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『浅野弥衛展』図録(1996)

浅野弥衛年譜

編:東俊郎

1914年(大正3)

10月1日、三重県鈴鹿市神戸町北萱町56番地に二男三女の長男として生まれる。父浅野弥吉、母つう。家は伊勢へつながる参宮街道に面した旧家で、江戸時代から石薬師の煙草として有名な刻み煙草の仲買を代々手びろく商い、専売公社ができてからも小売りをつづけるかたわら、洋酒の販売もおこなっていた。

1917年(大正6) 3歳

この年、弟嘉平生まれる。

1921年(大正10) 7歳

4月、神戸尋常高等小学校に入学。

*少年のころ当時の女流画家梶原緋沙子女史の「落城」という絵の中の淀君を美しいと思った。炎の中に立って、中空をにらむこの臈たき女性の、カッとばかりに見開いた双眸を今も忘れないのである。(浅野弥衛「まなじりをさく」朝日新聞、1964年9月28日)

1927年(昭和2)13歳

3月、神戸尋常小学校尋常科を卒業。
4月、県立神戸中学校に入学。

1932年(昭和7)18歳

3月、神戸中学校を卒業。
中学卒業後職業軍人となり、応召されて満洲にわたる。チチハルの近くに駐屯。ほとんどの樹木が落葉してしまう厳寒にエルムの並木だけが延々と続いているのが印象的であった。

*神戸中学を卒業後、職業軍人になり、日華事変後一時帰国したとき絵筆をもったのが画家への第一歩。(朝日新聞、1961年9月)

1933年(昭和8)19歳

3月、母つう死去
満洲から帰国したのはこの年か。
津市に住んでいた詩人の野田理一と親しくなったのも多分この頃。実家の三軒隣は近江の日野出身の造り酒屋で、野田理一はその日野生まれの親戚の息子だった。ヨーロッパの新しい芸術運動にも興味をいだく野田がもっていた作品や画集で 欧米の未知の画家を知ったばかりでなく、かれの影響によって浅野は絵画以外の文学、音楽などの前衛的な運動に関心をもちはじめる。

*浅野氏は若いときから絵に興味をもっていたが、抽象絵画にすすんだきっかけは詩人で詩誌「荒地」の編集者野田理一氏と知り合ってから。野田氏は詩人であると同時に美術のコレクショナーでもあり、フランスの美術雑誌などがいつも家中にゴロゴロしている。浅野氏はそうした雑誌や画集を通じてカンジンスキー、ミロ、クレー、アルプ、ブランクージなどを知り、抽象絵画への開眼をした。(中日新聞、1962年5月11日)
*初めて外国の画集で抽象の世界をのぞいたとき「驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだってそうだ。日本に昔からあったんや」というのが実感だった。(中日新聞、1971年3月13日)

1938年(昭和13) 24歳

二度目の応召で中国本土へ。戦禍に荒れた漢口、武昌を経て、秋に漢水上流の漢川に駈留し、翌春までそこに留まる。葛延棟宅に寄寓する。別れに際して主人に白氏の「林間暖酒焼紅葉、石上題詩掃緑苔」を揮毫してもらう。「主人は七十を過ぎ、ツルのような風格があって、書をよくした。後ろから支えられながら書いていく字は、まるで青年を見るようなみずみずしさであった。(略)そろそろ移動の近づいたある日、彼は記念に何か書いてあげようといった。“好きな詩があるか”という問いに“林間暖酒焼紅葉、石上題詩掃緑苔”というといかにも楽しそうにうなづいて“林間暖洒焼紅葉、石上題詩掃緑苔”と大書してくれた。毎年秋になると、私はこれを床の間に掛ける。字は年とともにますますみずみずしく若々しく見えてくる。終わりに“尭臣、葛廷棟、時年七十有四”とある。」(浅野弥衛「漢川の大人」毎日新聞、1963年11月)

