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壺中天異聞−伊藤利彦の作品をめぐる覚書

石崎勝基

神の与えたもうた座標軸にそって、
この箱を裏返してみましょうか?
竹本健治、「閉じ箱」



閑話休題

 たとえば『箱の中の空(A・S)』(cat.no.49)−縦に二つに折り畳めるらしき薄い木の箱、その内側は白く塗られ、中央の折り目を貫いて、葉巻だか、吃驚マークの上部分と呼べようか、そんな形が大きく占めている。形が何を表わすのか、これだけでは見当がつかないかもしれない。ただ同じ作者の他の作品を知っていれば(cat.no.48、51)、それが飛行船であるらしいことはすぐ察せられるはずだ。飛行船が空に浮いているところを真下から見上げたものか、というのは、飛行船といえば空を飛ぷものだし、それを上から見下ろすよりは、見上げている方がどちらかといえばありそうなことだろう。そして船体の数カ所から箱の下辺にのびて、だから箱ということだけとれば、開いた状態から閉じようとすると感じさせなくもない幾本かの紐も、下から見上げているという印象を支持してくれることになる。ところで飛行船ならば本体の下に船室がつきものだが、本体下半分で、胴を巻くような紐につけられた二つの四角は船室というにはいささか小さすぎるようで、とすると本体からのびる紐が結びつけられた、下辺上に並ぶ幾つかの、こちらは白く塗られていない木の形が船室を表わしているのだろうか。しかしこれは定かではない。


 やはり白塗りではない、下半分で船体の左右に配された、四角の枠と中の形も何と名づけられるものではなさそうだし、そこここに貼りつけられた格子状の紙片もその点では同様だ。こうした点が気にかかるのは、飛行船が紙なりキャンヴァスなりに絵具で描かれているのではなく、支持体にあたる箱からは独立した木で作られたレリーフであり、ということは、絵の場合以上に、現実の空間の中に存在する厚みのある物体として実在感を放っていてもおかしくないはずだからだろう。しかし実際には、縦に長い膨張感を宿した形がもたらすこともできただろう、強圧的な男根中心主義への連想どころか、現実とのきずなを断ち切って、ふわふわと飛んでいってしまいそうな非実在感がただよっている。


 この非実在感は、それがレリーフ状の物体であるということ以外の、すべての要素によって生みだされた。レリーフがただちに模型を思わせるとすれば、他の何かの写しであるかぎりにおいて、そのこともまた存在感をそぐのに役だっているかもしれない。飛行船という、現在では実用に供されていない乗りもののイメージも、現実との間に距離を開くだろう。しかもそれは空を飛ぶ乗りものなのだから、なおさら地面に足はついていまい。さらに、模型が真下から見上げる角度でとらえられていることは、まず、そのイメージが見るものとの何らかの関係の内でしか成立しないこと、次いでそうした関係が、見るものが視線を上げ下げする幅をはらんでいることを意味する。船体と下辺を結ぷ紐は、こうした関係を目に見えるものとしている。


 そして、清浄であれ喪であれ白は、現実の世界の中では、個々の物が固有色なり光の諧調の内での変化なりの形でしめしただろうそれぞれの特徴を奪いさり、箱の中の空間を非日常的なものとするのである。白が光を反射することも、箱全体から重さをそぎ、また飛行船と箱の地との差を曖昧にする。


 他方、現実の重さを失ない、閉ざされた箱という形式をとるこの作品を、その閉鎖性によって保護され、特権化された近代美術の産物として、批判的にとらえる視点も考えられなくはない。しかし箱は、かつての額縁がはたしたように、単に内側と外側を切り離し、外部の存在を不問に付してしまうとばかりはいえまい。箱はまさに、閉じてしまえるというそのことによって、内側と外側の存在を同時に照らしだすことができるのではないだろうか。箱の中の空間と飛行船は、その白さと非実在感、軽快さゆえにこそ、箱の外で現実と呼ばれる時空を相対化しうるのだ。


