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滞欧期の山口薫

原舞子

 1930年9月、23歳の山口薫は靖国丸に乗り横浜港を出発した。足掛け3年にわたる日々を過ごしたパリで、山口薫はいかなるものを吸収したのか。そして彼の地での経験は、その後の山口真にどのような影響を与えたのか。滞欧前後の足跡をたどりながら、振り返ることとしたい。

美術学校入学、萌芽

 1925(大正14〉年に東京美術学校西洋画科に入学した山口薫は、一年の石膏デッサンを長原孝太郎に、二年の人体デッサンを小林萬吾に、三年、四年、五年の油絵は和田英作に学んだ。在学中に帝展に二度入選、一九三○年協会展、図画会展にそれぞれ入選などすでにその才能を開花させ、また二年進級時には特待生となり、一年間授業料を免除されている。しかし、「卒業の時は尻から三番でした。つまり三年頃からおいおい怠けることを覚えたわけです。それを教えたのは、今もモダンアートでいっしょにやっているY君ですが、とにかく私より出来て尻から五番でした」(註1)とのちに山口自身が語っている。


 「Y君」こと矢橋六郎(1905−1988)と、山口薫、そして村井正誠(1905−1999)は、1924(大正13〉年に美術学校入学のための予備校としての役目を果たしていた川端画学校で出会った。このとき、矢橋と村井は19歳、山口は17歳であった。翌年、矢橋と山口は東京美術学校西洋画科に、村井は文化学院大学部美術科に入学し、研鑽を積むこととなる。それぞれ学校を卒業後パリへ渡り、彼らは同じ時期をパリやその周辺で過ごした。三人は勉強仲間であり、遊び仲間であり、青春時代を共に過ごしたかけがえのない仲間であり続けた。帰国後は新時代洋画展、自由美術家協会、モダンアート協会での活動を中心に、生涯を通じて深く関わり合うことになる。


 先にも述べた通り、二年進級時には特待生に選ばれている山口薫であるが、学校のほかに小林萬吾の同舟社、月1回の批評会の春秋会、また川島理一郎主宰の金曜会といった勉強の場に参加するようになって、しだいに絵を描くことの難しさに突き当たっていったようである。とくに三年時に、前年パリより帰均した川島理一郎の主宰する作品批評の場「金曜会」に参加するようになり、「絵はむずかしいものだったということが、初めて、わかって来て、苦しみだし」(註2)たという。それまでは手本の通りに描いていればよいという型通りのものにすぎなかったのだが、自分の絵とは何か、如何に絵を描いてゆくのかということを考えるようになり戸惑い始めた。いわば画家としての萌芽といえるだろう。


 実際、卒業後の生活については在学中から不安を抱えており、あくまで作家として制作活動を続けていくという覚悟も、教員として働くということも決めかねていた様子がうかがえる。それでもそうした困難の中、帝展出品と入選、一九三○年協会展、国画会展入選を果たし、絵描きとしての自信を次第に高めていったようである。


註1「アトリエ閑談〈インタヴユー〉」(インタヴュアー・比出井仁史)『武蔵野美術』第7号(4月刊)、再録『山口薫 歳月の記録』(山口薫著、宇佐見英治・富山秀男・山川輝夫・山口哲郎編)(山口薫文集)1983年8月、用美社


註2「アトリエ閑談〈インタビュー〉」、前掲書


そしてパリへ

 1930(昭和5)年3月、東京美術学校を卒業するとすぐに同級生の清水啓三が、そして親友・矢橋六郎も5月にフランスへと向かった。山口薫は卒業後、大学に通う甥と笹塚に家を借りて暮らしていたが、すぐ上の姉が長兄に薫のフランス行きをすすめてくれたことをきっかけに、渡欧することになる。1930(昭和5)年9月に横浜を出発し、11月にパリ到着、1933(昭和8)年6月までのおよそ3年をパリやその周辺で過ごした。