1939年(昭和14) 25歳

春、中国から帰国。
長谷川三郎が主宰していた美術創作家協会に初出品する。

*創作家協会か自由美術協会か、どっちか知りませんけれども、そこへあなたのエンピツの絵を出してごらんと(注:野田埋一に)いわれたんです。私、東京へ行くのも、公募展へ出すのも気が進まなかったんですけれども、野田さんが「私が行ってあげるから、いっぺん行ってみましょう」ということで、……(「美術手帖」1983年4月)
*初めて自分なりに絵が描けたという思いで、公募展へ出品したのは、ちょうど日支事変の終わった年であったか、昭和十三年か、十四年か、美術創作家協会展であった。パステル、クレヨン、墨、エンピツを使っての白黒のモノクロームの小さい作品であった。上野の美術館へ行って、ハンランする色と形の間にはさまれている自分の作品を、遠くから、いじらしい気持ちでながめていた思いを忘れることが出来ない。(浅野弥衛「ふるさと」朝日新聞、1961年1月17日)

1944年(昭和19) 30歳

この年、三度目の召集でフィリッピンに向かう。

*第2次大戦が始まる前、東京の芸大に、マンフリット・グルリッドというドイツ人の指揮者が教授としていて、その人が、名古屋に来てベートーヴェンの第九を聞かすというので、野田さんが、「召集が来るかも知れないから、これだけは、聞きましょう」といって、無理矢理、つれていかれたものです。それから二、三日して応召になり、しばらくした終戦の前年、日本の敗色が濃くなってきた頃でした。フィリピンに渡る船上、いつ魚雷がドシーンとうちこまれるかわからないような状態の時に、私は甲板に出て、空を見て寝ころがっていました。そんな時、ふっと、「ベートーヴェンの第九をもう一度聞いてみたいな」と思ったのです。音楽を聞いてみたいなと思ったのは、あれが最初にして最後です。(「美術読本」、1986年1月)
*満洲事変から、支那事変、太平洋戦争と応召し、終戦時には中尉になっていた。このため満洲、中国、フィリピンなどいわゆる官費旅行をし、母校神戸中学の配属将校になっていたこともある。(中日新聞、1962年5月11日)

1945年(昭和20) 31歳

この年、清水桂子と結婚。

*浅野陸軍歩兵大尉は戦後再び作家にもどる。(朝日新聞、1964年2月16日)

1950年(昭和25) 36歳

2月、鈴鹿信用組合理事となる。
この年、美術文化協会会員になる。

1952年(暗和27) 38歳

5月、長女泰子生まれる。
名古屋の栄で画材屋をひらいていた藤田八栄子を知ったのは藤田が画材店をひらいたこの年直後。藤田は後に桜画廊をひらき、亡くなるまで、中部圏の若い作家たちを育てることになるが、その中心のひとりになったのは浅野弥衛だった。

1953年(昭和28) 39歳

2月、鈴鹿信用組合が鈴鹿信用金庫に改組、代表理事となる。
この頃、近くの海岸へゆき、流木や貝殻を拾って、それをコラージュした作品をつくる。弟嘉平、義弟清水信と自宅に英語塾「ブルー・フラッグ」をつくり、中学生を教える。

1955年(昭和30)

2月父弥吉死去。
戦争中に一時色彩の世界に惹かれたものの、「無残な敗北を繰り返した」あとで、「再び黒と白の世界へもどった」のは、この頃か。(浅野弥衛「ふるさと」朝日新聞、1961年1月17日)

1956年(昭和31) 42歳

7月、次女美子うまれる。この年、美術文化協会常任委員になる。

*42歳の時に勤めをやめ職業画家になった。展覧会のたびに一枚も売れないことが続いた。「また全機帰還や」と笑って帰ったという。(朝日新聞、1990年10月27日)

1957年(昭和32) 43歳

10月22日、弟嘉平歿。
この年あたりから「引っかき」をはじめる。(朝日新聞、1964年2月16日)

1958年(昭和33) 44歳

*浅野さんは鈴鹿信用金庫の専務という忙しい職場を持ち、帰宅するのは毎夜九時ごろから二時ごろまでという。それから自宅三畳の間に設けられたアトリエで画家としての生活をするという……今度の作品は今までまだだれもが行ったことのない、美濃紙などの和紙にアカネ草などの草木染料をしみこませてふくよかな色を出し、造形は抽象絵画だという画期的なもの。(朝日新聞、11月5日)

1959年(昭和34) 45歳

3月、第19回美術文化展(東京都美術館、17日−31日)に「暗い歴史」「作品A」「作品B」「序奏」を出品する。
11月、鈴鹿信用金庫代表理事を辞任。この年、浅野弥衛展(トキワ画廊)