 実際、そこここに散らされた紙片の格子は、無限に延長しうるその性質上、まずは箱の中、また箱の中でも地にあたる部分とそこから浮きあがったレリーフの表面との段差、さらに箱の外と、幾層にも重なる空間の座標軸の断片と見なすことができるだろう。箱の縁や下辺にそった形、下半分の枠どりなど木の地のまま残された部分もまた、白く塗られた空間と外部とを仲介している。

 さらに、折れ目で閉じることができるということは、開かれた状態から絶対的な優位を奪う。開かれた状態は可能なあり方の内の一つにすぎず、シュレディンガーの猫よろしく、どちらか一方はかりそめの相でしかない。むしろどちらでもありえ、しかし今はどちらでもないという、多重的な可能性の内に振動しているのだ。また閉じた時には、それは背面を見せることにな・驕Bだから背後のない純粋な視覚的イリュージョンの発現のふりなどしようもない。閉じてしまえば壁にかけられている必要もなく、中性的な空間の内で無時間的に現前するふりを装うどころか、一時的に留まっても、いずれは去りゆくことだろう。


 とすればここでの箱は、ジョゼフ・コーネルのそれのように記憶と感情を封印するための結晶ではなく、平面とレリーフ、記憶のイメージと実在する物体、白と色、箱の中と外などとの間を区切る矛盾の内にただようためにこそ機能しているといえるだろう。


0.

 軽快さと非実在感をたたえたこうした作品と、同じ伊藤利彦の手になる初期の暗鬱な作品(本図録年譜内fig,l〜2、cat.no.1〜11)との間に開く表情の落差は、これもまた一つの矛盾と見なせなくはない。もとより、一人の作家が一貫したスタイルなり展開の必然性をしめすはずだというのは、複数の作家が一つのスタイルを共有しえないはずだというのと同様、本来別ものであるはずの、一つ一つの作品のありようないし質と、作家の活動ひいてはオリジナリティーの価値とを重ねあわせることができるだろうという、ロマン主義以来の芸術家神話に由来する近代の幻想にすぎない。この点を念頭においた上で伊藤の仕事を見渡すなら、


 i:暗澹たる表情と物質性を強調した塗りによって特徴づけられる、1950年代末から『死衣』『幡』などのシリーズにいたる時期、

 A:初期の渾沌が徐々に整理されていく『CUSTOM』(cat.no.12〜15、fig.4〜5)、『酸化・音』(cat.no.16〜18、fig.6)などによる1960年代半ばから1970年代初頭にかけての過渡期、

 B:70年代における、観念的な作業を呈示する『Condition』のシリーズ(cat.no.20〜24)

 C:そして70年代未以降現在にいたるレリーフ(cat.no.25〜51)と、


大きく四期に分けることができるだろう。この間の変容を促した要因としては、作家自身の内的な変化と外部の潮流の影響ないし呼応があげられるだろうが、差異と継続する部分をかいま見つつ、手短かにたどってみることにしよう。


@.

 1958年の第18回美術文化展に出品された『作品』(fig.1)では、樹木か珊瑚か、あるいは何かの結晶のようなものの、錯綜したさまが描かれている。それぞれの枝状の部分はくっきり他から区別できるのだが、それらがからみあって、全体としては見極めがたい。翌年の『群C』(fig.2)、次いで「或る時代』(cat、no.1)になると、部分間の区別はもはやできず、全体が一つの地の内に溶けこもうとする。画面の緑は平坦に塗られて枠どりの機能を担っているものの、『作品』におけるように部分の重なりが奥行きを生みだすことはなく、厚塗りの筆触が重ねられた大半の部分を図として浮かぴあがらせるというよりは、地自体の中から、さまざまな変化が湧きだしてきたように見える。これは、縁の暗さに対し明るい色が用いられている『或る時代(B)』(cat.no.2)、『伝説』(cat.no.3)でも変わらない。他方、画面をのぞきこむと、単なるモノクロームの厚塗りの凹凸ではなく、幾つかの色が用いられていることがわかる。『或る時代(B)』、『伝説』では、まず、薄く溶いた色が敷かれ、その上を白い筆触が厚く走っている。後者はさらに、木の節のように随所でねじれこむ。部分と全体は、決して予定調和的に収斂するのではなく、互いに拮抗しあったままとどめられているのだ。こうして画面は、動きだそうとするヴェクトルがしかし、互いに重なりあって動きようもないままに封じられ、くっきりした形をなすこともできないという、息苦しさを感じさせることになる。


