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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1996 > 絵と暮らす日々という仕事 東俊郎 浅野弥衛展図録

 

『浅野弥衛展』図録(1996)

絵と暮らす日々という仕事

東俊郎

 絵を描くことが、楽しくて、楽しくて、楽しくて、楽しくて仕方ありません。

 1990年に友人に出したという浅野弥衛さんのこの手紙には、浅野さんの口調を知っているひとなら、その独特のイントネーションがよみがえって、循環形式のソナタのくりかえしのようなことばにおもわず口許が綻んでしまうなにかがこもっている。そのなにかとは、意外の感じをふくみつつ、やっぱりそうかと底の底からの得心をうながすことになるカのつよさだといっていい。別のところで浅野さんは、それまでをふりかえって「好きだから描くという行為があるだけだった。単純な人間なのであろう。」ともかたっているし、なぜ画家になったのかと問われて間髪をいれずに「絵が好きでしたね。あの、これはまあ気取った言い方でなしに、好きでした。」などともいっている。こういうときの浅野さんは、たとえば自作の縞模様の作品について、「これはさナ、わたしのナ、生涯最大の傑作だと思っているんですニ」などというときと同じで、ちょっとひとを煙に巻く風情があたりにただようことになる。いったいこれは素直に信じていいのだろうか。けっこう韜晦してるんじゃないか、とよけいに気をまわすほうが大方で、だからみんなそこでつまづくのである。理につまづいて、みえているものがみえなくなってしまう。古人はうまくいったものだ、理二定準ナシ、と。そんなくらいならいっそまるごと浅野さんを信じたほうがいい。いや信じなくてはいけない。

 するととたんにはなしはとても簡単になって、ようするに浅野弥衛さんの絵をみるとは、絵を描くことが好きなひとの絵を、ただ絵である絵をみることが好きなひとがみること、というそれだけのことにすっきりとつながる。楽しく描かれたものは楽しくうけとる。それだけなのだ。そして、この両端からの歩みがであってできた、広いのかせまいのかわからない道のうえを、風にふかれて土手を歩くようにゆくことができれば、描くひとの幸せは自然みるほうの幸せにならないでいないだろう。そういえば浅野さんは絵をかくのに苦しんだことはないともいっていた。腕をみがく職人の苦心はあっても、精神とか魂とかにかかわる藝術家の苦闘苦労はしていない、というこころだろう。およそ藝術家らしくない。鳥の羽掻きの百羽掻きはひとにはみせないというダンディズムともちがう。いったい浅野さんほど気取らない気さくなひとはいなくて、黙ってすわっていればただの小柄な老人だが、いまいいたいのはそういうことだけではない。

 たとえば詩人とは詩もつくるただの生活するひとであるのと同様、藝術家とは藝術をつくることもするふつうのひとであって、けっしてそれ以上の、たとえば天才なんかではないということだろうか。かれらはものをつくる。ようするにただ詩をかき、ただ絵をえがく。そんなふつうのひとでしかない自分をつとに見切った涼しく澄んだ眼つきをもって、浅野さんは几帳面な銀行員のようにアトリエにむかい勤勉に仕事をする。仕事としての藝術。そんなみかけにかかわらず浅野さんの作品は、腕のたつ左官が丹念にしあげた壁のうえにいたずら小僧がおもいきりよくかいて逃げたあとの落書きにいつだって似てしまう。

 浅野弥衛さんがかくものは抽象画ということになっていて、その抽象一筋とか一本槍のひとだとか、もっとすごいのになると日本における前衛的な抽象絵画の草分だとか呼ばれる。どこかちがうんだなと思いながら、説明するとなるとついこんな風な便利な符牒をつかって、あとできっと悔やむことになる。まあ抽象画であることはまちがいないけれど、浅野さんの絵を抽象画というとき、なにかが小骨のようにひっかかってくるのを感じるのもじじつだ。

 ごくわずかの例外をのぞくと、浅野さんの絵はたやすく記憶するようにはできていない。なかなか区別がつかなくて、なんども確かめることになるのだが、ほんとうは微妙にみんな違っている。ひとつひとつに発明があり即興の冴えがあり、したがって同じものは二つとないことがわかって、今度はそのことに驚くことになる。かぎられたせかいの豊かさ。単純であることの複雑。頭でかく絵にはそんなことはないだろう。浅野さんの絵は、だから、頭の指令によって差別されることなく、いま・ここの感覚にあふれた自由にみちびかれて、ただそこに存在すべく描かれてそこにある絵、だから機縁がつきれば消えてしまってもかまわない絵だといっていいのではないか。不死をねがうよりも、今日は今日の挨拶をだいじにする。まえにただの絵といったのはそういうことでもあり、抽象は抽象でも、いま自分は抽象画を描いているという不断の空念仏がかろうじてささえる底の絵ではない。そんな量だけの記号だけの、体質にも日常の生活にもつながらない絵は、ただの絵だからただそこに存在することができる浅野さんの絵とは、まったく似て非だといったほうがいいだろう。

