子、「青龍展目録」)
4月、青龍社の親睦をかねた京都への取材旅行のあと、単独で桜島をみにゆく。「春がすみに桜島がコバルト色に見える。島をバスで一周した。熔岩のウス気味悪さに人間の無力を感じて終いました。」(4月20日付横山基子宛書簡)
8月、第28回青龍展に『炎炎桜島』を出品。青龍賞を受賞。「『炎炎桜島』の作者横山操君はこの処連年の受賞者であり、その精進、そしてその制作の意気愈旺盛であり、今回の作に於いても桜島の火を吹くが如き形相を示しています。(略)その色調の黒の本位も亦共に変遷し行くものとも考えられる。但しこの黒色調を否定するものでは無いので、それを真向に推進するもまた憚からず、吾人はその推移を興味を以て期待するものである。」(「青龍展目録」)「これまで川端龍子一人といわれたこの会場芸術展に、有力新人横山撰がぐんぐん伸びてきたのは壮観で、『炎炎桜島』の力作には多少の難をけとばすだけの闘魂と情熱が見えよう。龍子の『渦潮』と比べて老巧さはおよばぬとしても、昇り坂の真面目さがよい。」(河北倫明「朝日新聞展評」)
12月、踏青会展に出品。


*「<現実を見つめる>美学や社会学で割り切れない複雑な現実の中で自分をしらうとする時、偉さうな事を言ひ乍ら、やはり電車に乗り、中華そばを食べてゐる一般の人と変わりない平凡な私だと思ってゐる。素朴に現実を見、素朴な人間の怒り、悲しみ、仕合せを制作したいと思ふ。」(「ぴ・い・ぷ・る」『藝術新潮』)


1957年(昭和32)37歳


1月、第8回選抜秀作美術展に『炎炎桜島』を出品。
3月、春の青龍展に『時化』『樹』を出品。『時化』で春展賞を受賞。
5月、第4回日本国際美術展をみるが、「感性がどこでどうなっているのか。わずかに成功をもたらしたフランスの部屋のマルシャン、ビュッフェ、スーラージュだけが何か少し共感を呼ぶ程度」だった。
6月、北海道を旅行、昭和新山や夕張炭鉱を訪れる。
7月、現代美術十年の傑作展に『川』を出品。上野谷中の天王寺の五重塔が焼失、その報をきいてたちまち現場にかけつける。
8月、第29回青龍展に『塔』『踏切』を出品。『塔』で奨励賞を受賞。「作者は前衛書道では無いということを瞭りと表白している。」(青龍展目録)「画家にはそれぞれ主調色というものがある。横山にあっては、黒であり、赤である。黒は、黒が物の形体を表現するための輪郭線でもなければ、マッスを表現するための面でもなく、そのいずれでもなければ、同時にその両者でもある〈写意〉の黒となったのは、『炎炎桜島』にその萌芽をみせながら『塔』においてであろう。」(「横山撰の二つのアトリエ」)
11月、今日の新人’57展に『樹』『網(部分)』を出品。
12月、踏青会展に出品。



1957年 「塔」

 *「私は今の自分を整然と図式で、社会の中で描いてみたい。/線も色彩も形も、みんな私自身のために躍動してくれる様な作品を作りたい。/ピチピチと希望があり、夢に燃えて、不正に抵抗し、健康で素直で、観者に強く大声で、しかもシンミリと、話出来るような作品、これがいま私の指向する絵画だ。」(4月15日手記)


1958年(昭和33)38歳


1月、第2回横山操展(銀座松坂屋)。第9回選抜秀作美術展に『塔』を出品。
3月、春の青龍展に四日市に取材した『港』を出品。春展賞受賞。
5月、第3回現代日本美術展に『犬吠』を出品。この展覧会について「今の抽象、半具象の作家達は整い過ぎているが、私達には縁遠く親しめない。それは知性がある、理論的だ、一分のすきもないとかほめられているが、スマートで私の階級ではない。」(5月6日手記)


1958年 「闇迫る」

6月、上高地をとおって佐久間ダムヘ取材旅行。
9月、第30回青龍展に『ダム』を出品。青龍社の社人に推挙される。この頃から金銀の箔を使用しはじめて、黒ばかりが目立った作風が変化する。
11月、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展に『塔』を出品。
この年、はじめて絵が売れた。三柳堂画廊でひらかれた野生会第1回展に出品した『野の夕』であった。「あの絵を出すと突然画商が来はじめました。」という横山のことばどおり、次第に売れっ子になってゆく。