 続く『死衣』のシリーズ(cat.no.4〜7)でも、暗澹たる調子は変わらない。ただここでは、縁の部分が広くなり、その分大きな形が浮かびだす。この形はしかし、ひとつのかたまりとして突きだされるというより、暗がりの中で微妙にひき下がるような揺れをはらんでいる。これは形の表面が、『或る時代』などの場合のように全体を支配するだけの大きさをもった線ではなく、絵筆を画布に押しつけてできる小さな点を、一つ一つ連ねていくことで埋められているためだ。一目でとらえられる形の大きさと時間を追った点の小ささの落差が、形からくっきりした表情を奪い、より内省的な、やはり封印された時間を宿らせるのである。


 このシリーズで点を記していくのに用いられたのはパテである。『死衣A、B』(cat.no.4〜5)では自動車の塗装などに用いられるグレーのパテに、テレピン油で溶かした黒や白を流し、黄色がかった『死衣(1)、(2)』〈cat.no.6〜7)では、ガラス固定用のパテに黄土色を混ぜたものだという。後者では、黄の輝きが光を内包させ、表出力を増している。


 ただ形と点の落差は当時、「ここにパテ(窓ガラスの接合剤)の質的なもろさがある」(1)と指摘されたような、やや脆弱な印象をももたらさずにはおかなかった。この間題が解決を見るのが、『幡』のシリーズである(cat.no.8〜11)。ここでは、点の大きさ、厚みと密度、ややくすんだ色調が画面全体との内に、きわめて充実した緊張感を獲得している。縁はさらに広くなり、黄土色とグレーの差が設けられて、形の性格もはっきりするが、同時に、形の内部にうがたれた大きな丸が、形と地を結びつける。点は筋状に並び、形に構築的な骨組みを与えている。


A.

 伊藤の初期の作品は、大きくはいわゆるアンフォルメルの一翼を担っていたと見なしうる。1956年11月東京日本橋の高島屋で開かれた『世界・今日の美術』展をきっかけに、日本の美術界でも、戦後の、シュルレアリスムに根ざしたルポルタージュ絵画ないし密室の絵画、あるいはサロン・ド・メ系の抒情的非具象にかわって、物質性と表現主義的な身ぶりを強調したアンフォルメル的傾向が席捲し、やがて反芸術的傾向に移行していくわけだが、当時伊藤が参加していた美術文化協会でも、シュルレアリスムないし非具象からアンフォルメルヘの重点の推移は、この頃の図録によってかいま見ることができる。


 そうした中で伊藤の作品は、しかし、その内省的で欝屈した表情を特徴としていた。これは伊藤自身語るように、日本画を学んだ京都市立美術専門学枚卒業後、郷里にもどってからの、肺結核に犯されての生活によるところが大きいらしい(2)。当時の評を見ても、「単調な手工芸家的な運動と思っていた点状の色塊は、よく見ると生きもののようで、生理的なねばっこい感触を与える」(3)、「微細な塊状の単調な配列が異様に臭覚や触覚を刺激する」(4、「その黄カッ色の腐敗色、ここから仏教的な怪奇がにおってくる。これはあまりにも暗い」(5)、「たしかに彼の作風はゾッとするような隠(ママ)にこもった無数の色塊の絵である。これだけ自己批判が出来れば自分を見失うことはなかろう」(6)といったことばが見受けられる。


 1960年代半ばに制作きれた『CUSTOM』のシリーズ(cat.no.12〜15、fig.4〜5)も、基本的にはこれまでの作風を展開させたものと見なせよう。やはりペインティング・ナイフを押しつけてできる点の連なりによって画面は生みだされるのだが、緑の部分はさらにひろがり、しかもこれまでのように塗りつぶされるのではなく、地がそのまま残される。これに応じて、形も流動性を帯びて伸び縮みし、波状の動きをしめしている。もって、画面は開放的な空気をまとうことになった。シリーズ後期の作品になるにしたがって(cat.no.15、fig.5)、点の配列も規則化され、形はくっきりした輪郭でかたどられる。