1960年(昭和35) 46歳

4月、姉うめ歿。

1961年(昭和36) 47歳

2月、中部美術家協議会主催の自選展(3日−12日、愛知県美術館)に出品する。
3月、浅野弥衛・鈴木清展(5日−11日、東京銀座中央画廊)
4月、第21回美術文化展(20日−29日、愛知県美術館)に出品する。
5月、浅野弥衛・岡田徹二人展(7日−20日、桜画廊)
7月、浅野弥衛展(24日−8月2日、名古屋画廊)で近作14点(油絵12点、オブジェ2点)を出品する。
8月、中部美術作家第1回選抜展〈9日−20日、愛知県美術館)に出品する。
9月、アメリカ美術協会(AFA)の国際ドローイング展へ出品依頼
10月、浅野弥衛個展(19日−24日、櫟画廊)。
10月、第7回中部美術文化展(21日−30日、愛知県美術館)に「作品C」など7点出品する。
この年、燭台をデザイン化した名古屋画廊のシンボルマークを制作する。

*浅野の画面は部分的にカンバスの織り目をあらわしているような、淡い、清潔な絵はだを示し、ことにその白い心象風景は、ときには枯草の野を、あるいは針葉樹の林を思わす叙情的な美しさを見せている。……(朝日新聞、3月9日)
*線が好きで、乾いた画面、カサカサした画材を好む自分の精神的体質を自覚したのは、絵を描き始めてから十年も経ってからでしょう。
 戦後ウォッシュバーンという米人が来られて、ドウローイング・インターナショナル展という展覧会に出品を依頼されて、私は油の引っ掻きの線による作品を出したように記憶しています。(「美術手帖」1981年7月増刊)

1962年(昭和37) 48歳

1月、第13回秀作美術展(5日−14日、朝日新聞主催、日本橋三越)に「作品」を出品。
4月、第22回美術文化協会展(19日−29日、愛知県美術館)に「作品1」「作品2」を出品。
5月、浅野弥衛展(16日−25日、名古屋画廊)

*1、黒白モノクロームを自己の世界と自覚し、その究極にちかづこうと努力しての探求。2、自然の摂理の美しさ、きびしさ、烈しさを抽象した。3、黒色を求めて苦心した。(1制作の動機、2意図、3苦心の点「秀作美術展陳列目録」)
*白と黒の異色の作品である。キリキリと焼きつくような条線の鋭さはこの作家の独特な手法によって生み出される。黒白の世界でありながら、色彩を感じさせる。生々と発育する植物を思わせるこの作品は作家の強固な意志を表現していておもしろい。(「美術文化展から」中日新聞、4月22日)*白の綿密な地塗りが乾燥していく一時期にくぎ、あるいはナイフでカキキズをつけたり、面をこそげ取るドライポイント状の作業をほどこし、このキズをツヤ消しした黒でうずめたもので、陳列品はいずれも本年初頭以後の制作。(「音楽的な快感」中郡経済新聞、5月17日)
*この年、自宅玄関脇の4畳半を利用してはじめてアトリエをつくる。「浅野氏のアトリエ施工費はわずか十二万円。これまで使っていたタバコ座の店のわき、四畳半の間の床張りして、明かり窓を大きく開いただけ。抽象画家にとっては北光線も、南斜へいも、そんな面倒なものはない。(中略)街道筋に三百年来、店開きしている浅野タバコ店に、もう一つアトリエが店開きした形だが、浅野氏は「タバコ屋の店番をしながら制作しますよ」と気軽にタバコ屋とアトリエの間をあちこちしている。(朝日新聞、10月6日)
*今度の発表十五点のなかでの焦点は、もっとも新しい仕事「作品E」「作品K」の二点である。(「無数の線の運動、浅野弥衛個展」朝日新聞、5月21日)
*浅野氏の最近の絵は白地に黒の線がびっしりと描きこまれたもの。ある人はその作品を評して「江戸小紋でなくて鈴鹿小紋」といったが、鋭敏な感覚をひめた線、さまざまの色を一つ一つ洗い流して到達した白と黒の微妙な対照は、洗練されつくされた江戸小紋の持ち味に似ている。しかしそれに氏独特な現代感覚が加わっていることはもちろんである。(中日新聞、1962年5月11日)
*浅野の歩みは直線的ではない。過去の仕事を振り返っては進む。急な傾斜を回りながら上がる、あのループ式線路といったとことか。こうなると、かえって白黒の仕事は無限な強みがあるのかもしれない。(「無数の線の運動」(守)朝日新聞、5月21日)
*生まれ育った土地からじっと動かず、デッサン研究所を開き、腹ごなしのために畑をたがやすのが日課だという素朴な地方人だが野人ではない。ナイーブだが洗練された氏の持ち味が今後どう発展してゆくかが注目されているが、すでに朝日秀作展、米国美術連盟主催の国際展などにも招待された経験をもっている。(中日新聞、1962年5月11日)