 さかのぽって、明治の中頃から日本人画家たちがパリで美術を学ぶようになった。例えば東京美術学校に関係する人物を挙げても、黒田清輝、久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作、藤島武二などの名前がすぐに浮かんでくる。パリで学ぶ画家の数は増えつつも、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると殆どの日本人は帰国し、大戦中にパリで過ごしたのは川島理一郎や藤田嗣治などごくわずかであった(註3)。大戦後、1920年代に入るとパリをめざす画家たちの数は年ごとに増え、いわゆるエコール・ド・パリの時代にあたる1920年代後半には、その数は200人とも300人ともいわれた。この時期にパリで学んだ画家たちは、例えばヴラマンクやマティスといった同時代の画家と交流があったが、その少し後、つまり1930年代に入る山口薫たちの世代はアトリエにモデルを頼んで描いたり、写生旅行に出かけたりすることで学び吸収していった。


 1930年9月末、23歳の山口薫をのせた靖国丸は横浜港を出港した。途中、香港、エジプト、ナポリなどに立ち寄り、10月末、マルセイユに到着する。マルセイユには川島理一郎と矢橋六郎が出迎えにきてくれていた。マルセイユを発ち、11月1日、パリ到着。


「巴里の冬、一九三○年十一月霧の夜十一時、私はガールドリオンの出口から初めて見る巴里の空を見渡した。」(註4)


 すでに11月に入っていたパリは、山口にしっとりと淋しい、しかし「まるで新宿駅の霧の夜から運び出したような何でもない気持」(註5)ちを与えた。ソルポンヌ大学前の宿泊先、ホテル・セレクトの窓から無心に外を眺め、異郷の霧の中に自然と溶け込んでいった山口であった。


 翌日からパリ生活が始まる。早速街に飛び出して歩き回る山口青年の目には、見るもの全てがまぶしく映った。カフェのテラスにずらりと並んで往来を眺める人の群、そこに集う女たちがまとう赤や黄や緑の服が明るい星のように目に飛び込んできて、頭がボーツとしてくる感覚、そして今自分はパリの街に生きる人間の一人なのだという感動と興奮。まだ慣れぬ異都パリをさまよいながら、若きエトランゼは何を感じたのであろうか。


 パリ滞在中はルーヴル美術館などで、それまで美術史で習っただけで実物に接する機会のなかったエジプト、アッシリア、ギリシャなどの古代芸術をじかに繰り返し見、また街の画廊をめぐってはマティス、ピカソ、ボナールなどの作品を次々と見たという。古今の作品にじかに接したことは、当時の山口薫にとって非常に大きな収穫となったことであろう。


 郷里の中学時代からの友人に送った書簡からは、しばし興奮気味にパリでの生活を綴る山口薫の姿が浮かび上がってくる。パリに到着してしばらくすると、川島理一郎がパリを発って日本へ帰国したこと、続いてクリスマスがやってくると矢橋をはじめとするパリでの友人たちとオペラ、競馬などに出かけたことなどが書かれている。自由にパリでの生活を謳歌するエトランゼ。書簡のなかで「ずつと勉強には手がつかず遊んで了つた」(註6)としばし反省する面ものぞかせている。クリスマスが明けると親友・矢橋はニースヘ絵を描きに出かけた。他の多くの画学生たちも冬場は南へ出かけるというので、山口もひと月ばかりニースへ出かける計画を立てた。


註3 匠秀夫『物語 昭和洋画壇史T パリ豚児の群れ』(形文社、 1998年)


註4「滞仏雑録〈滞欧漫筆集〉」『現代美術』第l巻第4号(7月刊)、再録『山口薫 歳月の記録』


註5「滞仏雑録〈滞欧漫筆集〉」、前掲書


註6 1930年12月28日付、辻中保次氏宛書簡。山口薫は1930年から33年にかけてのフランス滞在中、郷里の中学時代からの親友、辻中保次氏に宛てて計41通の手紙を書き送っている。今回、群馬県立近代美術館が保管する複写資料をもとに調査を行い、本稿に引用している。註のうち、書簡とあるものは辻中保次氏宛書簡のことを指す。尚、書簡の引用・掲載については今回、遺族、著作権者にご許可頂いた。ここに記して感謝する。