 赤根和生は「固定的な秩序を拒否しながら、起伏する心理の襞をかきわけてひとつの核へと凝縮しようとする沈鬱なそのイメージは、それゆえにこそ強いリアリティをもつが、より意志的な合理化によって明快な画面に近づくべきだろう」と1965年の個展の時点で記したが(7)、伊藤自身、「この頃から私は自分の作品に対して疑問を感じ始めるようになる。それは今迄の作品があまりにも自己の内面の直接的な吐露に終わっているのでは無いか、という事であった。それ等を昇華した上での新しい表現を生み出すべきではないだろうかという自問である」との意識をもっていた(8)。角田守男もまた、「これまでは色とフォルムと精神が一つの有機体となっていた。それがムーブマンのあるフォルムとオートマチックな点や点線の配列による一つの画面構成のよう、なものになってきているようだ」と述べている(9)


 こうした志向がさらにはっきりしてくるのが、続く1960年代末の『酸化・音』シリーズである(cat.no.16〜18、fig.6)。やはり基調をなす点はさらに細かく、規則的になり、くわえて、画面を図表状に結ぶ線、数字や英単語、頭部のシルエットなどが描きこまれる。この連作で一貫して用いられる銀の塗料とともに、色彩を導入した作品も見出される(fig.6)。『CUSTOM』初期までとうってかわって明快な画面は、近代の情報空間を表象したかのようで、1960年代に咲き乱れていた環境芸術、発注芸術、ライトアート等の動向に呼応したものと見なすこともできよう。たとえば当初やはりアンフォルメル的なタブローを制作していた森口宏一の、1955年以降の展開などを比較の対象としてあげることもできる。実際、このシリーズは〈酸化・音〉というタイトルがしめすように、伊藤が背から関心を抱いていた、自動車などのエンジンのメカニズムに触発されたものだという。


 このシリーズでは点は、これまでのようにペインティング・ナイフでパテをすくってつけられるのではなく、孔を規則的に開けた小さなアルミニウムの型板を用いて施されている。こうした細かい点の連なりは、当時の楽天的な動向から生みだされた作品に比べても、一種の装飾性をともなった画面の端正なまとまりをもたらしたものの、これは逆に見れば、「リヒテンシュタインは網目模様を、反芸術としての卑俗さをあらわす武器として非常に効果的に使ったのである。ところが伊藤は、ときに細密な文様となって、こぎれいにおさまってしまい、画面の他の関係とうまく呼吸しあっている。この時点で、この網目模様の威力は消滅してしまった」と批判的にとらえられもした(10)。そして伊藤自身にとっても、おのが〈疑い〉〈自問〉はいまだ解消されはしなかったのである。

(1)(守)、「解体したスタイル 第23回美術文化展(画廊)」、『朝日新聞』、1963.4.27(名古屋版)







(2)「生命の不安を追求 伊藤利彦氏(新人登場10)」、『朝日新聞』、1963.2.16(名古屋版;本図録年譜に一部再録)。
   「伊藤利彦個展(招待席)」、『毎日新聞」、1963.8.10(京都版;「数年前大手術をして生死の境をさまよったが、その時の恐怖が題になり、絵になった」)。伊藤利彦、「作品について」、『1960年代の絵画−現代美術の5人−』展図録、名古屋市民ギャラリー、1993.12.14−12.26(主催:財団法人名古屋市文化振興事業団、「1960年代の絵画−現代美術の5人−」実行委員会;年譜に再録)


(3)(守)、「停滞気分の中堅層 第22回美術文化展(画廊)」、『朝日新聞』、1962.4.26(名古屋版)


(4)「きびしい気構え欠ける 第2回選抜展(画廊)」、『朝日新聞』、1962.8.18(名古屋版)


(5)角田守男、「花開く若い18人の彩管 三重県青年実術作家展から」、『朝日新聞』、1963.12.5(三重版)


(6)(守)、「秀作ぞろいの第13号室 第4回選抜展(画廊)」、『朝日新聞』、1964.8.26(名古屋版)


(7)赤根和生、「月評」、『美術手帖』、no.263、1966.2、p.125


(8)伊藤利彦、「作品について」、『1960年代の絵画−現代美術の5人−』展図録、ibid.