1959年(昭和34)39歳


1月、青々会展(日本橋三越)に『雪峡』を出品。第10回選抜秀作美術展に『ダム』を出品。
3月、石本正、加山又造と三人による轟会の第1回展(銀座村越画廊)。
「会の名前は、三人の車が並んで、ゴーゴーと響きながら進。GO!GO!のゴーサインで、これが良いと横山さんが決めた。」(村越伸) 春の青龍展に『網』を出品。この頃から双樹洞画廊の九月会、一哉堂の翌桧会、孔雀画廊の百合会、東洋美術館画廊の地上会など横山を中心にしたグループ展が発足。
5月、第5回日本国際美術展に『峡』を出品、優秀賞を受賞。
6月、「みづゑ賞選抜あたらしい水彩十五人展」に『網』で準賞を受賞。
9月、第31回青龍展に妙義山をえがいた『岳』を出品。



1959年 「岳」

*「日本画でも洋画でも、どいつもこいつも芸術を崇高なものとして、高く売ろうと思うのかどうか知らないが、崇高なものにしているから、おかしくてしょうがないです。芸術は崇高なものではなくて、いま生きている実体のようなもので、生きている証拠のようなものです。それを日本の伝統とか絵画の伝統とかにすりかえて、もう日本画も含めて、生きている証拠のようなことをしないですね。それをみなスタイルにしているのだ。」「やはりまともに生きている、満員電車に乗って生きているというか、ほんとうに生きているというものでなくて駄目なんじゃありませんか。」(「日本画の問題点をめぐって」)


**「横山は、終始、大作にとりくむ作家だ。『熔鉱炉』『網』『炎炎桜島』『昭和新山』『夕張炭鉱』『塔』それに今度の優秀賞受賞作『峡』といった快作は、戦後の日本画にとって記念すべき重要な作品群だ。」(「人物点描」、『美術手帖』)


1960年(昭和35)40歳


1月、第11回選抜秀作美術展に『建設』を出品。
2月、「日本画の新世代展」に『熔鉱炉』ほかを出品。
3月、春の青龍展に『送電源』を出品。
4月、横山操新作個展(兼素洞)。
5月、第4回現代日本美術展に『波濤』を出品。
6月、現代美術の焦点シリーズ第1回展(日本橋白木屋)に『富士』など8点を出品。これ以後精力的に富士をえがきはじめる。
8月、第32回青龍展に黒部ダムを素材にした『建設』を出品。
12月、「畑と林が交錯し、晴れた日にはかれの新居の周辺、どこからも富士が見えた。天文台があった。木橋のかかる小川もあった。台地はきれてはつづき、林には靄がこめ、枯葉がつもり、畑道には霜がたった」、そんなかつての武蔵野の面影がまだ残る三鷹市大沢羽沢町989にはじめてアトリエのついた自宅をもつ。引っ越した後、『架線』『木』をはじめ過去の作品で不要とおもったものすべて、デッサン、スケッチとともに焼却。「膠が強くてなかなか燃えず、真っ黒い煙がもうもうと出てちょっと凄かった」と加山又造に、そして「これからまた、新しい勉強だ」と妻基子にかたって、再出発に決意をかためた。



1960年 「波濤」


1960年 「窓」

*「僕は何時も武蔵野の林の向こうを飛立っていく一群の鳥達を見て思う事は、何度も何度も飛び、止り、ねじ曲げられて行く過程の中に現代のリアリティが発見されるのではないかと思うのだが、曲げられても、曲げられても、反撥し、持続して行くエネルギーにこそ、武蔵野に生活する肉体の価値があるようだ。」(「武蔵野の肉体」)


*「今の日本の若い絵描きで富士山を描こうなんてヤツはいないですね。だから僕はいままで誰も描いたことのないような、すごい富士山を描こうと思う。」(三木多聞、「横山操小論」)


**「横山さんが直線を好むことは一般に知られているとおりですが、柔らかい曲線は彼の激しい感情を表現するのに不向きなようです。」「こうした日本画の「塗る」という一般的な風潮の中で東洋画が本来もっている「描く」立場を敢然と固持しているところに、横山さんの態度がよく示されています。」(三木多聞「横山操小論」)
**「この頃は、いわゆる、非具象的、抽象絵画の全盛の時代で、油絵は勿論、墨象と称して書までも抽象作品が氾濫した。そして日本画にも、その影響は色々のかたちであらわれていた。(略)私達日本画を学ぶものは、日夜、「日本画とは何か」「日本の伝統とは」「日本文化とは」と自問し、その問題を自己の内部で解決すべく必死になっていた。」(加山又造「横山さんの絵によせて」)


