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瀟湘八景と越路十景

毛利伊知郎

 横山操が、1963年(昭和38)に開催した越後風景展と横山操屏風絵展という二つの個展で、本格的な水墨表現による大作を発表して新境地を示したことはよく知られている。5年後の1968年(昭和43)、横山は越路十景展を開催して、「瀟湘八景」をさらに展開させた作品ともいえる「越路十景」の連作を発表した。

 この「瀟湘八景」と「越路十景」とは、横山の20余年にわたる画業後半期に制作された作品中最も傑出した内容を持ち、しかも横山の画風展開をたどる上で大きな意義のある作品ということができるだけでなく、戦後の日本画における伝統と現代性とのかかわりの問題を考える上でも重要な作品と思われる。そこで、本稿ではこれら2作品を主たる対象として、横山操後半期の画業の特質を考えてみたい。

 もともと、横山の作品は1950年代前半の最初期に描かれた一部の作品を除くと、色彩豊かな作品というのは非常に少ない。1956年(昭和31)の第1回個展出品作「川」「網」、同年の青龍展出品作「炎炎桜島」、あるいは翌年の「塔」など初期の代表作を見ても、色彩は部分的な使用に制限され、画面の大部分は煤や石炭を黒絵具と混合してできた黒色で占められている。

 それには、貧しさの故に大画面に足りる絵具を充分に購入できなかったという事情もあっただろうが、舞妓や富士、あるいは都会風景を主題とした後年の着色作品でも、色数は決して多いとはいえない。むしろ、横山の本領は、色彩以外の要素、たとえば筆勢、画肌、画面構成といったところに発揮されたということができよう。そういう意味で、アメリカ旅行や青龍社脱退という外的要因もあったのだろうが、横山の水墨画志向は、初期作品との関連、横山の画家としての特質から見ても、むしろ自然な展開であったと思われるのである。


越後風景展

 年譜によれば、横山操が本格的な水墨作品を発表したのは、1963年(昭和38)2月に東京画廊で開催した個展「越後風景展」においてであった。これより半年前、横山は出品予定であった「十勝岳」の大きさ縮小問題が直接原因となり、青龍社を脱退している。以前にも幾度か個展を開催していた横山であったが、彼は越後風景展をあえて第1回個展と呼んだという。

 このエピソードは、青龍社脱退以後の横山が、この個展にかけた意気込みを窺わせて興味深いが、この時には「茜」などの着色作品に加えて、「海」「雪国」「雪しまく」「雪原」などの水墨による大作数点が出品された。その中には、所在不明となってしまった作品もあり、現在では出品された水墨作品全てを確認することはできないけれども、現存する数点の作品のみからでも横山の水墨表現に対する姿勢を窺うことはできよう。

 それらの水墨作品を見ていて先ず気づくことは、一口に水墨作品といっても、技法や表現は作品によってさまざまな変化を見せ、それによって異なった効果の作品が生み出されていることである。

 たとえば、「海」は二曲一隻という正方形に近い画面を採用して、いわゆる「たらし込み」の技法が多用されて、暗い冬空の下、激しく波しぶきをたてる日本海の荒涼とした情景が描き出されている。

 周知のように、たらし込みは16世紀に活躍した俵屋宗達が創案したことにさかのぼり、以後宗達光琳派の画師たちを中心に盛んに用いられた。本来たらし込みは、水墨表現に限定される技法ではない。宗達光琳派にあっては装飾的な効果を狙って使用される場合が多いけれども、立体感の表現などにも効果的であり、多くの可能性を持った描法であった。そのため、この技法に関心を寄せた他流派の画師も少なくなく、江戸時代半ば頃には円山派や南画家らの作品にもたらし込みが用いられることがあった。

 明治以降もたらし込みは伝統的な描法の一つとして、日本画家たちによって受け継がれて行くことになるが、横山のたらし込みは、そうした伝統的な使用法とはかなり異なった様相を見せている。「海」において、横山は具象的な形態として描写すれば観念的な表現に陥らざるを得ない波濤の表現に、にじみという偶然に依存することの多いたらし込みを多く使用して、抽象的な形態を持つ対象を現実感豊かに描き出すことに成功した。既に指摘されているように、たらし込みによる撥墨技法ということができようか。

 また、「雪国」も、「海」と同様にたらし込みを主体とした作品、であるが、波濤の表現に見られる「海」の運動感に富む表現とは対照的に、この作品では辺り一面雪におおわれた雪深い集落の静かな雰囲気を詩情豊かに表出することに成功した。

 これら2作品のみから判断するのは危険であるが、横山操の墨による仕事には、日本画という伝統を意識せざるを得ない分野にありながら、その伝統を逆手にとって、それまでだれも行わなかった表現を確立するという、伝統の流れに棹さしながら、その流れを変えてしまうところがあるように思われる。