(9)(守)、「ダイナミックな点線 伊藤利彦個展(画廊)」、『朝日新聞』、1966.3.30(名古屋版)


(10)「懸命に現代と取組む 伊藤利彦個展(美術)」、『朝日新聞』、1969.3.26(名古屋版)


B.

 1970年代初頭は、伊藤にとってまぎれようもない迷いの時期であったらしい。型板による網目模様の技法を具象的なイメージに適用したという『セルフ・ポートレート』(cat.no.19)は、「彼自身の存在のたしかさをつかまえようとしながら、どこかへすりぬけてしまう、何ともいえない不安な状態が提示されている」(11)と的確に評されているが、この「不安な状態」は、『酸化・音』シリーズでの装飾的なまとまりをもすりぬけさせずにはおかなかった。この頃の作品は(fig.7)、具象的なイメージと観念的な図式の重ねあわせによって特徴づけることができるが、仕上げが緻密で濃厚な色彩が用いられているだけに、図解的な空虚さに彩られてしまっている。ただ当時の作品は〈距離〉や〈時間〉を主題にしていたということで、これは後の作品に受けつがれていくことになる。


 とまれ、こうした状態から抜けだすため、伊藤は、日常的な生活から離れない形で、制作を組織しなおすための作業をおのれに課することになる。その軌跡をしめすのが、1970年代後半の『Condition』のシリーズである(cat.no.2O〜24)。すでに『CUSTOM』の主題は「自分を取り巻く世間の因習、そしてその中で繰り返される自分の日常」だったが(12)、毎日の生活のくりかえしに応じて、「毎日一つずつ、同じものを出来る限り正確に、同じように描く、同じ色を造る、同じ長さを自分の感覚で測る、というような、謂わば自分自身を対象化し、そこに関わる様々な条件を視る」べくこれらの作業は進められた(13)

 日く、『Condition(30日間の30の日本地図)』(cat.no.2O)では30日間にわたって、一枚のキャンヴァスに一日一つずつ日本地図が描き加えられる。『Condition(日々の青と赤の9段階の彩度)』(cat.no.21;毎日カドミウム・レッドないしウルトラマリンの純色から、アイヴォリー・ブラックなりジンク・ホワイトなりを混ぜ、9段階を経て灰色にいたる作業をできるだけ同じようにくりかえす。『Condition(白と黒の配合による明度14のカレンダー)』(cat.no.22);「絵具を混ぜて同一色と思われる色を毎日塗り、最後に基準となる色で一日一日塗った形のすきまを埋める」(14)『Condition(目測の30センチメートルの線)』(cat.no.23)、『Condition(日々の目測による900cm2の正方形)」(cat.no.24);毎日30センチメートルの線ないし900cm2の正方形を目測で描き、その下に正確な定規をつけたす。


 「同じ物を描いているつもりでも、その日の体調や気分によって絵は刻々と変わっていくものです。絵を一つの媒体として、時間の経過による状況の変化、物の不確かさを表現してみたい」と伊藤が述べるのに対し(15)、中村英樹は「人間の不確かさは確からしきものをのりこえるために持ち出されるというよりは、確からしきものが確かであってほしいという願望を表わすのに役立っているように見える。なぜならいずれの作品もカンヴァスの中に事物が整然と整理され、水平と垂直のスタティックな感覚でまとめられ、色の塗り方などにストイックな体質と知的なものへの信頼が感じられるからである」と記している(16)。ただ、「願望」は「信頼」にいたりえているのだろうか。モティーフの演繹的な配置もまた、「願望」のなせるわざではあるまいか。この点の解釈は徹妙だろうが、むしろ「願望」と「信頼」の微妙なはざまにこそ、伊藤の作業の所在を求めようとすることもしかし、この文の附会となるのかもしれないのだが、この点は最後にもどることとしよう。