地中海の光、巴里の春

 1931(昭和6)年1月8日、パリを発って翌9日にニースに入り、4日間滞在してから東のヴィルフランシュに移った。同じ宿泊先には友人が二人、先にニースヘと発った矢橋も隣に下宿しており、毎日競争のように絵を描いたという。椰子の木、サボテン、黄色いミモザの花。南仏の土はえんじ色で、なだらかな斜面一面にオリーヴや小松が生え、海岸線は美しい。地中海の光の中、制作にも意欲を見せる山口薫であった。


 ちょうど山口が滞在していた時期にはニースでカーニバルが一ケ月開催され、賑やかな街で随分楽しんだということである。現地で手に入れたと思われる絵葉書や撮影した写真が残されており、これらに非常によく似通った構図の油彩作品が制作されていることから、こうしたものも油彩作品のイメージに取り込んでいたことがわかり興味深い。


 ヴィルフランシュで矢橋とは別れ、ニース、モンテカルロと旅をしてパリへ戻ったのちは、モンパルナスの近くにアトリエを探し、バルディネ街16番地に移った。パリから一時間ばかりの郊外クイイ・サンジェルマンへ写生に出かけたり、パリの街角、モンマルトルやリュクサンブール公園へと出かけたり、すっかりパリでの生活に馴染んだ様子が書簡からもうかがえる。やや浮かれ気味に、「先づ巴里の春は空から、そして地にマロニエの枝から、かうして人の胸に春が受胎をするらしい」(註7)と綴られた一節は、あふれんばかりの山口の若き感性をよくあらわすものである。


 このころの山口薫はアトリエで肖像画や風景画を描いている(註8)。アトリエの窓から外を眺めた構図の油彩作品がいくつか残されているが、これらはバルディネ街のアトリエやその後移ったグランド・ショーミエール街のアトリエからの景色を描いたものである。またしばらくするとモデルを雇い、人物画にも取り組んでいる。《ワンダ像》(cat.no.15)、《緑衣の女》(cat.no.16)、《シュミーズの女》(cat.no.17)などは、同じモデルを描いた作品であるが、それぞれモデイリアーニ風、ドラン風など、当時山口薫が影響を受けていた画家たちの画風を努発とさせる作品である。


 初めての南仏滞在から戻りしばしパリにとどまったのち、7月に入ると村井正誠、矢橋六郎とともにルーアンを経由してノルマンディーのエトルタに旅をした。ポルトダヴァル(アヴァルの門)、エギュ(針)島などの奇岩を有する海岸は、クールベ、ブーダン、そしてモネが描いたことでもよく知られる。エトルタを描いた油彩作品の他、写真や絵葉書、デッサンなども残されている。塩の香をかいだあとすぐにパリへ戻ってくるが、このころになると昼間はアトリエでモデルを使い制作し、夜にな・驍ニ仲間たちとモンパルナスのカフェで落ち合い過ごすようになる。パリへ来て一年近く経ち生活に慣れる反面、日々の暮らしが単調なものにも感じられ、満足のいく作品を完成することができずにややスランプに陥ったようなことも漏らしている。


 そんな気分を晴らすためか、山口は9月に入るとスペインヘひとり旅立った。マドリッドではグレコやゴヤ、ヴェラスケスの作品に触れ、また闘牛を見てやや興奮気味にその様子を手紙に綴っている。「牛は怒ってもやさしそうな眼をしている」(註9)という言葉は、のちに牛をモチーフとした作品を多く描く山口薫らしいまなざしであろう。