 だからもっと別のいいかたに変えたほうがよくて、浅野弥衛さんを抽象画家というより、体質にあった絵だけをつくりつづけてきた画家だといったほうが、簡単だし、わかりやすい。あくまで体質がさきであり、抽象なら抽象はあくまでその結果にすぎないのである。では、その体質はということになるのだが、なによりもまづ浅野さんが好きなのは、おなじ質のものがいっぱい集合しているものだった。

 たとえば細胞の組織、和服の縞模様、森のなかに堆積する落葉、田植えのあとの水田、漁網、夕暮の太陽の斜光、石をつんだながい垣根、イクラ、藁のまじった土壁、ブラウン運動する粒子、水鳥の大群、年輪や木目、天の河の星星、秋の収穫のまえにそよぐ稲穂、仕切られた箱のなかのお団子、煉瓦をつみあげた壁、葉をおとした冬の疎林、切通にあらわれた地層、結晶したもの、そして風の渦巻。いまぽくは浅野さんの絵を思いだしながら、いたづらに同質がよりあつまったものを想像してみたのだが、当らずといえども遠からず、こんな風なものを浅野さんはきっと好きなのだろうし、そういう好きなものが素材となって、あの抽象画がうまれてくるのにきまっている。上っ調子なところが微塵もない。ということは、おもいきっていうと、あやふやな知識や模倣でしかない模倣をたよりに抽象画から抽象画を、絵画から絵画をつくるのでなく、親からもらったみずからの眼と手だけをたよりに、浅野さんはぢかに自然と交渉してそこから作品のエネルギーをくみだしてきたということになるんじゃないか。

 そういうわけで、その自然なるものにしてもそれは体質をとおして、体質によって偏光がかかった自然であって、だから浅野さんのばあい、自然という素材は浅野さんの身体をくぐりぬけるとき猛烈に屈曲し、いったん無にかえるかとみえながら、あらためて作品となって甦ってくるわけだが、そのときほとんどもとの姿をとどめないことになる。本質だけがのこったからではない。ここが大事なのだが、そういう精神性とはまったく縁がないところで、質量をエネルギーに変換しようと、浅野さんの感性は光の速度で運動しているのに、それがぼくらにはなにかゆるやかな太極拳のうごきのようにしかみえない。それが浅野さんの作品につまづくというか、途惑う最初にして最後の理由になる。古くから浅野さんのひととなりを知悉していた野田理一には、そのあたりがよくみえていたから、つぎのようにかくことができた。

彼には早くから例えばある種の自動車の塗料、車体、スタイル、スピードを何か別の価値に
転化する感性上の習性のようなものがあった。

 そうではないだろうか。この感性のひとはみたくないものはみてみない。ききたくないものはきいてきかない。いやなものはいやという幼児に似た分別。そんな一種とくべつな恩寵によってえらばれたごく少量の見られ聴かれたものたちが、変形に変形をかさねたせいで出自をすっかり忘れてもう一度せかいにでてくるという意味で、、浅野さんはきわめて特異なブラックボックスなのだ。そうそう、このふたつの体質以外にもうひとつ、乾いたものが好きだということもあった。たしかに浅野さんの作品はどれも乾いている。熱い抽象とも冷たい抽象ともちがった、これは乾いた抽象なのだ。そこにひろがるせかいの感覚はひとめで認めても、いっぽう感情はみつけにくい、と。ほんとうだろうか。かたよったものがないだけなのであって、やがてだれもが、砂丘の砂がうごいてできる風紋が月の光にかすかに濡れたのも同様の無垢のポエジーや、清潔であることだけがもつ自らの弱さと傷へのひかえめな自負や、きょうやってきたばかりの秋風が大地をそっと引掻くそのリリシズムを感じないでいられなくなる。非情之情、非楽之楽という逆説。落葉のうえをかさこそとはしる跫音の響きと星雲から石榴までの距離が絵の表面からおなじ深さでおなじ拍をうっている、このナンセンスなイノセンス。そしていうまでもなくこのナンセンスは手ざわりがある。