 いずれにせよ、こうした伊藤の作業はまた、伊藤自身の問題であるとともに、当時の状況に呼応するものでもあった。アメリカでのミニマル・アートからコンセプチュアル・アートにいたる推移に応じて、日本でも、もの派以降1970年代にわたって、絵を描くこと、彫刻なりオブジェを作ることがもはや自明と見なすことができず、ゆえに何らかの規則を宙空であれ設定して、その場でものを作る作業を再建せざるをえないという意識がある程度共有されていた。伊藤の作業をたとえば、北辻良央の、地図をトレイシング・ペイパーに転写し、そのコピーを原図として再び転写するという作業を5回くりかえした作品 (1971)と比較することもできよう。こうしたいわゆる 〈プラクティス〉 によってもたらされたもの、それは観念的ではあり、しばしば安易な結果を残しただろうし、そこからの展開は個々の場合にてらして検討する必要があるとして、とまれ伊藤にとって『Condition』の作業がそれなしにすますことのできなかった対応であったことを確認しておこう。




(11)「網目風の手法 伊藤利彦個展(点描)」、『朝日新聞』、1971.8.28(名古屋版)


(12)伊藤利彦、「作品について」、『1960年代の絵画−現代美術の5人−』展図鐸、ibid.


(13)伊藤利彦、「作品について」、BOX News、no.70、1981.7(年譜に再録)


(14)中村英樹、「展評・名古屋」、『美術手帖』、no.432、1978.4、p.221


(15)「ユニークな作品ばかり 津で伊藤利彦さん個展」、『朝日新聞』、1978.3.30(三重版)


(16)中村英樹、ibid.、p.221-222


C.

『私の物差』(cat.no.25)と『あなたの視点・ボルト』(cat.no.26)は、『condition』の作業の延長として産み落とされた。ここでも牛乳瓶やボルトは一日に一つずつ作られたもので、下にそれぞれ作られた日づけが記されている。「確かな形、より実在的なものへの接近」(17)をはかってこれらレリーフは制作されたという。しかし「この作品が出来た時、自分の予期しない経験があった。それはこの作品が、どうしても或る方向からでないと形を成さないことに気付いたことである」(18)。こうしてレリーフによる『視点』のシリーズ(cat.no.27〜31、fig.9〜10)が成立するわけだが、『Condition』における客観と主観のずれという主題は、ここでも、現実のものとその見え方のずれという形で引きつがれている。このずれはさらに、「もう一つの意味」に重ねあわされる。すなわち、「それは、この鉛筆の存在する空間についてであった。一つは透視的に作られた空間に、もう一つは現実の垂直方向のパネルの上にどちらともなく在る、ということの面白さである」(19)。また、ボルトのレリーフにつけられた『あなたの視点』というタイトルがしめすように、作品がそれだけで自足したものとしてとらえられるのではなく、見る者の参加をまってはじめて成立するという意識が強まったと考えることができよう。これは、白塗りのレリーフが一見端正な仕上がりをしめすだけに、忘れてはならない点であるように思われる。


 けだし、牛乳瓶やボルトのレリーフにおいては、そこからしか「形を成さない」「或る方向」が設定され、続く『視点』のシリーズでは、三次元的な立体である現実の事物と二次元的なレリーフの見えようとを調停し、かつずれをあらわにするために線遠近法が採用されるわけだが、これは決して、固定した視点を絶対化するためではあるまい。むしろ逆に、特定の視点がたまたま選ばれたものでしかなく、他の視点が無限に可能であり、事物のあり方もそうした視点との関係の内にしかありえないことを感じとらせるのだ。伊藤自身、「すべての相対する辺が平行な六面体というのは、正確には概念の中だけにしか無いのではないでしょうか」と記している(20)。そして無限に可能な視点と、その中で宙づりにされた対象を、概念としてではなく、感覚的に感じとらせるためにこそ、端正な仕上げが要請されねばならなかった。また建畠哲がいうように、対象は「白く塗られることで、さらに日常的な思い入れを排し、視覚と空間の歪んだ相関を感覚的に抽象化する」(21)。こうした空間の感覚こそが、『視点』のシリーズとこれ以降のレリーフの核となるだろう。