 スペイン旅行から戻るとしばらくパリにとどまり、12月末にバルディネ街のアトリエからモンパルナスのグランド・ショーミエール街16番地のアトリエヘと移った。パリ六区のグランド・ショーミエール街−大きな藁ぶきの家、という名前−は、二百メートルくらいの小路に、町名と同じ絵の研究所、グランド・ショーミエール研究所があり、それを中心に画材店、貸しアトリエ、美術書店、安宿や食堂などが集まっている、絵描きのための通りといった風情であった。モンパルナス街は目と鼻の先であり、そこにはドーム(le Dôme)、クーポール(la Coupole〉、ロトンド(la Rotonde)といったカフェがあり、夜ごと絵描きたちが集っていた。山口薫のアトリエはグランド・ショーミエール街16番地、画材店と小さい美術書店の間の扉から入った、最上段の三階に位置していた。中庭の左手の階段からのぼって上に出ると、手すりのついたベランダにそって三つのアトリエが並んでおり、その一番手前が山口のアトリエであった。山口が移ってくるまでは、二科会の田口省吾夫妻がアトリエとして使用していたという(註10)


 年が明けてからは、前年と同じように南へと旅立つ。1月末から3月初めまでサントロペに、そこからカーニュに移り、4月7日にパリヘ戻った。


註7 1931年3月27日付書簡


註8 「今肖像と風景を描いてる、風景はまだ外で描く程に行かない、六月になつたらモデルをやらうと思ふ」1931年5月18日付書簡、「今モデルを便つてゐる」1931年7月2日付書簡


証9 1931年9月書簡(日付詳細不明)


註10 竹谷富士雄『パリの陽だまりから』(1978年、芸立出版)『グランド・ショミエル通りのアトリエ(1933−35年)」の項にアトリエの様子が詳しく記述されている。竹谷富士雄氏は1933年にパリに到着、グランド・ショーミエール街の山口薫のアトリエの筋向かいのホテルに滞在していたときに山口が日本へ帰国することとなり、その後アトリエを引き継いだ。


パリの空の下

「オートイユにロンシヤンに春駒そのもの、駿馬が赤に黄にむらさきに、だんだらにシュバリエを乗せていなないてゐる、巴里の兢馬は春のセーゾンに於て最も華かだ、春に於てのみ華の巴里だ」(註11)


 晩年、好んで描いた「馬」のシリーズをあたかも予感させるような詩的な文である。山口薫にとって二度目のパリの春。相変わらずその美しい季節に心を動かされるものの、為替下落などの経済的な理由もあいまって日本へ帰国する仲間たちが増え、一人二人とパリを去っていくことに淋しさを覚えるとともに、自らの胸にも郷愁が湧きあがってくるのを押さえられない季節でもあった。


 春特有の苦みをおびた情熱を仕事にのみ集中させるため、また経済的な理由のため、4月初めにパリヘ戻ってからすぐ、下旬には南仏へと移った。矢橋とともにパリを発ち、山口は再びカーニュやエクス、マルティーグに滞在している。エクスヘは友人の中村博とともに向かい、セザンヌの画室を訪れ、またサント・ヴィクトワール山やシャトー・ノワールを臨み、セザンヌが描いた場所へも足を運んでいる。プロヴァンスの景色は広く、上州の地にも似ているところがあると語ったり、あるいはサント・ヴィクトワール山を故郷妙義の山に重ね合わせたりして、遠く離れた郷里に思いをはせている。エクスには一週間滞在し、その後マルセイユを経由してマルティーグにしばらく留まった。6月初めにパリに戻るが、モンパルナスで日本人仲間の姿を見ることもなく、加えて経済的に難もあり、再び旅に出ることを計画している。まずはパリ郊外のモントレーに移り制作をし、一旦パリへ引き上げたのちにブルターニュの海岸へ出かけた。しかしブルターニュの空と家は灰色で、夏の盛りにも海水は冷たく、制作意欲がわかずにパリヘと戻る。