 すぐれた絵とそうでない絵はどこがちがうのか。すぐれた絵をえがく画家は必ずじぶんがつくった作品にふかく影響される、一種の交感能力をもつ種族のことだとぼくは信じている。みえないものを描くのではなくて描いたものがみえるようになる。えがきながらえがくことを発見するとも、或は作品が画家をつくるともいいかえられる。たとえば浅野弥衛さんはなぜ好んで白と黒だけの絵を半世紀ちかくえがきつづけてきたのだろうか、というのは誰もが感じないでいられない疑問なのだけれど、無理をして答えようとすると、絵のことはわたしではなく絵にきけという含蓄のある浅野さんのことばからそれてゆくばかりで、そんなことはうっちゃって、まづ、黒と白のせかいをただそこにある所与としてみとめるとともに、その浅野さんの絵のせかいにはたらく線の力学が、迷走するかとみえてじつは天の極をめざすように、みえるはずの色を空とし色のせかいから透脱すべく浅野さんを導いていったことの不思議を、それこそ何度も、作品のまえにたつごとにその絵とともに不思議がったほうが、絵にたいして親切だし、そして正しいような気がする。だいいちせかいはひろがるし、いっそう深く感じられるんじゃないか。

 手ぢかなところに水墨画といういい例がある。水墨画家が色をすてたのは、ものを再現するちからに欠けた墨に余白の白があれば他になんの不足も感じなかったからであり、すてることによって残った単純な色なき色のうちに、かえって無限のニュアンスをひきだし、表現にしばられずにえがくことの自由という初心にかえることができる、ふかい知恵をかんじたからである。ところで、そういう水墨画と浅野さんの絵とは似ているのだろうか。似ているようでもあり、似ていないようでもある。ただひとつたしかなのは、浅野さんにとって黒と白のせかいが、狭いながらに楽しいわが家の、もっともらくに息のできる場所だということで、その壺中天の自然にたつ以上、色にとらわれて、のびのびした気分をうしなうことはない。ひとつの色にひそんだ未知のちからをとりだして感覚を刺戟するのはだれか他人のしごとであって、浅野さんの視覚は色そのものというより、色と色の差異とか諧調とかに敏感に鋭く反応するのが得意なので、墨のなかに五彩をかぎだすちからを十二分にはたらかせるとき、もののあわいをゆききする空気のながれのように微妙なうごきの、あまりに微妙すぎて無情に似るそのゆたかさを、ぼくらの眼のまえにさしだしてくれるのだ。それはまた、固有の名をもつ個物をきわだたせ、せかいをその個物と名のつまった袋にするのではなく、色と名を剥ぎとったあとにうまれるはずの絶対平等の相としてみようとすることにつながるのだろう。そして、この個物を無名にかえす、そのかえす手つきで、みずからの作品を、だれによってえがかれたのでもいい絵へと、砂地に一瞬yae asano とかいたまま、たちどころに波によって消されてゆくあれら無名の海へとなげいれるのだ。もっとも、これもみんなよけいで、わたしは単純な人間で、ただ体質にしたがってつくっているだけですニ、と、浅野さんにはかるくいなされてしまうだけかもしれない。

 それならば、こっちも単純に、白と黒の組合せは最高に洗練された感覚で、お洒落な浅野さんにこれ以上ふさわしい色はないとだけいっておこうか。野暮ったさは浅野さんの作品に似あわなくて、いっそ粋とかイキとか呼びたくなるし、ひとによっては趣味的ともいわれてきたが、ここでわすれていけないことは、その粋なら粋が都の手振りではなく、あくまで鈴鹿という鄙のくらしに根づいた日々の生活を元手につくりあげた粋であることだ。野趣をおびたエレガンスはひとからの借りものではないから、みかけよりけっこう頑丈で武骨なところもある。表面のきれいさを一枚はげばその下にはなにもない種類の絵とはちがう。暗黒星雲の虚無の黒のように人跡未踏の高地にふりつもる幻の雪のように、それら浅野さんの手によってカンヴァスや紙のうえに生をえた色は清潔で不純物の痕をとどめず、植物にも動物にもない、あえていえば不死に似た鉱物質の無垢によって断然つよく輝きつづけるのだ。