1961年(昭和36)41歳


3月、春の青龍展に新しいアトリエで描いたはじめての大作『船渠』を出品。第2回轟会展に『富士雷鳴』『早春』『夕原』『燈台』を出品。
4月末から1カ月ほど、アメリカに旅行。
5月、第6回日本国際美術展に『黒い工場』を出品。
8月、第33回青龍展に『グランド・キャニオン』を出品。
12月、福王寺法林と二人展(兼素洞)に『ニューヨークシティー』などを出品。



1961年 「滝」

1961年 「黒い工場」

1961年 グランドキャニオンにて

1962年(昭和37)42歳


1月、第13回選抜秀作美術展に『富士雷鳴』を出品。
3月、春の青龍展に『金門橋』を出品。第3回轟会展に『ウォール街』などを出品。
5月、第5回現代日本美術展に『ウォール街』を出品。
6月、北海道の十勝岳が噴火、取材にかけつける。
8月、第34回青龍展に出品予定の大作『十勝岳』がおおきすぎるという理由で縮小しての出品をもとめられ、これを契機に青龍会を脱退した。この後、新しい出発を期して三鷹移転のときとおなじように大量の作品を処分したという。
*(線について)
横山 伺われると言えないんだよね。だから絵を描いているんだ。線なら線といいますと、何か痛快さというものではないかと思う。
藤森 横山君には白隠の痛快さがないということですね。
横山 ぼくにはないかもしらん。だけど出そうとしている。
(「現代日本画の諸問題)」


*「『十勝岳』とかグランドキャニオンとか、壮絶さの陰に孤絶を秘めたモチーフを、私がなぜ好んで選ぶのか、これは自分でもわからない。ある画商が「一番そこの壮絶感が売れるんですよ」と真顔で言ったが、いまだに理解にくるしむのだ。イヤくるしんでいないのかもしれない。」(「悪人たらんとし」)



1962年 三鷹のアトリエにて

1963年(昭和38)43歳


1月、第14回選抜秀作美術展に『富士雷鳴』を出品。
2月、「越後風景展」(東京画廊)をひらく。「この個展で注目したいことは、横山さんが、晩年主張して止まなかった水墨画の大作をはじめて試みていることである。それまで、横山さんの使用していた墨は、主に絵具で、それも、アイボリーブラック、岩黒、紫黒、焼朱等であった。」(加山又造「横山さんの絵によせて」)
3月、第4回轟会展にl『紅白梅』『早春』を出品。
5月、第7回日本国際美術展に『雪峡』を出品。
6月、横山操屏風絵展(銀座松屋)に『赤富士』『紅梅』『白梅』などの屏風と『瀟湘八景』『赤富士』『青富士』などを出品。「新作13点。技術の面では文句はいくらでもつけられる。まだまだ若い画家なのだ。が、屏風絵、瀟湘八景に本気で取り組むそのロマンチシズムの前では、悪口も小声になる。マグロもろくに食えないわれわれは、瀟湘の夜雨などにあったらいともかんたんにカゼをひいてしまう。」(船戸洪吉、「毎日新聞展評」)



1963年 「海」

7月、横山操小品展(村越画廊)に『水田』などを出品。
この年、青梅市に別荘をたてる。日本画の将来に危機をいだいていた横山がここに画塾をつくり、後進の指導をする計画のためでもあったが、実際はほとんど使用されなかった。


*「私は塾をつくりたい。五浦の美術院では、大観も観山も春草も、広い部屋に並んで制作に励んだ。どんなに刺激しあったことだろう。東京に、と思っていたが、そうだ、ここでもいい。アトリエをぶっこわしてもっと大きな合宿所をつくるんだ。ほんとうの日本画をみせてやるんだ。」
(「横山操の二つのアトリエ」)



1963年 リッカービル壁画制作風景

1964年(昭和39)44歳


1月、第15回選抜秀作美術展に『海』を出品。
4月、第5回轟会展に『湧雲富士』『晴立富岳』を出品。
5月、第5回現代日本美術展に『高速四号線』を出品。
9月、アメリカ、ヨーロッパ旅行に出発。イタリアのシエナで心臓発作をおこし帰国する。
11月、第3回荒土会展に『ベニス』などを出品。