1963年(昭和38) 49歳

4月、第23回美術文化展(19日−29日、愛知県美術館)に出品。
4月 浅野弥衛展(21日−29日、名古屋画廊)
10月、美術文化協会を退会する。

*小さな円を集団化した新しい仕事の発表である。それは水面に浮かんだアワ粒のように透明で、無数に連鎖している。しかしアミーバー の繁殖のような生きた感じはしない。物理現象のように無表情に広がってゆく。(「小さな円の集団」(守)、朝日新聞、4月24日)
*浅野弥衛は昨年みられた大胆な構図が姿を消し、画面をなめるように走った無数の細かい円のつながりが不思議な迫力を呼んでおり、……(「第23回美術文化展展評」名古屋タイムズ、4月23日)
*鈴鹿川堤防の上の道、それも上流の渓流沿いや、海近くの工業地帯ではなく、その中間の平野部を横切って行く平凡な、とりとめもない堤防の通が好きです。通る人もなく、名所旧跡があるでなく、四キロ余り、私はこの道を何の目的もなく、何を考えるでもなく歩きます。私の生活には、ときに、そんな時間が必要なようです。(朝日新聞、4月24日)

1964年(昭和39) 50歳

8月、現代の精鋭’64展(10日−23日、東京椿近代画廊)に出品。
8月、浅野弥衛個展(20日−29日、名古屋画廊)がひらかれ18点出品。
そのうち6点に色がはいった。「これまでのモノクロームの世界にわずかな色彩が加わっている。」(中部日本新聞、8月24日)「うっすらと要領よく置かれている。手際のよいあしらいかただ。だが、色が造型をしていない。浅野の線描の感覚の世界はなお続いている。」(朝日新聞、8月24日)
8月 第4回選抜展(22日−30日、愛知県美術館)に「作品」を出品する。
12月、浅野弥衛展(7日−12日、いとう画廊)

*浅野はここ数年の間にじりじりと独自な画風をみせてきた。(朝日新聞、2月16日)
*絵画にもオーケストラもあればセレナーデもある。主役もあればわき役もある。浅野はわき役をもって任じているらしい。イズムによって支配されたり、熱い血潮をたぎらせることを、ことのほかにきらう。そういえば、蔵書のなかに“思想”という文字は見あたらなかった。なんとなく、そんなものからはソッポを向いて素通りしている。(角田守男「五人の壮年画家」朝日新聞、2月16日)

1965年(昭和40) 51歳

8月、浅野弥衛展(19日−26日、名古屋画廊)

1966年(昭和41) 52歳

4月、浅野弥衛展(23日−30日、名古屋画廊)がひらかれる。「コンビネーション・ピクチュア」と自ら称する箱型集合体シリーズが登場した。
10月、浅野弥衛、勝本富士雄、伊藤利彦、小林研三、稲葉桂5人展(30日−11月7日、桜画廊)に出品

1967年(昭和42) 55歳

5月、浅野弥衛個展(29日−6月5日、名古屋画廊)
8月、浅野弥衛展(21日−30日、壱番館画廊)
この年、.名古屋タイムズ主催秀作展に出品。

1968年(昭和43) 54歳

4月、浅野弥衛個展(1日−8日、名古屋画廊)がひらかれ24点出品する。
この年、THE EXHIBITION OF JAPANESE ARTISTS DRAWING(LOS ANGELES)に出品。