 浅野さんの作品は抽象画だが、そこにはまぎれもなく日本があるということも、いっておいたほうがいい。それは多分この島国の空気をはなれて遠くはヨーロッパ、近くは韓国にでももっていってみればもっとはっきりと端的にわかることで、しかし、それなら浅野さんはいつも日本的な抽象画を意識してめざしてきたかといえばけっしてそうではない。むしろその逆だったはずである。たとえば鳥海青児は日本的な油絵を確立しようとして苦しんだあげくに油絵の日本をつくりだしたわけではなく、もっとちいさなところで、そうするしかない自分にしたがっていたら、気がつくと自ずとそうなっていたというのが正しい。浅野さんもそうだ。せかいのなかの日本とか、日本文化の本質はといったたぐいの真剣なようでじつは不毛な思想であたまを悩ませたことなどちっともない浅野さんのほうに、かえって、ふりかえってみれば自然に日本が刻印されていたという、たったそれだけのことだ。そしてこのそれだけのことが、じつはすごい。なぜだろう。

 自然は自然にうまれない。自然にということばはつきつめて考えると、その対極にある不可避ということばとほとんどみわけがつかなくなるからだ。自然に,描くとは不可避の契機にうながされて描くことにひとしい。風にまかせた偶然はそとからはかぎりなく受け身の姿勢にみえながら、そうしかできない必然の道行をふんでゆく。このことは浅野さんのばあい、またしても例の体質に従順に生きるということにとおくつながっているのだけれど。たとえば二十歳前後に浅野さんは野田理一がヨーロッパからとりよせた画集ではじめてクレーやミロやカンディンスキーなどを知るのだが、そのときの反応はすこし風変りかもしれなくて、

驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだっ
てそうだ。日本に昔からあったんや。

 ということになった。驚くのはじつはこっちのほうで、ほんとうは風変りどころか、こういうのがちゃんとした大人の感覚というものだが、現代ならいざしらず、昭和初期の青年にしてはとびきりの見識にみえるものの、浅野さんにしてみれば、本で読んだのでもひとから聴いたのでもなくて、ただそう感じたからそういったまでにすぎなんじゃないか。どこからやってきて、どう播かれたかもわからない感受性の種子がこころのうちに育ってすでにそこにあった、という風に。そしてこのことと、戦争中の一時期をのぞいて、生れ故郷の鈴鹿をついに離れることなく住みとおしたこととは深い関係があるというか、ようするにおなじことなのだ。

 いま自分がいないところでならきっと幸福になれそうに思う。山のむこうにしあわせの青い鳥がいると憧れる。欲望とはつねに他者の欲望だ。これがひとり画家だけではなく、近代の日本のすべてをつきうごかしてきた思想であるとして、浅野さんのどこをさがしても性急で地に足がつかないこんな思想はみつからない。かれは頑固なのか従順なのか、とおくまでは届かないが自分にもっとも親しい眼のはたらきだけを信じ、そこにいまあるせかいを素直にうけいれる。うけいれたそのせかいは断片であり部分にすぎないとしても、そこになんの過不足もないことをこの視線は同時に発見する。発見を支えているのは、じつは浅野さんの偏愛であり、愛することのなかにしか全体なら全体は現成しないのが、人間のこころというものの仕掛なのである。無欲は大欲に似るという。手につかめるものしか信じない浅野さんの身ぶりは、夜明けとともに起き日暮とともに仕事をやめる農民的で健康な思想、いや無思想にちかいとみえて、そういう営々とした手仕事のなかに、かえって日本はあざやかに姿をあらわす。かたちだけ伝統をなぞってみせた日本趣味と、いっけんどこが日本かみわけがつかない浅野さんの絵とくらべて、どちらにほんとうの風土の匂いが香っているかはいうまでもないし、又それをあえて日本的だといいつのる必要さえないほど、それはみごとにふつうの姿で、すでにそこにある。