*「僕は、現代の若手の作家・・・僕らも含めるかもしれないけれども、絵を描いてないと思いますね。あんまり仕事をやってないと思うんです。今は考えてる時間の方が長くて、描いている時間というのは少ないんじゃないかというように思いますね。だから現代というのは非常に短兵急な時代じゃないかと思うんです。」(「日本画はどうあるべきか」)



1964年 イタリアにて

1964年 「高速四号線」制作中

1965年(昭和40)45歳


3月、第6回轟会展に『パリ郊外』『黎明パリ』『旅愁』を出品。
7月、横山操・加藤東一・麻田鷹司三人展(一哉堂画廊)に『黎明』『凱旋門』『晴るる日』を出品。
9月、多摩美術大学日本画科で加山又造とともに実技指導にあたる。
11月、第4回荒土会展に『イタリアの丘』『祇王寺の秋』を出品。


*「われわれはもっと分かりやすい、日本語で描画しなければならぬ。個人の判字文めいた気安さの中に安住をゆるしてはならない。描くという絵画本来の姿から遠ざかってゆく限り、やっつけ仕事のうさばらしにはなり得ても、人の魂の中に食い入ることはできないだろう。人の存在の論理よりも、人の存在そのものをわかりやすく語りかける絵画こそが必要なのだ。」(「私のシゴキ教室」)


1966年(昭和41)46歳


3月、第7回轟会展に『水の都』『朱富士』を出品。
4月、多摩美術大学日本画科教授になる。同僚の加山又造によると、「“大学で画描きができるわけがない”といやがっていた。“あんたがそうまで言うならちょっと行ってみようか”と就任した。横山さんにしては珍しく乗る気ではなかった。“やめたい時にやめるよ”と言っていたが、いったん学校に出ると、えらいいい先生になった。」
5月、前月の川端龍子死去にともなって青龍社はこの月で解散。第7回現代日本美術展に『万里の長城』を出品。横山操・加藤東一・麻田鷹司三人展に『海上富士』『武蔵野』を出品。
6月、訪中使節団の一員として中国を訪問。香港から、かつて兵卒として転戦した長沙を通過し、武漢、九江、上海、北京へ。万里の長城などの写生をこころみる。
8月、中国の旅草描展(村越画廊)に『天壇』などを出品。
11月、第5回荒土会展に『天壇』『塔のある風景』を出品。加山又造・横山操二人展(日本橋高島屋)に『茜山水』『紅白梅』などを出品。「日展に多く見られるような、杉山寧を筆頭とする厚塗りのやり方に対してこの二人の画家は意識的に反対の立場にあるようだ。たしかに、吸湿性の、白っぽい胡粉によって支配された日展の会場は、歩いているうちに、しだいにわたしの視野を濁らせ、不透明にしてしまった。東京の空のようなその白内障は、二人展のほうでは治癒される。」(生野幸吉「横山操と加山又造の競作」)
この年一月から3年間「中央公論」の表紙絵をえがく。



1966年 「茜山水」

1967年(昭和42)47歳


3月、加山又造・石本正とともに現代日本画鬼才三人展(神戸そごう)に『瀟湘八景』『岩峰』を出品。
5月、一哉堂十周年記念展に『清雪』を出品。
10月、横山操展(名古屋松坂屋)に『茜』などを出品。


1968年(昭和43)48歳


4月、越路十景展(彩壺堂画廊)。
5月、第8回現代日本美術展に『TOKYO』を出品。
6月、第1回球琳会展(日本橋高島屋)に『遠富士』を出品。モスクワ、レニングラード巡回の近代日本画名作展に『送電源』を出品。
9月、横山操・加藤東一・麻田鷹司三人展に『奥入瀬の秋』を出品。
11月、第6回荒土会展に『風渡る』を出品。


*「この頃、私と横山さんは、よく水墨画について議論した。彼は「水墨画は日本の心であり、帰結点である。」と主張し、自己の水墨画を造り、完成したいとうったえていた。」(加山又造「横山さんの絵によせて」)



1968年 多摩美術大学にて

1969年(昭和44)49歳


5月、第9回日本現代美術展に『暁富士』を出品。
6月、第2回球琳会展に『黎明富士』を出品。
11月、轟会十回記念展に『富士八景』などを出品。
この年、第1回潮音会展(フジヰ画廊)に『暁富士』を出品。


