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中村彝の静物画

牧野研一郎

 「かつてセザンヌ翁の略伝を本誌に掲げてから,はや2年余の歳月が過ぎ去った。その間日本の洋画界は様々な,あり余る刺激を受けた。創作にも多少の試作が表れた。ポスト・アンプレショニストを説くもの,キュビストを説くもの,フュトウリストを説くもの,欧州画界の一顰一笑はことごとく,極東の青年画家を狂せしめざれば止まざらんとするほどの勢いである」(有島生馬「セザンヌを懐う」『白樺』明治45年9月)とあるように,印象派から後期印象派,キュビスム,未来派にいたる西欧の美術思潮が一挙にもたらされたことによる混乱と白熱は,この文章の書かれた年の11月に開催された第1回フュウザン会展で鮮明に記憶されることになるが,中村彝もまたその渦中にあって,図版から得た知識をもとにセザンヌ風,ゴッホ風の静物画を描きはじめている。


 中村彝が静物画を試みはじめるのは,これまでに知られている作品等から明治44年(1911)であるようだ。鶴田吾郎によると,彝は溜池の白馬会研究所時代(明治39年)に既にカミーユ・モークレールの印象派の本を読んでおり,またこの年「洋画講義録」第十回懸賞絵画で1等質を受けた水彩画「夏のニコライ」の講評にもあるように印象派の技法を既に試みてもいる。明治41年(1908)の荻原守衛との解逅によるレンブラントヘの傾倒と並行して,彝が印象派の研究を進めていったことは,明治43年(1910)の第4回文展に出品されたレンブラント風の「自画像」と,「海辺の村(白壁の家)」の印象派風とによって明らかであろう。またこの頃,画集や,山下新太郎からの影響が相俟ってルノアールにも魅かれている。自画像におけるレンブラント,風景画における印象派,婦人像におけるルノアールと,描く対象によって全く様式を異にしながらも,各々を極めて短時日の間によく消化して,初期の代表作を生んでいるのには驚くほかないが,これに静物画におけるセザンヌ,ゴッホが加わってくる。図式的に明治末の中村彝の軌跡を見るとこういうことであろう。


 「展覧会へ行って静物画を見ると,無意識の間に一種の軽蔑心が起る。『なんだ,静物か』とよく口にしているのを聞くことがある。又,見物するものの身になってみると,人物ならば,其情景に喜怒京楽があり,又は特殊の性格表現があるから興味を繋ぐ力が強く,風景ならば春夏秋冬の別から朝夕の分ちまで皆面白い鑑賞の当体となり得る。然るに静物となると,多寡が五銭か六銭で買へる北海道の林檎か何かが,安価な皿の上などに載っているのであるから,さっばりつまらない。−中略−巴旦杏を写生した静物画を見て思はず唾を飲ませる様な事があったらそれこそ此が最上の価値である,と位にしか感じて居らぬ人が多いのである。此が日本に於て,今日の静物画が取扱はれている状況である。可哀想な次第である。」


 明治44年(1911),高村光太郎が「文章世界」に寄せた「静物画の新意義」と題する文車の一節である。周知のように高村光太郎はこの前年「スバル」誌上に,日本の印象派宣言ともされる「緑色の太陽」を発表,石井柏亭らの重視する“芸術の地方色(ローカルカラー)”に対して“芸術の絶対の自由”をかかげて,印象派以降の造型思想に共鳴する画家の立場を代弁し,自らの方向性を見定めかねていた青年画家たちに多大の影響を与えるとともに,自ら画廊琅かん洞(ろうかんどう)を開き新傾向の画家に発表の場を与えていた。高村光太郎は「静物画を今日の日本に於ける境遇から助け出したい」という目的からこれを執筆したという。それでは高村がそのような現状認識を持つに至った当時の静物画のありようはどのようなものであったのだろう。初期文展における静物画の動向を見ると,第1回文展(明治40年)では油絵出品総数91点のうち静物画が5点である。以下第2回展が101点中7点,第3回展98点中3点,第4回展127点中6点,第5回展97点中4点,第6回展72点中2点となっている。これら初期文展の静物画の主だった出品者には,神中糸子,田崎延次郎,高橋勝蔵,永地秀太,石川寅治,和田英作がいる。神中糸子は工部美術学校でフォンタネージに学び,明治美術会の創立に加わった女流洋画家の草分け的存在であるのは言うまでもない。田崎延次郎も明治初年代に国沢新九郎の彰技堂に学び,その後やはり工部美術学校でサン・ジョバンニの教えを受けている。高橋勝蔵,永地秀太,石川寅治は明治美術会に出品,明治美術会解散後は高橋は川村清雄の率いる巴会へ,永地,石川は太平洋画会の創立に参加している。和田英作は東京美術学校教授,白馬会の創立会員で文展審査員。こうしてみると,和田英作を除き,初期文展の静物画出品者の殆んどが明治中期までにその画風の基礎を築いた人々で占められ,白馬会系の画家たちが静物画という分野を軽視していたことが明瞭である。このうち石川寅治は初期文展において静物画で2回賞を受けており,初期文展の代表的な静物画家であったといえるが,その石川の文展出品作に対して,「方寸」明治41年11月号の「方寸」同人による合評中に次のようにある。「けれども実に旨いもんだ。方々の食堂へ供給するには持って来いの絵だ。予約がある訳でも無いのかしら。」高村の語ったように,静物画に対する軽侮がここにあるが,高村自身は石川の作品に対して次のように批評している。「私の欲する所とは固より対角的に反対のものであるが,石川氏の作品の中では近頃此程確かなものを見た事がなかった」(「讀賣新聞」明治44年11月10日)。高村が「静物画の新意義」で説いたのは,セザンヌの静物画を念頭において,印象派の画家が「感覚の存在が《自己》の存在である」という自覚の上に,純粋な感覚の実現の可能性を,人物画や風景画にまとわりつく意味連鎖から比較的遁れ易い静物画に見出し,「その平凡な,些細な物に,主観の感覚が働きかかって燃焼を起すと,其処に宇宙大な生命の生れる事を喜んだ」ように,新しい生命感に溢れる静物画の出現を待望するというものであったから,石川寅治に代表される静物画は,旧態依然のステレオタイブのものとして,新しい静物画によって克服されねばならない対象であった。