 暑いパリの夏を過ごしたのち、9月に入るとスイスを通ってイタリアに入り、ミラノ、ヴェネツィア、アッシジ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ピサなどイタリア各地を巡った。美しい夜のヴェネツィア、黄昏のアッシジ、ルネサンスの花フィレンツェ、久遠の都ローマなど、それぞれに感動を覚えつつ、美術や建築に触れ感銘を受けている。特にアツシジではジョットの壁画を見て感動し、ローマでは遺跡にのこる太い大理石の柱や右片から滅びたローマ帝国を想像している。このときの体験や感動が昇華され、帰国後、特に1930年代後半から制作される作品に、神話や古代世界をモチーフとしたものが見られることにも注目したい。


 10月中旬、同行の中村博とはミラノで別れ、10月に入ってなお夏を残すイタリアを出、薄雪をかぶる丘陵のひろがる冬めいたスイスを抜けて、山口は秋深いパリヘと戻ってくる。陽の光にあふれるイタリアには旅愁を感じなかったというが、パリに近づくにつれて旅の淋しさを感じ、「これが旅愁と云ふものか」(註12)と光の国伊太利の天地を頭に描く山口であった。


註11 1932年4月27日付書簡


註12 1932年10月15日付書簡


帰国の途へ

 この頃になると、一人、また一人と日本に帰国する友を見送りながら、自身の帰国もおぼろに近づいてきたように思い、翌年の春頃には帰国するだろうと書簡で伝えている。ただ、「ろくな作品も持たずしっかりした勉強もせず帰へることを思ふと日本に帰へることが恐ろしい気さへする」(註13)とやや弱気な発言もしている。


 12月1日付の書簡では、経済的にも貧窮しつつある生活を嘆きながら、せめてニースのカーニバ祭の気持ちになりたいとアトリエでカーニバルの絵を描いていると伝える(註14)

このとき描いていたと考えられる作品は《ニースのカーニバル》で、その構図やモチーフからニース旅行の際に求めた絵葉書や現地での写真をもとに描いたと考えられる。


 年が明けてから再び南仏に向かいカッシスやマルセイユに滞在し、3月中旬頃パリヘと戻る。南仏滞在中、2月も終わりに近づくと、山口は6月初め頃の船で日本に帰国すると決めた。この年の4月、日本へ先に帰国する山田正に託して《緑衣の女》、《アトリエより》、《マルティーギュ(一)》、《マルティーギュ(二)》、《カ一ニュの橋》、《サントロツペ》、《A嬢の像》を第8回国画会展に出品し、会友に推挙されている。南仏より戻ってからはアトリエで制作を続け、5月には郊外のヴィリエに滞在、パリでの生活もいよいよ残り少なくなった。帰国は1933年6月23日のマルセイユ発白山丸で、3年にわたる滞欧期の多くをともに過ごした親友の矢橋六郎と同じ船で帰国した。


 帰国後は長兄が世田谷区上北沢にアトリエを新築して迎えた。この年、滞欧作品展を高崎商工会議所で開催したと伝えられているが、出品内容は明らかでない。帰国翌年の1934年4月の第9回国画会展に《裸婦》、《ポオトレエ》、《シュミーズの女》、《カッシス風景》を出品し、国画会会員に推挙されていたにもかかわらず国画会を退会、パリで交友を重ねた矢橋六郎、村井正誠、長谷川三郎、大津田正豊、津田正周、シャルル・ユーグとともに「新時代洋画展」を結成、毎月のように展覧会を開催し、旺盛な活動を繰り広げた。新時代洋画展の正確な開催回数、出品内容は資料が乏しいために不明な点が多いが、1935年11月まではほぼ毎月、第16回まで開催、その後一時休止し1936年末まで続いたことがわかっている。山口薫は帰国翌年にあたる1934年の新時代洋画展に滞欧中に描きためた作品を出品していたらしいことが、資料からうかがえる。