 ところが、「雪しまく」で横山は、伝統的な水墨表現からは生まれてこない表現を見せることになる。この作品では、激しい風にあおられた吹雪の状態の山中が表現されている。雪の描写には金属箔が用いられて、墨はもっぱら樹木や山岳の描写に使われているが、この作品における墨の質感は、伝統的な水墨というよりは、むしろ水分の少ない硬質な顔料のような印象を与える。こうした墨の表現は、越後風景展と同じ年に開催された第7回日本国際美術展への出品作「雪峡」にも見い出されるが、この表現がそれ以上展開されることはなかったようだ。

 越後風景展出品作中最大の作品「雪原」では、横山の故郷蒲原平野の冬景色が描き出されている。この風景は、後年の「越路十景」中の「蒲原落雁」へと展開することになるが、この「雪原」は暗い冬空と地面の描写にたらし込みを多用しながらも、濃墨と淡墨とを交えた硬質な描法による無数の稲架木(はざき)が主要モチーフとなって、横長の画面を活かした左右への広がりと、奥行への志向とを持った風景画で、筆法を活かした水墨作品ということができよう。

 このように現存する越後風景展出品作を点検してみると、横山がさまざまに水墨表現を試み、水墨が持つ可能性を探っていたことを知ることができる。こうした横山の水墨表現が成熟した形で示されたのが、越後風景展から4か月後に銀座松屋で開かれた横山操屏風絵展出品作「瀟湘八景」 であった。


瀟湘八景

 「瀟湘八景」が発表された横山操屏風絵展では、水墨による「瀟湘八景」に加えて、「赤富士」「青富士」「紅梅」「白梅」「TOKYO」など屏風仕立ての作品4点も出品された。いうまでもなく「瀟湘八景」は、中国北宋末(11世紀終わり頃)から、多くの画家たちによって描き継がれてきた長い歴史を持つ画題である。わが国でも鎌倉時代末頃に制作されるようになり、室町から江戸時代を通じて、狩野派や南画家たちによって多くの瀟湘八景が描かれた。

 明治以降も橋本雅邦、横山大観、寺崎広業らによる瀟湘八景はよく知られているが、特に横山操が私淑した画家でもある横山大観は、生涯に3度瀟湘八景と取り組み、伝統的な図様にとらわれない斬新な図様を採用し、それまでの水墨中心に対して着色による瀟湘八景を描くなど、わが国における瀟湘八景図の伝統に新たな世界を開いた。

 横山大観の瀟湘八景から、およそ半世紀を経た横山操は、どのようにこの画題と取り組んだのだろうか。既に指摘されているように、画題あるいは水墨技法において、横山操の意識下に大観がいたことはまちがいない。しかし、作品を見る限り横山操の瀟湘八景には先行作品との関連性は全く認められない。

 先に横山が開催した越後風景展への出品作で、画家が作品によって水墨技法を使い分けていたことは既に述べた。今回、横山は連作を要求する瀟湘八景の中で、水墨表現の様々な可能性を改めて追求しているのである。横山には、むしろ既成の瀟湘八景に対する挑戦の意識が強くあったのだろう。

 瀟湘八景という画題は、元々は中国の洞庭湖周辺の景観や気象条件から生み出されたといわれる。しかし、時の経過と日本への伝播によって、この画題にとって実景性はさして重要な条件ではなくなった。江戸時代の狩野派や南画家たちは、中国伝来の画譜などを参照して画面を構成したが、その表現は画家の個性によるところが大きかった。八景に盛り込まれた江南地方の季節と時刻による自然の変化を−それは高湿度の大気と降雨をキーワードの一つとする点で日本人はたやすく追体験できたのだが−画家が想像力を働かせていかに絵画化できるかに、この画題の鍵があった。

 したがって、この頃から水墨表現の現代的な可能性を追求しようとしていた横山にとって、この画題はまたとないものだったのかもしれない。「平沙落雁」「遠浦帰帆」「山市晴嵐」「江天暮雪」「洞庭秋月」「瀟湘夜雨」「烟寺晩鐘」「漁村夕照」という8図はそれぞれ表現と技法を異にし、しかもよく吟味された図様と表現との調和によって、高い効果が生み出されている。

 しかも、この瀟湘八景8図は、かつて横山が描いたような横幅10メートルにも及ぶような大画面作品ではないけれども、8図が一堂に展示されることによって、過去の大画面作品に匹敵する、声高ではないけれども力のこもった響きで私たちに訴えかけるのである。

 8図はそれぞれに異なる水墨技法を示しているが、その中心になっているのは、一つは越後風景展出品作でも多用されたたらし込みの技法である。たらし込みは、伝統的な水墨技法に横山が着目して横山流に甦らせた描法の一つであるが、この瀟湘八景では、そうした伝統的技法にはないペインティング・ナイフの使用や、濃い膠の使用による光沢ある墨色など独創的な画法も用いられているのである。

 この瀟湘八景に盛り込まれた八場面は、それをいかに描き分けるかが画家の腕の見せどころでもあるわけだが、こうした描き分けがさらに推し進められたのが、瀟湘八景の5年後に描かれることとなる「越路十景」である。