 高村が説いたような理念にもとづいて日本人が描いた静物画を最初に見る機会は,おそらく明治43年,高村の文章の発表される前年の7月に白樺社主催で開かれた「南薫造,有島壬生馬(生馬)滞欧記念絵画展覧会」においてであろう。この時,有島生馬は「林檎と梨」(挿図)ほか数点のセザンヌ的な静物画を出品している。「白樺」等の作品図版,有島の作品,高村による啓蒙によって,静物画への関心が急激に高まったことは,第5回文展(明治44年)に出品された松村巽の「果物」や,岸田劉生の「僕はずっと前殆んど盲目的にゴオホ辺りの影響をうけてゐた頃に静物をかいた事もあるが一体静物は描かなかった」(「自分の踏んで来た道」『劉生画集及芸術観』所収)という言葉や,松村巽や岸田劉生とともにフュウザン会に加わった萬鉄五郎のフュウザン会出品作に静物画が含まれていることにもあらわれている。



有島生馬
「林檎と梨」1907年


〔初期の静物画〕1911─1914

 岸田劉生が「殆んど盲目的にゴオホ辺りの影響を受けてゐた頃」に,中村彝もまた殆んど盲目的にセザンヌやゴッホの静物画に接近している。静物画の最初期にあたる明治44年(1911)に制作されたものとしてはこれまでに3点が知られている。皿に盛られた果物が描かれたセザンヌ風の「静物」,ゴッホ風の激しい筆触を見せる「ダリヤ」(挿図),美術新報社主催の「新進作家展覧会」に出品された「ヒヤシンス」である。翌年4月の第10回太平洋画会展には「静物」等3点が出品されている。太平洋画会展出品の「静物」(本展出品番号No.13)は,前年の,中原悌二郎が語ったように,いかにも図版から触発されて一気に描きあげたかのような,習作的なものとは異なり,後方に白布,前方に水差し,林檎,コーヒー茶碗,ミルクパンを配置するといういかにもセザンヌ的な構成に配慮が払われている。この作品の他この年の作品とされているものに「牛乳瓶のある静物」(No.14)「リンゴと瓶のある静物」「花」「静物」があるが,いづれも前年の作品と比して,彝がこれまでそうであったように長足の進歩のあとがみえる。また大正2,3年頃とされる静物3点が知られている。注目されるのは,花をモティーフとしたものと果物等をモティーフとしたものとではその筆法を全く変えていることである。彝は「物の『ねうち』」と題して次のように言っている。


 物には元来価値はない。ただ見る人によって,物の価値はき まるのだ。平凡なものも天才には無上の価値となる。ミレーが現れるまで,人は百姓の生活があんなに神々しいと は思はなかった。セザンヌが生れて,人は林檎の美と神秘とに驚いた。ゴッホに依って,初めて向日葵は天堂を飾るべき瑞宝の荘厳を示現したのだ。(『藝術の無限感』)