 滞欧中に制作された作品は人物画や風景画が主であり、やや大胆なフォーヴィスム風のタッチを残した明るい色彩の作品であるが、山口薫特有の朱や緑といった色彩が用いられ、すでに「山口薫らしさ」が発揮されている。さらにモチーフについて見ると、画風の変遷とともにそのイメージは変化しつつも尚描かれ続けてゆくものが見られ、滞欧期の吸収が画家に与えた影響は大きなものであったと改めて感じさせられる。ここからは滞欧期の作品のうち、モチーフに注目して見てゆきたい。


註13 1932年11月9日付書簡


註14 「今アトリエでせめてニースのカーナバルの祭の気持ちになりたいとカーナバルの絵を描いているが悩みは仕事の上に於て位も深刻」1932年12月1日付杏書簡


モチーフの獲得と昇華

 滞欧期の山口薫は、主にパリのアトリエではモデルを使い人物画を描き、旅先やパリの街角では写生をもとに風景画を制作している。

 山口の滞欧期のスケッチブックを見ていると、油彩作品のエスキースとしてかなり明確にその作品を特定できるものが多いことに気がつく。例えば、《風景》(cat.no.8)、《風景》(cat.no.9)、《巴里の街》(cat.no.10)、《白い馬の像》(cat.no.18)、《パリ、アレジアの教会》(cat.no.20)などがあげられる。このほかにも油彩と同構図の素描が存在している(註15)。こうしたエスキースは果たしてパリの街角や旅先での簡単なスケッチの枠にとどまるものか、あるいはアトリエでの制作にあたっての「下図」として練り上げられたものであるかは判断のつきにくいところではあるが、「絵になる構図」を求めて外での写生にはげむ山口薫の姿を想像でき興味深い。


 また単なる写生の枠に収まらず、あるモチーフから独特の世界を創り出していくことにも注目したい。その一例として《裸婦四人とバラ》(cat.no.23)を取り上げてみる。


 《裸婦四人とバラ》は手前に大きくバラの花を描き、その奥に天球を掲げる四人の裸婦が描かれている。背景には水辺のようなものが広がっているのもみえる。腕をあげ、体をひねった裸婦の姿はやや不自然で、同じ人物像でも、アトリエでモデルを使い制作していた人物画とは異なる。実はこの作品はジャン=バティスト・カルポー(Jean-Baptiste Carpeaux,1827−1875)の《四大陸》というブロンズ像をモチーフとしている。《四大陸》は、1867年にセーヌ県知事、ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンからリュクサンブール公園内噴水の彫刻制作を命ぜられたカルポーにより作られたものである(註16)。山口薫が所持していた写真の中に《四大陸》を写したものがあることから、リュクサンブール公園で見たこの像に興味を持ち作品のモチーフとして取り入れたことがうかがえる。しかし山口薫の作品には、この像がそのまま描かれているわけではなく、上段の寓意像をモチーフとしながらも色彩を自由に変化させ、さらにバラの花を組合せて象徴的なイメージを付加している。


 このほかにも写真に残された公園の彫刻などがいくつか見当たり、実際に作品に描かれたもの、あるいはおそらくそれらから着想を得たのであろうと推測できるものが多い。《白い馬の像》もそのひとつであり、スケッチブックにデッサンが描き込まれている。油彩作品のタイトルは白い馬の像とされているが、作品を見る限り、画題は半人半馬のケンタウロスを描いたものであろう。テツサリアに住むラピテス族の結婚式に呼ばれたケンタウロスが酒に酔い、花嫁ヒッポデメイアを略奪したことによりラピテス族とケンタウロス族の間に闘いが起きたというギリシャ神話を題材としている。山口が見たであろう彫刻の所在について今回明らかにはできていないが、おそらくはリュクサンブール公園などパリ市内に設置されているものと思われる。デッサンでは早い筆致で対象を捉え、ところどころ陰影をつけながら全体を描いている。略奪した花嫁を抱え逃げるケンタウロスは、背中を矢で射られ、もだえ片足をあげている。助けを求めるように腕を上げ、天を仰ぐ花嫁。スケッチの余白部分には、花嫁を抱えるケンタウロスの腕と女性の上半身、特に上方に伸ばした指先の動きをとらえようと、再度デッサンを試みている。スケッチブックに描かれたデッサンとほぼ同じ構図のまま、油彩作品に仕上げられている。