越路十景

 横山操が取り組んだ瀟湘八景の画題は、わが国の絵画の主題にも大きな影響を及ぼした。前にも触れたように瀟湘八景という画題は、本来は特定の場所を描くことが眼目ではなかった。しかし、わが国では八景選定が特定の地域で行われるようになり、たとえば「近江八景」「金沢八景」「松島八景」、さらには景数がふやされて「冨嶽三十六景」「名所江戸百景」など実景と結びついた多くの名所選定が行われるようになった。

 こうした日本絵画史における名所絵を視野に入れると、1968年(昭和43)に発表された横山の「越路十景」は、いわば名所絵の伝統につながる作品ということもできるのだが、その成立に当たってこの作品は画題の点はもちろん表現の点でも先の「瀟湘八景」の存在を抜きに生まれることはなかった。

 越路とは北陸道の古称であるというが、画家の故郷でもある越後地方に題材を得た八景(佐渡秋月、蒲原落雁、間瀬夕照、弥彦晴嵐、出雲崎晩鐘、上越暮雪、能生帰帆、親不知夜雨)に、越前雨晴と立山黎明の二景を付け加えて構成されている。八景に盛り込まれた時刻、気象などの設定(秋月、落雁、夕照、晴嵐、晩鐘、暮雪、帰帆、夜雨)は瀟湘八景のそれと同じであるが、越前雨晴と立山黎明は横山による案出であろう。

 それでは、表現や技法の点で「越路十景」と「瀟湘八景」の間にはどのような相違が見い出せるだろうか。両者の間で、比較的似通った技法と表現を示しているのは、「佐渡秋月」と「洞庭秋月」である。この2図は、外隅で描かれた秋月と膠分の強い濃墨による樹叢の描写はもとより、画面構成もほとんど同じである。また、「親不知夜雨」と「瀟湘夜雨」も、濃墨による運動感を伴った降りそそぐ雨の描写はほとんど同じといえる。

 しかし、八景中でも「秋月」と「夜雨」を除いた他の六景は、部分的な共通項を見いだすことはできても、全体の印象はかなり異なっている。図様の点でも、「瀟湘八景」の各図は、どちらかといえば横山の胸中の山水を絵画化した観念的な図様であったのに対し、「越路十景」は、実景が強く意識された風景画になっており、そのために用意されたスケッチもいくつか残されている。

 また、「瀟湘八景」では、墨や膠以外の画材としては、江天暮雪に胡粉が使用されただけであったが、「越路十景」では越前雨晴と立山黎明、間瀬夕照、弥彦晴嵐、出雲崎晩鐘、能生帰帆に金泥が使用されて、この連作に大きな役割を果たすこととなった。

 金泥の使用法も、間瀬夕照、弥彦晴嵐、出雲崎晩鐘、能生帰帆の4図では、画面全体をおおうように金泥が掃かれて、大気を表現することになる。また、立山黎明では、画面中程の立山連峰の麓辺りにおかれた金泥が、朝靄を表しているともとれるが、同時に近景から遠景への視線の移動をスムーズにして画面に調和を与えている。さらに、越前雨晴において、海と空との境目の金泥は、雨雲の切れ間からさす日の光となるなど、「越路十景」における金泥の使用法では、水墨同様、様々な変化が追求されているのである。

 前にも述べたように、横山操は、絵具の美しさで見る人を魅了するタイプの色彩画家ではない。初期の作品群も大部分がモノクロームを主体とした画面であるし、後に描かれた着色画においても、その色数はかなり抑制されているといってよいだろう。「赤富士」連作のように、鮮烈な色彩の作品も描かれたが、そのような作品においても、色彩よりは画肌の質感と筆勢とがより重要な要素であると思われる。

 しかし、それゆえにかえって色彩に対する鋭敏な感覚を横山の作品に認めることができる。また、いわゆる絵具ではないけれども、横山は金・銀・プラチナなどの金属箔を色彩の一つとして使用することには初期の頃から非常に巧みであったといえる。

 「越路十景」も、基本的には水墨技法による連作なのだが、10図中6図に金泥を用い、さらに間瀬夕照では、沈み行く夕日の描写に朱を入れるなど、水墨のみにこだわらない柔軟な態度で描くことによって、現実感を強く出そうとしているのである。

 わが国における水墨画の歴史を見ても、金泥や胡粉は水墨表現の効果を高める画材として、古くから多くの画家たちによって取り入れられてきた。いわば水墨同様、使い古されてきた画材である。そうした画材に挑戦し、新たな表現を追求すること、そこに画家としての横山の真骨頂があるのだろう。

 1950年代後半の青龍展や個展出品作で、日本画が持つ伝統的な要素をことごとく破壊したような攻撃的な作品を数多く発表した横山であったが、本稿で検討したように、青龍社脱退以後の水墨作品に見られる伝統技法への正面からの挑戦は「瀟湘八景」と「越路十景」において、最も豊かな果実を生んだのであった。


(三重県立美術館学芸課長)

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