 初期にあらわれた,こうした傾向はその後も彝の静物画に度々あらあれることになる。それがまた制作年の推定を困難なものにもしている。


 このように静物画においては,中村彝はセザンヌとゴッホの忠実な模倣者としてあらわれる。大正3年(1914)の大島行きまでに制作された初期静物画群には,静物画の発見による昂揚が刻印されてはいるが,セザンヌの静物画における空間の意識についての理解は未だ充分なものではなかったように思われる。



「ダリヤ」1911年


〔中期の静物画〕1915−1919

 「大島から帰へって釆てから生活は勿論ですが,絵が丸で変って終ったのに自分でも驚いて居ります。先々週初てパン屋の赤子を描いた時にも,その結果が余りに今までと臭って居るのに驚きましたが,その後その傾向は進む一方です。統一からくる自由と充実とが次第に画面を支配する様になりました。今週は苺を描いて居りますが,これは確に自分としては傑作の一つだと思って居ります。自分の作からは未だ嘗てこんなに生々しい真実な力を感じた事はありません」と大正4年6月1日付の伊藤隆三郎宛書簡に彝は大島から帰ってからの制作について書いているが,確かに書簡中にある「幼児」(No.40)にしても,6月2日の年記のある花を描いた「静物」(No.41),あるいはこの書簡にある苺を描いた静物に該当するかまたはその展開と思われる「苺」(No.62)にしても,それ以前の作品とは一変して,薄塗りで柔かな筆触を重ねる透明画法を用い,物の輪郭が周囲の空気の中に溶解して,画面を柔和な光が充たすという,ルノアールの1890年以降の様式の影響が明瞭な作品となっている。勿論,大正3年(1914)東京大正博覧会に出品された「少女裸像」(No.32)にもルノアールの感化は明らかであるが,彝が後にルノアールの裸婦のバックを形容して「仏身を包む瑞気」としたバックへの配慮を欠き,線もまだ生硬さを残している。またこの間にはさまる第8回文展出品の「小女」(No.34)のセザンヌ調,さらには大島での作品はセザンヌの描法を用いながら「きわめて自発的に生まれたフォーヴ的もしくは表現主義的作品」(浅野徹『中村彝』至文堂)とも評されるものであるから,大島から帰った直後のこの作風の急変,ルノアール理解の深化には何らかの視覚体験がなければならないが,それがこの年4月の太平洋画展に陳列されたルノアール作品であったことは,「ルノアールは是非見ておく必要があります」という同年4月3日付の伊藤隆三郎宛書簡によってわかる。彝は後にルノアールの芸術を評して「統一と充実」「山の様な充実と悠久感」としているが,そうしたルノアール観というものは書簡中の自己の作風についての記述にも明らかなように,この大島から帰った直後の,精神的な安定の拠点を求めようとした時期のルノアール体験に深く根ざしていよう。中村彝にとって大島行きの前と後ではそのルノアール観は全く変質したように思われる。人物画においてはこうしたルノアール解釈を深化させることによって彝の世界が次第に開示されていくことになるが,静物画においてはルノアールの影響は大正4,5年の2年間にだけあらわれている。


 静物画における彝のセザンヌへの回帰は大正6年(1917)以降と思われる。この前年の3月に彝は洲崎義郎氏よりセザンヌ画集を贈られ,「私もあの本を見てから,一層セザンヌを好くようになりました」と書簡に書いているが,即座にそれが画面には反映されなかったようである。そしてセザンヌへの回帰以前に,「大正六年二月」の年記のある,ゴッホ風の烈しい筆致による「静物」(No.57)と,大正6年頃と推定されている,やはりゴッホ風の静物3点がある。


 このうち「ダリヤの静物」(No.61)と題された作品は,明治44年作の「ダリヤ」と構図や筆触が似ていることから,その制作年に疑問が呈されているが(舟木力英「中村彝の書簡と作品」日立市郷土博物館紀要1),確かにこの作品も含めて大正6年頃と推定されている一群の静物画についてはその制作年について更に考究されねばならないであろう。大正8年(1919)に至って,セザンヌの影響という域を超えて彝独自のスタイルを獲得したかに思われる「ダリヤの静物」(No.72)が生まれているが,この年以降12年まで,「コスモスのある静物」(大正10年頃)1点を除き静物画の空白期となる。


 