*こんどは田植を終わった田んぼの画面と、白の面に強力な黒の色塊をぶちあてるボリューム感のただよう作品。繊細な神経とそれを一つに結集したマッスの対決と、両極端を探求している。昨年はピンク、淡いブルーといった色彩が現れていたが、こんどは消えた。(名古屋タイムズ、4月3日)

1969年(昭和44) 55歳

4月、浅野弥衛個展(23日−30日、名古屋画廊)
この年、中部画壇60人展に出品

*「たがやし派」は農夫が、無心に天気のことだけ考えながら手でウネを作るのと同じ境地で、絵具の固くならないうちに掘ってゆくののだという。手仕事のあたたかさと、幾何学的な無心さが、ひとつの現代的な感覚を打ち出している。(中日新聞、4月29日)

1970年(昭和45) 56歳

2月、伊藤利彦、小林研三、佐藤宏らと5人展(12日−24日、桜画廊)
5月、浅野弥衛個展(9日−16日、名古屋画廊)

1971年(昭和46) 57歳

4月、浅野弥衛個展(8日−15日、名古屋画廊)
5月、浅野弥衛展(31日−6月5日、みゆき画廊)
11月、浅野弥衛・田中栄作二人展(11日−19日、桜画廊)

*ニューヨークを中心に新しい芸術運動が起こってますが、息せき切ってそれを追っかけるのでなく、むしろ己れの牙城を守ろう、姿勢をくずさないでおこうと思っています。(中日新聞、3月13日)

1972年(昭和47) 58歳

7月、浅野弥衛個展(8日−15日、名古屋画廊)
11月、浅野弥衛・庄司達二人展(11日−18日、桜画廊)
12月、翌年1月にかけて伊藤利彦、小林研三、清水信らとパリ、ジュネーヴ、ローマを旅行する。
この年、浅野弥衛展(バルール画廊)

1973年(昭和48) 59歳

11月、浅野弥衛・中島幹夫二人展(20日−30日、桜画廊)
この年、浅野弥衛展(バルール画廊)

*浅野は「卵のメタフォア」の連作、以前からつづけている白と黒による仕事の集成で、卵といろいろな図形を組み合わせている。(出典 不詳、12月)

1974年(昭和49) 60歳

11月、浅野弥衛展(11日−22日、桜画廊)
この年、朝日美術展’74(名古屋)に出品。

*「大きく刃こぽれした刀身のような形が、水平に、あるいは斜めに白く浮きでている」(中日新聞、11月13日)スタイルがあらわれる。

1975年(昭和50) 61歳

10月、浅野弥衛展(1日−11日、桜画廊)
この年、朝日美術展’75(名古屋)に出品。
この年、浅野弥衛展(バルール画廊)

*つや消しの油彩で真っ黒に塗りつぶしたカンバスを、ひっかくように描いている。昨年までは白く塗りつぶしたカンバスをひっかき、これに黒を埋め込むやり方だったが、こんどは白黒が逆。(毎日新聞、10月8日)
*一貫して目指しているのは、中心のない絵、無数に中心がある作品、額縁が完結した世界の・謳リりではなく、場合によっては天地縦横どちらからでも見られる絵である。(朝日新聞、10月4日)

1976年(昭和51) 62歳

2月、次女美子、小林研三、伊藤利彦らとパリヘ旅行。
6月、浅野弥衛展(18日−24日、三重画廊)
11月、浅野弥衛展(2日−27日、桜画廊)
この年、朝日美術展’76(名古屋)に出品。
この年、浅野弥衛展(芦屋画廊)

*(鳥の子紙に鉛筆の作品について、)浅野氏によれば、昭和十四年、ほかに先駆けて抽象絵画を始めた当初の画材にもう一度戻ったのだそうだ。(朝日新聞、11月18日)

1977年(昭和52) 63歳

3月、浅野弥衛展(3日−12日、ガレリア・グラフィカ)
4月、浅野弥衛展(18日−27日、バルール画廊)
9月、浅野弥衛展(7日−11日、三重画廊)
11月、浅野弥衛展(15日−26日、桜画廊)
11月、放火により焼失した鈴鹿市龍光寺の本堂祭壇の襖絵を描き始める。
この年、朝日美術展’77(名古屋)に出品。