 さて『視点』は、『Condition』同様、作者の日常に身近なモティーフによって始められる。そうした中では、扉や窓(cat.no.29、fig.10)といったモティーフは、それ自体空間を分割し、かつ交通させる道具であるだけに、作品の空間を生動させるのに成功しているように思われる。ドガやボナール、マティスにおける同じモティーフによる空間の交差と拡張はいうにおよばず、さかのぼってヴァン・エイクやロベール・カンパン、またフレーデマン・デ・フリースの『透視画法』の画集(1604−05)、サミュエル・ファン・ホーホストラーテンの〈覗き箱〉(1656−62頃)などを思い起こすなら、伊藤における線遠近法の使用は、『Condition』における制作のたて直しから、美術史のたどり直しをも兼ねていたのかもしれない。ちなみに伊藤のこうした線遠近法の利用は、柏原えつとむの『Silencer』シリーズをはじめとする作品(1963−1968)、高松次郎のやはり遠近法による作品(1966−67)と比較することができる。


 また『視点・朝の食卓』(cat.no.28)における新聞紙以来、伊藤のレリーフにはしばしば小さな紙がコラージュされるようになる。伊藤は戸棚をモティーフにした作品に触れた際、「これ等の戸棚の上に貼った紙片は一つの平面上に存在するが、それは、私にとって大変難儀な手順によって造られた平面上に、極く平凡な傾斜をなして在る」と記している(22)。これらのコラージュは、遠近法によって作られる白い空間の中に、小さいながらなまのものとして差しこまれることで、空間の奥行きを木でできたレリーフの表面に引きもどし、相対化する機能を担っているのだ。


 『視点・部屋』(cat.no.30)は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に描かれた室内を、イエスの側から観者の方を見たものと想定して仮構したもの。ここでも視点の相対化が主題になっているわけだが、とまれ、この頃からモティーフは作者の身辺を離れ、より自由に設定されるようになる。『窓の中の箱』(cat.no.32〜34)では線遠近法も影を潜め、平面性が強まったのに応じて、その平面性とレリーフとしての半立体性との緊張も高まっている。六つないし四つに区切られた枠の中で室内や日常の−こまがかなり抽象化されて型どられ、模型としての宇宙を見おろす視線を感じさせる。またcat.no.33とno.34では、作品が二つに折り畳める箱として作られている。これは祭壇画の形式に影響を受けたとのことだが、『箱の中の空』シリーズなど後の作品で展開されることになる。『仮の空間のフォルム』(cat.no.36)では、非具象的な線の戯れが主題となっているが、基本的な空間の性格は変わってはいない。


 1990年以降、複葉式飛行機(cat.no.37〜47、50)、ついで95年からは飛行船(cat.no.48〜49、51)がモティーフとしてとりあげられるようになる。『酸化・音』がそうであったように、伊藤は自動車や飛行機などが昔から好きで、中学生の頃は飛行機ばかり描いていたという。複葉式飛行機や飛行船自体、現在ではほとんど実用に供されていないこともあって、これらの作品はある種の距離感と場合によってはノスタルジーをまとわずにいない。ここでも『視点』以来の線遠近法による実物と見えとのずれという主題は保たれているが、それ以上に、模型を組みたて、それを自在に配置するというよろこびの比重が大きくなってきているようだ。見る側もまた、脱色された宙空に浮く飛行機や飛行船の模型を、それらをとらえるさまざまな角度のひろがりと交差にそって、目でなぞればよい。


 こうした遊戯性は、『窓の中の箱』以来の、折り畳み式の箱という形式をさらに展開することによって保護されることになる。もともとは搬入の際の便をはかるため、それに中世末期の祭壇画の形式からも想を得たというこの形式は、さまざまな変奏を得ることで、なおさら、閉じられた内部と外との区分を意識させることになる。しかし意識させるということは、内部のみを特権化するのではなく、むしろ両者の並立をこそさししめすとは、冒頭で見たごとくである。




(17)「半立体への志向−伊藤利彦個展」、『朝日新聞』、1979.10.17(夕・名古屋版)


(18)伊藤利彦、「作品について」、BOX News、no.70、ibid.