〔後期の静物画〕1913−1914

 大正12年(1913)の夏,多湖実輝の好意で第一高等学校の生物学教室より借りた髑髏をモティーフに静物2点(No.89,No.90)を描いていた折に関東大震災にみまわれた彝は,「この度の震災によって私はつくづく,絵を(思ひ)かく事以外に自分の心に絶対の安心を与へ,死に打ち勝つべき道はないといふ事を痛感しました」(9月18日付洲崎義郎宛書簡)と述べ,「ここ当分は画室にとぢ籠って,ひそかに静物画を描きます。しかしこの脆拝すべき崇厳と合掌すべき慈護の精神が充分に表はれるようなものを描かねばなりません。その為には従来の静物画の描図法を全然破って,全くシンボリックな方法でやって見る積りです」(同書簡)とその構想を漏らしている。また9月23日付の中村春二宛書簡では「画室に立戻ってから,一昨日までに十五号大内外の静物を三枚立てつづけに描き,今は来週描くべき二十五号の静物の準備中です。これにはあのゴシック寺院の内部に見るが如き,あの厳粛な神秘と無限感とを表はして見度いと念じています」とあって,紛1週間で3点の静物が描かれたことが報告され,また次の段階が告知されている。この3点のうち1点は,「朝顔」(挿図)であることは,翌年1月8日の今村繁三宛書簡の「昨年の秋震灸後まもなく落着かない騒ぎの中で興奮して描いたもの」という記述から明らかであるが,他の2点についてはこれまでに様々な説が提出されてきた。最近では描法・モティーフ・構図の近似から舟木力英氏は前掲論文において他の2点を,「花」(No.91)と『中村彝作品集』(1926年)No.45の「静物」に比定されたが,今回の展覧会で初めて公開される「花」(No.94)もその激しい表現主義的な描法と構図(特に茨城県立美術博物館の「花」とバックの処理が近似している)において,「朝顔」「花」と一連のものと見られる。この問題については今後の課題として残しておきたい。


 10月5日付の洲崎義郎宛の書簡では2つの静物画についての構想が述べられている。一枚は「先きの髑髏の静物の延長で,あのコンポジションを少し変換して,建築物の残骸や,毀れた車輪,布片,破れ人形,ペーパー,鉄片等の堆積中に髑髏をころがして描いて見る積りです」という,震災に触発されて自己の死後の状況をのぞいてみようというシニカルなもので,今一枚は「全くゴシックの無限感と神秘感とを表現すべき線の錯綜の研究です」というものである。前者は結局実現されずに終ったが,後者は「カルピスの包み紙のある静物」(No.92)がそれに該当するであろう。「朝顔」の錯雑とした線がここでは必要最少限にまで整理され,宗教的感興を高めるために,自分で作った教会を摸したパネルを背後におき,壁龕を描くなどの工夫がなされている。


 この作品において彝は,高村光太郎らによって啓蒙された近代の静物画の理念から逸脱し,新たな静物画の可能性を垣間見させるのだが,その展開を我々は見ることができない。

 明治洋画は,その劈頭に,「絵事ハ精神ノ為ス業ナリ」(「高橋由一履歴」),「画ハ物形ヲ写スノミナラズ併セテ物意ヲ写得スルガ故ニ,人ヲシテ感動セシムルニ足ル」(「油画史料4」)とした高橋由一による「鮭」「豆腐」など日常の身辺に題材を得て迫真的な写実をみせる一連の静物画を持っている。由一以外にも,初年代には,岩橋教章の「鴨の静物」や国沢新九郎の「静物」,あるいは少し下って川村清雄の「画室」(焼失)がある。こうした明治初期の,油彩画の揺籃期にしては稔り豊かな静物画が,その後30年の明治期に何らの展開,熟成もなく初期文展にまで到るのは,思えば奇妙な光景である。外山正一の明治美術会第2回大会(明治23年)における演説「日本絵画の未来」に端を発する画題論争,さらには裸体画論争と明治の美術界は花々しい論争が繰り広げられたが,静物画に人々の関心が向けられることはなかった。黒田清輝,久米桂一郎により移植されたフランスの「印象派以後のアカデミスムとの折衷的外光派」も静物画に対して寄与するところはなかったようである。しかし,明治末期の静物画への覚醒は,大正期美術の展開のなかで,中村彝をはじめとして,キュビスムの土着化ともいえる過程のなかで産みだされた萬鉄五郎の「筆立てのある静物」(挿図)や,「近代といふものの誘惑を卒業してしまって」,クラシックな美を追求するようになる岸田劉生の,高橋由一の正嫡たる,物の真(神)に迫る一連の静物画(挿図参照)を持つことになる。中村彝,萬鉄五郎,岸田劉生という,明治末期に同様の洗礼を受けながらも,その後全く異る道をたどることとなった3人の個性的な画家によって,静物画は新たな息をふきこまれ,蘇生したといえるであろう。


「朝顔」1923年



岸田劉生
「壺の上に林檎が載って在る」
1916年



萬鉄五郎
「筆立てのある静物」
1917年

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