1978年(昭和53) 64歳

3月、浅野弥衛展(8日−18日、大阪フォルム画廊東京店)
3月、浅野弥衛個展(22日−31日、大阪フォルム画廊)
10月、FIAC’78(20日−29日、パリ)に出品。
11月、浅野弥衛展(1日−14日、桜画廊)
11月、フランスのビシーに留学していた次女の美子を訪ね、滞在する。
12月、浅野弥衛展(8日−17日、鈴鹿画廊)
この年、朝日美術展’78(名古屋)に出品。

1979年(昭和54) 65歳

2月、アートナウ’79展(3日−25日、兵庫県立近代美術館)に出品。
6月、アメリカの劇作家エドワード・オールビー、鈴鹿に浅野を訪ねる。
10月、浅野弥衛展(18日−31日、桜画廊)がひらかれ、鉛筆による新作27点が出品される。
10月、浅野弥衛展(鈴鹿画廊)
この年、中日展に出品

*オールピーさんは浅野さんの作品を「絶対に妥協することを知らない、流行やファッションといったものには関心のない、非常にユニークなもの」と絶賛している。(朝日新聞、9月20日)

1980年(昭和55) 66歳

3月、浅野弥衛展(1日−15日、大阪フォルム画廊)
この年、中日展に出品

1981年(昭和56) 67歳

2月、浅野弥衛展(23日−3月14日、桜画廊)
11月、浅野弥衛展( −14日、大阪フォルム画廊)

1982年(昭和57) 68歳

6月、浅野弥衛、小林研三、伊藤利彦三人展(21日−7月3日、ボックス・ギャラリー)
10月、浅野弥衛展(25日−11月10日、桜画廊)
10月、三重の美術・現代展(後期、28日−11月21日、三重県立美術館)に出品。
11月、現代美術の展望展(3日−12月15日、富山県立近代美術館)に出品。

1983年(昭和58) 69歳

5月、浅野弥衛展(4日−29日、伊奈ギャラリー2)
9月、浅野弥衛展(2日−21日、桜画廊)絣模様登場
10月、浅野弥衛展(  −7日、大阪フォルム画廊・ギャラリープチフォルム)

*私にとって絵というのは、ごくあたりまえのことなんです」と浅野さんはいう−「だから、芸術諭というようなものはまったく持ち合わせていません。寄り集まったもの、また乾いたものが好きですが、これもむしろ私の肉体的な性分」(伊奈ギャラリー2パンフレット)

1984年(昭和59) 70歳

10月、浅野弥衛展(第1部1日−15日、第2部18日−31日、桜画廊)

1985年(昭和60) 71歳

2月、昭和59年度名古屋市芸術賞特賞を受賞。
5月、浅野弥衛展(13日−6月15日、札幌ラボラトリー)
8月、浅野弥衛展(東京アキライケダギャラリー)
10月、浅野弥衛展(18日−10月31日、桜画廊)
この頃から題名が「作品」から「無題」にかわる。

1986年(昭和61) 72歳

3月、受賞記念浅野弥衛展(11日−16日、名古屋市博物館)
10月、現代の白と黒(5日−12月14日、埼玉県立近代美術館)に出品。
11月、浅野弥衛展(1日−20日、桜画廊)
11月、小林研三、伊藤利彦らとローマ、フィレンツェ、ミラノなどイタリア各地をまわる。

1987年(昭和62) 73歳

2月、野田理一死去
9月、浅野弥衛展(5日−19日、Japanska Galleriet,Stockholm)
10月、浅野弥衛、サイ・トンブリー二人展(1日−20日、東京アキライケダギャラリー)
10月1日、愛知県立芸術大学客員教授となる。
12月、浅野弥衛展(5日−30日、桜画廊)

1988年(昭和63) 74歳

7月、アート・カイト展(30日−9月4日、三重県立美術館)に出品
9月、浅野弥衛展(17日−10月8日、Japanska Galleriet,Stockholm)
10月、現代美術の動勢−絵画PART2(29日−12月11日、富山県立近代美術館)に出品。
11月、浅野弥衛展(5日−30目、桜画廊)
この年、愛知県立芸術大学教員展に出品

1989年(平成1)