*「自身が画紙の上の十字架に乗ることだ。十字架上での説明はいらない。説明は説明を呼び対象の輪郭すら定かにならないからだ。画面上では絵具と筆は私の五体である。だが人間の運命などは語ってはくれない。だからといって画家の行動や作画前の態度といったものの中に逃避したくはない。他人に対抗し、自分自身にも反抗し、あわゆる材料をひっさげた孤独な旅人、-そんな心が絵を描かせる。」(「直観が私に絵を描かせる」)


1970年(昭和45)50歳


6月、第3回球琳会展に『むさし野』を出品。
7月、第2回潮音会展に『黎明富士』を出品。
この年、青梅市畑中の別荘に画室を新築。


*「われわれは、ともすると、世界画壇の情報化の火中に身を焦がされていないか。二次元の平面から飛びだして、オブジェ化され、機械を導入し、抗議と希望の教条を唯一の手段にとり変えてしまった洋風意識を、今一度、日本画の二次元に、とりかえすことを忘れていないか。(略)日本画と洋画同一論ではなく、画然と違っていることの根元を探るべきだ。」(「独断する水墨」)


*「日本人というのは、模倣しながら上澄みだけ器用に吸って、だんだん太ってきたというようなところがある。そういう要素が、ある意味では日本人の英知というのですかね。そうであるとしたら、どしどし模倣して肥えて、そのなかからほんとうに実にならない、てめえの肌に合わないものは捨てるほどの英知を持って、純粋になればいい。そういうものが日本画の中にあるのではないかという気がする」(「画家との対話」)


1971年(昭和46)51歳


4月、脳卒中で倒れ、一週聞の意識不明後、右半身不随となる。
8月、伊豆のリハビリテーション・センターに入院。
11月、退院。左手で描く訓練をはじめる。第8回荒土会展に『暮雪』を出品。


1972年(昭和47)52歳


2月、戦後日本美術の展開・具象表現の変貌展に『塔』を出品。
11月、第13回轟会展に『静かなる風景』『月』『むさし野』を出品。第3回芳樹会展(一哉堂)に『むさし野』を出品。新聞美術雑誌などで奇跡的な再起と報じられる。
この年、翌年度12カ月分の「新潮」表紙絵をえがく。


**「かつての雄勁闊達な筆致、非情な力感にあふれた構図はみられないが、それにかわって一筆一筆自分をたしかめ、微妙な色調やにじみの関係をさぐっているような姿勢がある。ずいぶんおだやかになり、内面に沈潜しようとしているな、という思いと同時に、いや、以前からこの作家のがむしゃらな反骨と情熱とみえるものの底には、神経質すぎるくらいデリケートな心情と、職人的ともいうべき技術への自負があった、という思いがわたしにうかんだ。」(針生一郎「横山操の再起」)


1973年(昭和48)53歳


2月、第9回荒土会展に『茜』『峡』を出品。
3月、制作中にふたたび脳卒中で倒れ入院する。
4月1日逝去。


*「会いたかった」「こんな姿で加山さんに会いたくなかった」「口惜しいよ」「日本画の将来はどうなるんだ」「碌な画かきはいない」「明日もあさってもあんたに会いたい」「あんたは元気でよかった」「体を本当に大事にして気をつけよ」「僕は地獄だ」「あんたはきびしかった」「あとを頼む」と次から次に酸素吸入用の大きなプラスティックの袋の中で、大きな呼吸の合い間に怒鳴るように言った。」(加山又造「賢兄横山操逝く」)


**「横山君とぼくとは、日本画に対する考えがまるで違っていた。横山君は水墨画こそ日本画だと信じていた。そして自分がやらなければ、この水墨画の伝統は途絶えてしまうとさえ考えていたようだ。そうした張りつめた危機感が、横山君を支えていたのだと思う。病で右手が麻痺して動かなくなってからも、あえて不自由な左手で絵を描き続けたのは、この危機感があってのことだろう。すさまじいまでの生き方だ。」(石本正「画家のことば」)


(注)この年譜は主として、『横山操遺作展』(朝日新聞社、1977年)・『画集横山操』(集英社、1977年)・『横山操展』(新潟県美術博物館他、1986年)・『横山操』(児島薫、学研、1991年)・『横山操』(村瀬雅夫、芸術新聞社、1992年)所収の年譜を参照して制作した。個別事項のほかに、横山操のその年の動向を、(*)横山操自身と、(**)それ以外の人による記事によって補った。


1971年 深大寺にて、平山郁夫(左)、加山又造(中)


1971年 左手での制作

東俊郎(三重県立美術館主任学芸員)編

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