 まだいいのこしたことは多いが、もうあとがなくなった。浅野さんの作品をずっとみつづけてきて、もっとも感嘆するのは、どこかに人語の響きをのこしながら空林をながれる朝の大気のような清潔さの印象もそうだけれど、それより持続のちからということになるだろうか。白地に黒線のはいった例の引掻きをいま思いだしているのだが、浅野さんの作品には手をぬいた部分がみつけようとしてもなくて、張りすぎず緩めすぎず、どこまでも純一の密度でせかいがひろがってゆく。つくるひとはさぞ疲れるんじゃないかと、こっちが心配になるくらいだ。どの任意の点にも均質にエネルギーを配分するみごとさからは、藝術家の作品というよりとびきり腕のたつ職人の仕事のほうを連想してしまう。ところでこの無私と意識のあいだを自在にゆききしてとぎれないかにみえる無数の線の絵を、息を吸ったままとめて一気にひいたのならそれは緊張のちからだろう。でもちがう。浅野さんの線は線じたいに肥痩はないけれど、あれは緊張のうちにひといきになったとみえて、じつは吐く息と吸う息のやわらかなリズムをくりかえすうちに、みかけよりはゆっくりとできあがったものにちがいない。楽しみながらでしかつづかないしごと。持続のちからというのは、つまりそういうことだった。そこには遊びの余地があるから、いつでもやめたいときにやめ、そのあと、やめたところに戻って、なにごともなかったようにふたたびはじめることもできる。これは霊感をあてにして抒情詩をかく詩人の流儀ではない。一心不乱の、はりすぎて意外にもろい緊張のちからにくらべ、この持続のちからはしなやかで、集中と放心がおなじことであるような、ちからなきちからの感覚にみちている。

 それから作品のムラのなさ。ひとつの作品についてだけでなく、四十年をこす画歴にわたってもそれはいえて、気まぐれが平常心の足なみをくずすことなく、フリーハンドで描かれた浅野さんの線に似て、日を継ぎ夜を継ぎ、おなじ水準をたもって衰えることがない。いったいこんなことができるためには、作品の持続をつつみこんでいる生活の持続がなくてはいけないし、そしてそんな風に持続する暮らしはなんといってもシンプルにきまっている。単純な生活。じっさい浅野さんの暮らしは次女の美子さんの書いたものをよむまでもなく、季節の交代のようにとても正確で規則的であるらしい。スタンダールは自分の生涯を要約して、「生きた、愛した、書いた」という墓碑銘をえらんだというが、浅野さんだったらもっと簡潔になるだろう。描いたさえ余計で、暮らしただけですむかもしれない。なぜなら、藝術のためなら生活は犠牲にしてもかまわないという藝術至上の思想など浅野さんからはぜんぜん匂ってこないからである。生活が第一といいきるわけではないが、生活をとるか藝術をとるかというもんだいは、浅野さんにとって、それこそもんだいにならないということだろう。

 なんだか藝術家らしくないというまえに、絵をえがいているとき以外の画家はふつうのひとでしかないのはあたりまえのことであって、そういうふつうの日常にみちた暮らしのなかから浅野さんの絵はうまれてくる。このことはだいじだし、だから逆に、その絵は暮らしのなかでみられたがっているということにもなる。ところで暮らしといえば、旧参宮街道に面した浅野さんの自宅は、京風の町屋づくりの、間口はせまいが奥の深い、かつてはどこでもみられた、建ってから二百年とも三百年ともいわれている旧家である。うすっぺらな装飾はどこにもなく、うす明りの土間に空気はひんやりと冷たく、そこでは風は風であり、そして闇は闇で、時はただしく時を刻み、ようするに嘘いつわりというものがない。まるで浅野さんの絵にそっくりだな、と感じるのもあたりまえで、しっさい床の間のある客間におかれた浅野さんの絵はまわりの障子の桟や壁の色にしっくりとあって、はじめからそこにあったみたいに異和感がなかった。その家でみせてもらった絵が、そんな風にただそこにあるとき、他のどこでより、もっともしあわせそうに輝いていたような気がしたのをいま思いだしている。こんなとき題名などはよけいなだけである、と感じたことも。ただそこにある浅野さんの絵。それはなにかを主張するくらいなら、いっそなくなってしまいたいと願っているかのように寡黙だ。そんなわけで、ただそこにあることだけを願う絵に対しては、ありもしないものを捜したりせず、ただみるのが礼儀ではないだろうか。ただそこにあるものとしてみる、或はみないということ。いや、ぼくらがそうしようとするまでもなく、ただそこにある絵はただみることしかできない。それに向かってなにかを問いかけてみても、たぶんなにひとつ答えてくれない。レオナルドの天使たちのように。それでいいのだ。答えてくれたら、もっとそのさきへすすめない。ぼくらが成熟するのは問うことによってなので、答えをおしえてもらうからではないのだから。そして浅野さんの絵は答えてくれないかわりに、日々のくらしをぼくらとともにし、いつもそのそばにある。ただそこにあるだけだという顔をして。いったい、これ以上に清潔な対話があるんだろうか。

(ひがし・しゅんろう 学芸員)

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