4月、浅野弥衛展(4日−16日、アートスペース虹)
5月、浅野弥衛展(12日−21日、山画廊)
5月、浅野弥衛展( −20日、大阪ギャラリープチフォルム)
10月、浅野弥衛展(18日−24日、スズカ画廊)
10月、白と黒−浅野弥衛の世界展(18日−22日、鈴鹿市文化会館)
11月、河原温展「反復と対立」(4日−12月24日、ICA名古屋)に出品

1990年(平成2) 76蔵

3月、浅野弥衛、小林研三、伊藤利彦三人展(3日−23日、ギャラリー竹内)
4月、浅野弥衛展(3日−15日、アートスペース虹)
4月、現代美術の七星展(28日−5月23日、桜画廊)に出品。
6日、妻桂子逝去、享年六十六
9月、時の器展(9日−22日、アートギャラリー虹)に出品
9月、浅野弥衛展(25日−10月13日、ベースギャラリー)
9月、JAPANISCHE KUNST DER ACHTZIGER JAHRE(29日−11月18日、Frankfurt,KUNSTFEREIN)
10月、線の動向展(24日−10月22日、ベイスギャラリー)に出品
この年愛知県立芸術大学客員教授を辞す。

1991年(平成3)

2月、日本の抽象・1991年交流会展(12日−23日、アートミュージアムギンザ)
4月、浅野弥衛展(2日−28日、アートスペース虹)
8月、名古屋市芸術賞受賞作家展(27日−9月15日、名古屋市民ギャラリー)
9月、浅野弥衛展(24日−10月12日、ベースギャラリー)
9月、線の表現展(10日−10月20日、埼玉県立近代美術館)に出品。
この年、三重県民功労賞を受賞

*浅野は天気予報の達人である。天気予報の似合う都会はロンドンとウィーンとストックホルムと言われている。日本という国も、そうだ。年中青い空が広がっている国や、雨が降れば止むことのない土地や、氷と雪ばかりの辺境に、天気予報は要らない。浅野は株価の動きのように日々の天候にこだわり、西の空が美しいからと言っては娘たちを呼び、小雨が止みそうだからと言って孫たちと自転車で出かけ、風が強くなりそうだからと言って制作を中止したりする。文字通りお天気屋だが、勝手者ではない。(清水信「浅野弥衛・ひとと芸術」ペイスギャラリー展パンフレット、1991年)

1992年(平成4)

2月、中国に旅行
3月、浅野弥衛パステル展(2日−14日、ギャラリー竹内)
3月、浅野弥衛油彩・コラージュ展(30日−4月11日、ギャラリー竹内)
9月、浅野弥衛展(12日−10月17日、桜画廊)
10月、浅野弥衛展(27日−11月14日、ペイスギャラリー)
11月、東海の作家たち展(3日−29日、愛知県美術館ギャラリー)に出品。
11月、大阪現代アートフェアー10回記念特別展’92(28日−12月3日、大阪府立現代美術センター)に出品

1993年(平成5)

8月、浅野弥衛・久野真二人展(28日−9月25日、桜画廊)
12月17日、長年の盟友ともいえる桜画廊の藤田八栄子死去。

1994年(平成6) 80歳

3月、藤田八栄子追悼展 PART1(26日−4月8日、桜画廊)に出品。
7月、昭和・戦後の洋画展(28日−9月3日、釧路市生涯学習センター・アートギャラリー)に出品。
10月、心で見る美術展(1日−23日、名古屋市美術館)に出品。

1995年(平成7) 81歳

2月、線の動向展2(22日−3月25日、ベイスギャラリー)に出品。
5月、線について−不在のモダニズム、不可視のリアリズムー展(20日−7月2日、板橋区立美術館)に出品。
12月、159回記念チャリティー展(1日−20日、INAXギャラリー2)に出品。

1996年(平成8) 82歳

1月、浅野弥衛展(4日−2月18日、三重県立美術館)
1月、浅野弥衛展(27日−3月2日、新桜画廊)

2月22日 逝去。


凡例

  1. この年譜は浅野弥衛の生涯を概観できるように、1914年(大正3)から1996年(平成8)までを、展覧会歴を中心としてまとめたものである。
  2. 個別の事項、展覧会歴のあとに、引用文を補うことで、その年の浅野の動静を示すようにした。引用文中に年号が記載されていないものは、その同じ年に発表されたものである。
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