 1952年の第2回モダンアート展に出品された《矢》(cat.no.51)は、《白い馬の像》と同じモチーフを描いていることが明らかである。ただし、ケンタウロスに抱えられた女性はより小さく描かれ、腕も下げられている。かわりにケンタウロスが右手をあげ、後ろ足で立ち上がり、矢に射られた痛みにもだえる様子が強まっている。《白い馬の像》では空に雲が浮かぶ様や彫刻の台座部分が描かれており、屋外の風景をとらえたものといった感が強いが、《矢》は独特の色面により分割・構成され、幻想的な印象を与えている。モチーフをそのまま画面に写し取ることから、具象と抽象のはざまを自由に行き来しながら独自の世界を創り出してゆくことへ、そのスタイルを変化させてゆく様子がよくわかる例である。


 このほかにも、帰国後の新時代洋画展に出品された《青銅少年》(註17)は古代遺跡風の建造物の前に片手を挙げて立つ少年の姿を描いたものであるが、これは滞欧期に描かれた《マロニエの頃(パリ ルクサンブール公園)》(註18)に描かれている片手をあげて立つ像をモチーフとして再度取り入れている。


註15 たとえば世田谷美術館所蔵の素描のうち、《公園》(制作年不詳、鉛筆・紙、22.5×31cm)および《Saine[sic]》(制作年不詳、鉛筆・紙、27.5×36.7cm)がこれにあたる。油彩作品は現在所在不明であるがモノクロ図版により確認でき、それぞれ《ルクサンブール公園》(Ca1931、50.0×60.5cm、『山口薫展』(1978.10.16−28、ギャラリー上田)に掲載)、《冬のセーヌ川》(1933年、39×45cm、『山口薫 第2集」(今泉篤男監修、求龍堂、1975年)作品総目録67に掲載)があげられる。


註16 Jean-Baptiste Carpeau (1827−1875) Les quatre parties du monde soutenant la sphere celeste.四体の寓意像はそれぞれヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカを表している。リュクサンブール公園に設置された噴水では、この《四大陸》の台座下部分を取り囲むように、前足をあげた馬の彫像が取り付けられている。《四大陸》の石膏モデルは現在、オルセー美術館に収蔵されている。


註17 《青銅少年》は1936(昭和11)年11月(11.27−30、銀座・日動画廊)および12月(12.2−5、銀座・日動画廊)の新時代洋画展に出品された。モノクロ図版が『阿々土』第16号(1937年1月発行)に掲載されている。


滞欧期の位置づけ

 フランスから帰国したのち、新時代洋画展、自由美術家協会展に出品された作品に古代の神話をモチーフとしたような作品が見られるが、こうした作品の背景には滞欧中に見た公園の彫刻や古代遺跡などがイメージソースとして存在している。滞欧中に描かれた作品では目の前にある彫刻や遺跡をそのまま素直に写し取っているが、帰国後はさらにそのイメージをふくらませて神話的なもの、幻想的なものへと昇華させている。


 山口薫にとっての滞欧期とは、古今の芸術の学習、自己の形成といった、いわば修業の時代であり、帰国後展開してゆく山口薫芸術の最初の一歩の期間であったといえるだろう。自己の画風を本格的に確立してゆくのは帰国後の活動を通してであるが、その基盤となるものを滞欧期に吸収し築いていたことは確かである。美術学校を卒業したのち、向かったパリ。自身の進むべき方向に迷っていた青年が画家としての生き方を見つける、そんなエポックであったに違いない。


「深く対照を見つめて絵が描きたい、望む鹿は只これだ」(註19)


 制作に対する姿勢の表明。単なる具象から一歩深く入り込んで描く、のちの山口薫をつらぬくものが生まれた瞬間であった。

註19 1933年1月10日付書簡

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