(19)id.


(20)伊藤利彦、「(コメント)」、BOX News、no.94、1982.6(年譜に再録)


(21)建畠哲、「展評・関西」、『美術手帖』、no.472、1980.11、p.244


(22)伊藤利彦、「作品について」、BOX News、no.70、ibid.


0−2.

 ある時伊藤は、箱の形式の作品について、閉じられた、すなわち作品が見えない状態の時のみ完全な形で成立し、開かれた時には蓋の部分・底の部分にパーツが分かれてしまうことを指して、一種の矛盾であると形容したことがある(23)。この矛盾が、一見滅菌状態にあるかのような白く塗られた内部を自己完結した宇宙として閉じるのではなく、内と外の境界線上に位置させるのだった。そして境界線上にバランスをとるためには、模型状のレリーフや白塗りによる抽象化によってもたらされる軽快さや端正さが不可欠なのである。この意味で伊藤のレリーフは、平面に即物的な強さを付与するため前方に突出しようとするステラのそれとはまったく異なり、むしろ、レリーフによるふくらみと透視法による奥行きが干渉しあって、中和するというのではない空間の内に現われることになる。


 さて、伊藤は1968年に「自己内部の矛盾と対決」と題した小文の中で、「一方では非個性的反自然的な今日の芸術に強く引かれながら、一方では従来の、人間としての心の内部にそのよりどころを求める。この矛盾はなかなか解決出来そうもない」と書いたことがある(24)。また1972年の「選択決断の時」では、「二者とは、例えば中原佑介氏による『永遠の美学』に対する『インスタントの美学』または『時間拡張と空間圧縮の美学』に対する『時間短縮と空間拡散の美学』とでも言ったらよいだろうか。/ところで、この中の一方は私の本性の根差す世界に属するもののように思われ、また一方は今生きるこの世界の様相に違いないのである。本当にどうにもならぬ矛盾のように思われた」と記した(25)。両者が書かれたのは『酸化・音』と『Condition』にはさまれた時期で、先に見たように自己の方途に確信を持つことのできない迷いが、こうした文を書かせたのであろう。


 ひるがえって病いのもたらした生活の重さに端を発したという初期の作品でも、画面の縁とそれ以外の部分、形と点などの関係は、決して予定調和におさまるものではなかった。『Condition』や『視点』では客観と主観、ものとその見えよう、また立体と平面とのずれが主題だった。とすれば、伊藤の制作に一貫して通底している因子として、何らかの形での矛盾をあげることができるかもしれない。もとより、矛盾という概念はあまりにも一般的だし、各時期でのそれが位置する具体的な位相はさまざまに変化している。何よりも、何らかの中心概念を設定して、ある歴史的なプロセスを説明しようとすること自体疑いを抱いてしかるべきではあろう。ただ、初期の作品と 『箱の中の空』シリーズとの間に開く落差が、一定の個性であれ状況なりが、問題解決的に展開されたことから生じたものなどではなく、そうした要素の交差の底に、つねに足を落ちつけることのできるような地盤を崩してしまう地平が開いているという意識が、その時その時の作品の形を裏打ちしていたのであり、それは一見、イメージの戯れを享受している現在の『箱の中の空』においても、箱の開かれた状態と閉じられた状態との蝶番の内に宿っているのではないだろうか?



(いしざき かつもと・学芸員)



(23)「新・美に生きる 造形作家・伊藤利彦」、テレビ東京、1992.12.5(三重テレビで1993.5.5放映)


(24)伊藤利彦、「自己内部の矛盾と対決(これから)」、『朝日新聞』、1968.1.20(三重版;年譜に再録)



(25)伊藤利彦、「選択決断の時(四00字)」、『朝日新聞』、1972.2.26(夕・名古屋版;年譜に再録)

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